史料に出てくる讃岐最初の海賊は?
 瀬戸内海は古代から「海のハイウエー」として機能してきました。そこには海賊が早くから出没したようです。海賊は、平安時代初期の史料には見え、末期になると活発化します。鎌倉幕府成立後、西国に基盤を持たない源氏政権を、見透かすかのように活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、召し捕るように命じています。
 寛元四年(1246)三月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺で最初の「海賊討伐」史料のようです。しかし、この海賊がどこを拠点としていたかは分かりません。そのような中で、讃岐の海賊衆の活動がうかがえるのが次の史料です。
   僧承誉謹中
    当寺御領伊予国弓削島所務職間事
    (中略)
 去正和年中讃岐国悪党井上五郎左衛門尉・大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下凶賊等、率数百騎大勢、打入当島、致悪行狼籍之時者、承誉以自兵糧米、相具数百人之勢、捨身命、
致合戦、討退彼悪党等、随分致忠節早
    (後略)
意訳すると
鎌倉時代の正和年間(1312年から1317年)に讃岐の悪党・井上五郎左衛門尉と大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下の賊党が数百騎を率いて、伊予の弓削島を襲い悪行狼籍を働いた。承誉は、数百勢を率いて防戦し、命を捨てて戦い悪党どもを打ち払った。忠節な輩である。

讃岐の悪党が塩の荘園として有名な東寺の弓削荘を襲っている記録です。ここに出てくる「悪党」は海賊衆でしょう。讃岐から芸予諸島に出向くには、燧灘を越えていかなければなりません。船が必要です。悪党=海賊と考えられます。ここには、讃岐の海賊衆の姿があります。
それから約140年後にも讃岐の海賊は、弓削荘への略奪・押領を行っています。その主役である山路氏のことについて、以前お話ししました。山路氏のその後の歩みについて、今回は見ていきます。

弓削荘の寛正三年(1462)の史料にも山路氏は登場します。
  (紙背)
  弓削島押領人事  公家奉公 小早川小泉方  
  海賊 能島方 山路
  此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永専口説記之
前の史料に出てきた小早川小泉・能島(村上氏)・山路がここでも登場します。小早川小泉は「公方奉公」とあります。後の小早川隆景の配下で活躍する小早川家の有力一族です。能島と山路には「海賊」の注記があります。小早川小泉は海賊でありながら細川氏の奉公衆として仕えていました。そして、能島村上氏は後の村上武吉を生み出す海賊衆です。ここでは、山路氏は能島村上氏と同列に、海賊衆として記されています。山路氏は西讃守護の香川氏の配下に入って行くことになります。その過程を追って見ようと思います。

西讃守護代の香川氏と山路氏の出会いは?
香川氏は天霧城を拠点に、後には領域支配を広げて戦国大名化していきますが、応仁の乱以前においては、あくまで守護細川氏に忠実で支配エリアも狭かったようです。そのような中で、香川氏の活動の一端がみえるのが瀬戸内海の交易活動です。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』では、国料船の船籍地が変更されています。
国料は寺社などの修造費のために給付された修造料国料の〈国料〉に由来するようです。転じて海の関所通行にあたって関銭免除の特権を持つ船になります。過書による船の特権が1回限りのもので、積荷の品目・数量についても関所でその都度、検査が行われたのに対して,国料船のチェックは緩やかだったようです。
 香川氏が守護代として管理する国料船の船籍は、元々は宇多津でした。それが香川氏のお膝元の多度津に移動しています。香川氏は、多度津の本台山(現桃陵公園)に居館を構え、詰城として天霧城を築いていたと云われます。
 多度郡の港は次のように変遷していきます。
①古代 弘田川河口の白方港
②中世 砂州後方に広がる入江の堀江港 
    港湾管理センターは道隆寺
③近世 桜川河口の多度津港
 香川氏は多度津に居館を築くと同時に、それまでの多度郡の港であった堀江湊から桜川河口に新たな港を開き直接的な管理下に置こうとしたと私は考えています。そして、瀬戸内海交易活動によって経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃一帯へ力を広げていくという筋書きが描けます。
それでは、その船の管理運営にあたったのは誰なのでしょうか?
そらが白方を拠点に「海賊」活動を行っていた山路氏だと研究者は考えているようです。燧灘を隔てた芸予諸島の弓削荘への「押領」活動が出来る海上輸送能力を山路氏は持っています。新たに開かれた多度津港に出入りする船の管理・防衛を行うには山路氏は最適です。香川氏にすれば海賊衆を支配下におくことにより、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を計ろうとしたのかもしれません。これは能島村上氏と毛利氏・小早川氏の関係にも似ています。

もうひとつ山路氏の活躍する場面が考えられます。
応仁の乱後の讃岐武士団の動きを年表で見てみましょう。

1467 寛政8・26 細川勝元,西軍の将一色義直を攻め,応仁の乱はじまる
   6・24 讃岐西方守護代香川五郎次郎と東方守護代安富盛保,上洛し合戦参加
   10・3 安富元綱,相国寺合戦において西軍に討たれる
1477 文明9 11・11 応仁の乱,終わる
   1・2 香川氏,一条家領摂津国福原荘の代官をつとめるが,年貢納入を果た
       さ ぬため興福寺より催促をたびたび受ける
1487 長享1 足利義尚,六角高頼を討つため近江坂本に布陣する
     12・7 香川元景・安富元家・安富与三左衛門尉・香西五郎左衛門尉ら,細
        川政元に従い近江六角攻めに参加する(蔭涼軒日録)
1489 延徳18・12 香西・牟礼・鴨井・行吉ら,香西党としてその勢力が京都に
        おいて注目される
 1491 延徳3 香西元長・牟礼次郎・同新次郎・鴨井藤六ら,細川政元の奥州遊覧
        に随行する
   5・16 香川元景・安富元治,細川政元邸での評定に参加する
   8・- 安富元家,足利義材より近江守護代の権限を与えられる
1492 明応13・28 香西五郎左衛門尉,荘元資とともに備中守護細川勝久と戦う
       が敗れ切腹する.
この戦で, 讃岐の軍兵の大半が討死する
   9・21 安富元家,帰京し,近江より四国勢を帰国させる.
1493 明応26・18 京都の羽田源左衛門,讃岐国は13郡,西方は香川が東方は安富が統治し,
小豆島は安富が管理していることなどを蔭涼軒主に伝える

年表からは次のような事が分かります。
①応仁の乱に、香川氏・安富氏など讃岐武士団が細川方の主力として上洛参戦している
②讃岐武士団は、京都で常駐し、その勢力が注目を集める存在になっている
③しかし、1492年の備中守護細川勝久との戦いに敗れ,讃岐の軍兵の大半が討死し、讃岐武士団の栄華の時代は終わる。
 この年表を見て気がつくのは、香川氏は細川氏の招集に応じて、京都に向けて大規模な軍事行動を応仁の乱も含めて2回行っています。
 畿内への出陣には、輸送船や警護のための兵船も必要でした。それを担ったのも山路氏ではなかったのでしょうか。山路氏は、香川氏の支配下に入り、香川氏の畿内出陣への海上勢力となったと研究者は考えているようです。
 晴元が政権を掌握した後には、西讃岐の支配は香川氏によって行われるようになります。
「讃岐国は13郡あり,西方は香川が、東方は安富が統治し,小豆島は安富が管理する」

という「蔭涼軒日録」の記述にあるように、生き残った香川氏の一族は、領国支配への道を歩み出すことになります。 その香川氏の配下についたのが山路氏や高瀬の秋山氏のようです。
 なぜ、山路氏は香川氏の配下に入ったのでしょうか。
その背景には、能島村上氏による瀬戸内海の制海権掌握が考えられます。能島村上氏は、16世紀になると管理エリアを拡大し、塩飽や小豆島までも直接的な支配下に置くようになります。謂わば村上水軍による「海の平和」が一時的にせよ、もたらされたのです。この体制下では、巨大な海軍力をもつ村上氏に楯突くことはできません。弱小海賊衆は海賊行為もできないし、警固衆として通行税の徴収もできなくなります。つまり、弱小海賊衆の存在意義が失われていったのです。
そのような中で山地氏が生き残りの活路を求めたのは、戦国大名に脱皮していく香川氏です。
  山路氏は、海賊衆から陸地の武士へと転換せざるを得なかったようです。そして、香川氏の方にも海賊衆山路氏を支配下に収めることにより、新たな領主の道を歩もうとします。両者の思惑が一致します。それが讃岐の海賊衆の終焉でもあったようです。

香川氏は、細川氏の一族抗争による衰退後は、独自の領域支配を行うようになります。
それは戦国大名化していく道でした。それに応じるように山路氏は香川氏の下で、海から陸への「丘上がり」を果たしていきます。
その姿を追ってみましょう。
  次の史料に見えるのは、香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす山路氏の戦闘姿です。それは海ではなく、陸の戦いでした。「天正十一年の香川信景の感状」です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 信景
     山地九郎左衛門殿
これは大内郡入野庄の合戦での山地九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面山に陣を敷きます。そして、十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉方の仙石秀久軍を攻めます。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山地氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
 この文書の奥付には、後世に次のように追記されています。
「右高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利薙侍之、此九郎左衛門ハ香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子乎」

とあり、意訳すると
この文書は高知の山地氏が保管していたものである。元親の次男五郎次郎が、讃岐の香川信景の養子となったが、後に病で高知に帰ってきた。岡豊城の西の小野村に居を構え、元親の家臣となった内藤左衛門・山地利薙侍は、この感状に名前のある九郎左衛門は、香川家の旧臣であり利奄蓋九郎左衛門の子のことである。
この文書からは次のような事が分かります。
①山地九郎左衛門は、香川信景の家臣として参陣している。
②山地九郎左衛門の子孫は、長宗我部元親が土佐一国に領土を削減された際に、香川氏と共に土佐に亡命し、元親の家臣となっていた
さらに研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、三木池戸村(三本松)中城跡  安富端城也、
後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、
詫間ノ城ノ城主
ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は、かつての安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。

三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。

ここからは三本松・中城の城主・山地九郎右衛門は、海賊衆山路氏の末裔であったことが分かります。そしてもともとは詫間に城を持っていたといいます。
 どうして、海賊衆であった山路氏が詫間城主となり、その後三木郡へと移動したのでしょうか。
『西讃府志』に、その謎を解く記述があるようです。
 詫間弾正居レリト云、古城記二ハ 甲斐国山地右京進細川氏二従テ来リ、此城二居テ多度三野豊田等ノ三郡ノ旗頭夕リ、(中略)
旧ク詫間氏ノ居ラレシコト明ナリ、山地氏ノ居リンハ、恐ラクハ此後ノコトニテ、香川氏二属テ、詫間氏ノ城ヲ守りシナドニヤ、又兎上(爺神)山ニモ詫間弾正ノ城趾アルナド思フニ弾正ノ時二至り、細川氏二此地ヲ奪レ、兎上山二移りシナルヲ、ヤガテ山地右京進二守モラシメシガ、其子九郎左衛門二至り、故アリテ池戸城二移サレツルナルベシ
西讃府志は、同時代史料ではありませんが、そこに書かれていることをまとめておきましょう
①甲斐国から細川氏に従って、讃岐になってきた山地氏は詫間城に拠点を構えた。
②しかし、もともとは詫間城は詫間弾正の居城であったものを守護・細川氏に奪われ
③詫間弾正は高瀬の兎上(爺神)山に逃れて、そこ拠点として新城を築いた
④その後に、守護代・香川氏は、山路氏を支配下に収めると、西讃支配を強化のために山路氏を詫間城に入れた
⑤白方から詫間へと山路氏は移動するが、詫間の港も併せ管理運用するようになった。
⑥詫間の南の高瀬郷は、同じ西遷御家人の秋山氏が香川氏のもとで領域を拡大しつつあった。

疑問点としては、甲斐からやって来た御家人がどのようにして「海賊」になって、弓削島まで荒らすようになるのかは分かりません。どちらにしても山地氏は、守護の細川氏と深い繋がりがあったようです。
 そして守護・細川氏が衰退していく中で、戦国大名への変身を遂げる香川氏の勢力下に山地氏も組み込まれていったようです。香川氏が領域支配の拡大をするにつれて、山路氏は海賊衆から陸地の領主へと性格を変えていきます。そのような中で長宗我部氏に配下に下った香川氏は、東讃平定の先兵の役割を担わされることになります。
 その先陣を勤めたのが山地氏です。入野合戦の戦功により、城を与えられたのが「中城」なのでしょう。『讃陽古城記』に「安富端城」とあるように、もともとは安富氏の出城でした。ここに山地氏を入れることにより、東讃攻略の拠点とします。東讃攻めのために十河氏を包囲する戦略的な要地です。香川信景は長宗我部勢の一隊として戦いに参陣しています。石田城攻めにさいしては、秋山杢進(一忠)も信景から次のような感状を受けています。
 今度石田城行之刻、別而被抽粉骨、鑓疵数ヶ所被蒙之由、誠無比類儀候、無心元存候条、為御見廻、此者差越候、能々御養生専一候、委細任口上候間、不及多筆候、恐々謹言
 中
 二月廿八日  
               信景(花押)
     秋山杢進殿
           まいる
このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。そして、論功行賞は、長宗我部元親ではなく香川氏が行っています。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度任されていたのではないかと研究者は考えているようです。
それを窺わせる次のような元親の書状があります
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」
意訳すると
敵の数は多かったが撃ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」
「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 山地氏を詫間から三木の池戸へ移したのも、香川氏の東讃攻略の一つかもしれません。入野合戦の際には、山地氏はこの池戸の城から出陣したはずです。その際の姓が「山路から山地」へと改名されています。これは単なる「誤読」ではなく、海賊衆から陸の武士への変身に合わせて改称したとも思えます。山地となることにより、香川氏の家臣団の組織に組み込まれたことを示すと同時に、山路氏の海賊衆からの「足洗い」の意思表明だったのかもしれません。
以上をまとめてみると
①讃岐白方を拠点とする山路氏は、芸予諸島の弓削荘に対して海賊行為や押領を行っていた
②山路氏は海賊であり「海の武士団」として備讃瀬戸の海上軍事力勢力であった
③その力を西讃守護代・香川氏は活用し、交易船や軍事行動の際の軍船団として使った
④能島村上氏の備讃瀬戸への勢力拡大と共に、讃岐の弱小海賊は存在意味をなくしていく。
⑤このような中で山路氏は、香川氏の配下で詫間城を得て丘上がりする
⑥さらに長宗我部元親の東讃平定時には三本松の城主として、戦略拠点の役割を果たした。
⑦長宗我部の土佐撤退時には香川氏と共に土佐に「亡命」した。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

   橋詰 茂    讃岐海賊衆の存在     瀬戸内海地域史研究8号2000年