以前紹介した、朝鮮の日本回礼使として来日した宋希環が記した『老松堂日本行録』には、瀬戸内海を航行した時の様子が詳しく書かれていました。応永二七(1420)年のことで、足利将軍への拝謁を終えて、帰国する瀬戸内海で海賊に何回も出会ったことが記されています。その中に備前沖で、船に乗り込んできて酒を飲んでいった護送船団の司令官のことが書かれています。名前は「謄資職」と名乗っています。
「謄資職」という人物は何者なのでしょうか?
 謄は、藤原の「藤」姓を中国風に表記したもので、「資職」は香西氏が代々使う「資」の字があります。ここから資職は、香西氏の一族と推定できると研究者は考えているようです。この記事では、酒を飲ませたと記されていますが、実態は警固料を支払ったことを示すようです。備讃瀬戸を通過する船から香西氏が警固料をとっていたことがうかがえます。
 これから200年前のことです。鎌倉幕府成立直後は、西国に基盤を持たない源氏政権を見透かすかのように平家の残党と思われる海賊が活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、海賊を召し捕るように命じています。寛元四年(1246)3月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺の「海賊討伐」の最初の史料のようです。海賊討伐に名前を残している「藤左衛門尉」も姓は「藤」氏です。想像力を膨らませると、警護船のリーダーの「謄資職」は、「藤左衛門尉」の子孫かもしれないと思えてきたりします。そうだとすると香西氏は、鎌倉期から備讃瀬戸で海上軍事力をもった海の武士であったことになります。
  香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家です。そして備讃海峡の塩飽諸島から直島にも勢力を伸ばした領主です。対外的に名乗るときには「藤」氏を用いていたようです。南北朝期以降は守護細川氏に仕え、近畿圏で活躍し、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移したことは以前に、お話しした通りです。
 細川氏の瀬戸内海制海権実現のために、海上防衛体制を任務にしていた気配があります。

香西氏が備讃瀬戸の東域を管理していたとするなら西域を担当していたのが仁尾浦の仁尾浦の神人たちだったようです。
香西氏と考えられる「謄資職」が朝鮮からの使節団の警備を行った同じ年に、守護細川満元が次のような文書を仁尾の神人に出しています。
 兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、
甲乙人帯当浦神人等、於致狼籍輩者、可處罪科之状如件
 応永廿七(1420)年十月十七日 
                  (花押)
 仁尾浦供祭人中
意訳すると
 求めに応じて兵船を提供するなど平素からの忠節は、非常に神妙である。仁尾浦の神人が狼藉の輩を取り締まり罰する権利があるのはこれまで通りである

文書の出された年月を見ると、先ほどの文書と同じ応永27年になっています。ここからは仁尾浦の神人たちも朝鮮の日本回礼使の際に、守護細川氏の兵船として御用を努めていたことがうかがえます。
 神人たちは仁尾浦の賀茂神社に奉仕する集団でした。
賀茂社は原斎木朝臣吉高が、山城国賀茂大神の分霊を仁尾大津多島(蔦島)に勧進したのが始まりとされます。その後、堀河上皇が諸国に御厨を置きますが、そのひとつが蔦島周辺だったようです。こうして仁尾浦の住人は、賀茂社の神人として特権的な立場を利用して海上交易活動にも進出していきます。明徳二年に、細川頼元が別当神宮寺を建立して以後は、祭礼に毎年のように細川氏から使者が遣わされるようになります。守護細川満元は、仁尾浦御祭人中に対する京都の賀茂社の課役を停止し、代わって細川氏に対する海上諸役を勤めるように命じます。こうして仁尾浦は京都賀茂社の支配から、細川氏の支配下へ組み込まれていったようです。
 このように仁尾浦は、
①賀茂社神人らの海上交易・通商活動の拠点であり、
②守護細川氏の守護御料所として瀬戸内海海上防備の軍事上の要衝でもあり
③直接支配のために香西氏が浦代官として派遣された。
仁尾浦が背後に七宝山が迫る耕地の狭い地形でありながら「地下家数五六百軒」を擁する町屋を形成していたのは、海上交易による経済力の大きさがあったからのようです。

 仁尾浦の警固衆は海賊衆から発展したのではなく、賀茂神社の御厨(みくり)として設置された社領の神人たちから形成されました。そのために守護直属の海軍力として、すんなりと変更できたのかもしれません。ここからは
①管領細川氏(備中・讃岐守護)による備讃瀬戸の海上交易権の掌握
②その実働部隊としての讃岐・香西氏
③香西氏配下の海上警備部隊としての仁尾・塩飽・直島
という海上警備・輸送部隊が見えてきます。このような警備網が整っていないと、安心安全に瀬戸内海の交易活動は行えません。また、京都の富の多くは瀬戸内海を通じて西国からもたらされていたのです。そして、非常時には細川氏は瀬戸内海海上輸送ルートで讃岐の武士団を招集していました。そのためにも、瀬戸内海交易ルートの防衛は、重要な意味を持っていたと研究者は考えているようです。
 小豆島の海賊衆 
小豆島の史料の中にも海賊(海の武士団)の姿が見えるようです。
 永享六年(1434)に、小豆島周辺に海賊が横行しているために、幕府は備後国守護山名氏に遣明船警固を命じています。この海賊衆は小豆島を拠点とした一団であったと考えられます。
 これより以前の南北朝期に、備前国児島郡の佐々木信胤は、小豆島へ渡り、島の海賊衆を支配下におき、南朝勢力として活動します。信胤は南朝方の紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、備讃瀬戸の制海権を握ろうとしたようです。その拠点が小豆島だったと考えられます。

しかし、直接的に小豆島の海賊衆の存在を示す史料はないようです。
 室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下にあり東讃守護代の安富氏によって管轄されていました。『小豆島御用加子旧記』には、細川氏のもとで小豆島は加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
  室町後期の小豆島池田町の明王寺釈迦堂の文字瓦に、次のようなことが記されています。
 大永八年(1528)戊子卯月二思立候節、細川殿様御家 大永六年より合戦始テ戊子四月に廿三日まて不調候、
児島中関立中堺に在津候て御留守此事にて無人夫、
本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀仏も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年廿七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ

意訳すると
 この文書は「大永七年(1527)に、細川晴元が軍勢を率いて堺へと渡り細川高国と戦った。その際に晴元は、児島と小豆島の海賊(海の武士集団)から兵船を徴発した。小豆島海賊衆は晴元に従い、一年余堺に出陣し、島を留守にしたために人夫も手当てできなかった。
  ここには「児島中関立中 堺に在津候て」と「関立」がでてきます。「関立」とは、当時の海賊の呼称であったことは以前お話ししました。小豆島にも大永年間には、海賊衆(水軍)が存在していたようです。また、その海賊衆は細川晴元の命令で動いているようです。
  天文18年には晴元と三好長慶が摂津で戦いますが、東讃守護代の安富氏は晴元に従わずに戦いには参加していません。そのためか晴元は敗れています。この時には小豆島は安富氏に領有されていたようです。小豆島の海賊(海の武士団)の命令系統は、次のように考えられます
  ①管領・細川氏→ ②東讃守護代安富氏→ ③小豆島の海賊衆

 その後の島の海賊衆の動きが見える史料はありません。
ただ『南海通記』は、島田氏が小豆島の海賊衆の棟梁として存在し、寒川氏によって率いられていたと記します。細川氏の御用下で、塩飽と同じように能島村上氏の支配下に当たっています。しかし、その状況を示す史料はなく、詳しいことは分からないようです。

以上見てきたことをまとめると
①管領細川氏は西国支配のために瀬戸内海海上ルートの防衛体制に心を砕いている
②備中と讃岐を自分持ちの国として、その間の備讃瀬戸の制海権確保に努めた。
③その際に、香西氏や仁尾浦・小豆島の海上力を利用している
④讃岐と近畿との海上輸送が確保できていたために、讃岐武士団の近畿への動員もスムーズに進み、細川家の政治運営に大きく寄与した。
⑤細川家衰退後には備讃瀬戸には、能島村上氏の力が及ぶようになり、塩飽や小豆島はその支配下に置かれることになる。
⑥また弱小の海上軍事勢力(海賊衆)は、存在意味をなくし衰退し、丘上がりをするものも現れた。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂   讃岐海賊衆の存在  瀬戸内海地域史研究8号2000年