1 承久の乱

承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐためにその荘園に、新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。 
丸亀平野では、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうち
法勲寺(鵜足郡)
櫛無保
金蔵寺領
善通寺領(那珂郡)
の四箇所が新補地頭です。
1 承久の乱2

新補地頭職には、東国の御家人たちが任命されてやってきます。政治的には、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込まれてきたのです。彼らは武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、
地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」

といったところでしょうか。
 彼らにとっては、勝者として新たな任地に乗り込んでいく占領軍のような気分もあったようです。そして、讃岐人との間には「言葉の壁」「文化の壁」もあったはずです。さらにオーバーな言い方をすると、言葉もなかなか通じないような「異邦人」であったかもしれません。地縁関係がない「よそ者」ですから年貢の取り立てなども容赦が無く「泣く子と地頭は勝てぬ」という諺が生まれることにもなります。どちらにしても、新たな支配者としてやって来た東国の武士集団は、讃岐においてもカルチャーショックをもたらしたようです。
1 承久の乱4j守護配置pg

 少し遅れて弘安年間(1278~88年)にやってきたのが甲斐源氏の秋山光季はその典型と云えそうです。
 彼は三野郡高瀬郷に拠点を構えて移り住みます。秋山氏は宗教的には熱心な日蓮信徒だったので、本門寺という日蓮宗の氏寺を建立します。そして、一族だけでなく、後には高瀬郷全体を日蓮宗に改宗していくことを進めます。清教徒によるアメリカ開拓と新世界建設のイメージとダブってくる光景です。このような鎌倉新仏教にによる宗教活動・文化活動は讃岐では初めてのことだったようで、周辺に大きな影響を与えます。
 また、彼らは軍事集団として百姓に寄生していただけではありません。自らが開発領主として、周辺開発に乗り出していきます。秋山氏のような西遷御家人は、東国で治水灌漑に取組み、先進的な技術と経験を持っていました。その経験を生かし、三野湾の干拓や丘陵部の耕地化などに積極的に乗り出していきます。
飯山国持居館1
 
東国からやってきた地頭たちの住まいは、どんなものだったのでしょうか。
彼らは東国での館を、讃岐の地に再現します。発掘で出てきた武士の居館跡は、全国的な統一性・共通性が見られます。これは各地域で独自に発展したと云うよりも、東国からやって来た西遷御家人が「東国基準の居館」を任地に建て、それを基準に広まったと考えられます。
そんな居館跡が高松でも発掘されています
 旧高松飛行場のあった高松市林町は、京都妙法院領の林庄にあたります。ここからは13世紀の武士の居館跡が出てきています。条里型地割の中に、約一町四方を大溝で囲み、その中に主屋・厩・倉と「庭(広場)」という建物配置になっています。ここでも、まんのう町吉野の大堀遺跡と同じように、大溝は地域の用水網に組み込まれています。この居館の主は「地域開発の主体者」であると研究者は考えているようです。
 主屋周辺からは、普通の集落からは出てこない素焼きの皿(カワラケ)が大量に出てきます。このカワラケは、それまで讃岐からは出てこなかった鎌倉的な形です。東国の御家人たちが地頭として定着し、構えた居館跡というイメージが浮かびます。この居館に周辺の人々を招いて酒宴が開かれていたのでしょうか。「よそ者」が地域に溶け込むための努力を行っていたのかもしれないと考えるのは、酒好きの私だけでしょうか。
 また馬の歯も見つかっています。
東国武士の騎馬姿が連想できるだけでなく、耕地開発に牛馬が使われた可能性を研究者は指摘します。この居館跡は、林庄の中心部の微高地からやや下がった低湿地部で、未開墾地だったところのようです。飯山町の法勲寺の「サコ田」と同じように、残された未開墾地の開発(再開発)に取り組んだ領主の住まいと研究者は考えているようです。
 もうひとつ注目したいのは、周囲に集落がないことです。
小規模な建物がまばらにあるだけです。ここからは近世のように集落が密集して村落を形成するというスタイルではないことがうかがえます。領主の居館の周辺に、屋敷が散在する「散村」スタイルの村落形態だったことが分かります。ここからは、この時期の耕地開発と経営が小範囲ごとに行われ、なかなか安定軌道に乗っていなかったと研究者は考えているようです。
飯山地頭一覧

 鵜足郡法勲寺領の地頭職になった壱岐時重とは? 
 上の表は、記録に残る鎌倉時代の讃岐の地頭一覧です。
法勲寺地頭職を得た壱岐時重も、承久の変後に讃岐に置かれた新補地頭の一人です。『吾妻鏡』に、彼の地頭職を巡る判決が次のように記されています。
(建長二年五月)
廿八日突巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、令兼帯本補新補両様之由、雑掌就訴申之、有評定、経年序之由、地頭難中之、無其理之間、於一方者可被停止、然者可為本司跡鰍、将又可為新補歎、随望申、可被仰下、可注申一方之旨、今日被仰下、云々
書き下すと
 廿八日、発巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、本補新補両様を兼帯せしむるの由、雑掌之れを訴え申すに就いて、評定有り、年序を経るの由、地頭之れを申すといえども、其の理無きの間、一方に於いて者停止せらるべし、然らば本司の跡たるべきか、はた又、新補たるべきか、望み申に随って、仰せ下さるべし、一方注中すべきの旨、今日仰せ下され、云々
 ここに出てくる法勲寺とは法勲寺領のことで、荘・郷などと同格に扱われています。法勲寺荘との関係は分からないようですが、寺の経営する、もともと井上郷内の公領(国有領)であったものが荘園化したものと研究者は考えているようです。その地頭職持っていた壱岐七郎左衛門尉時重が「本補と新補」の両方の権利を主張したのに対して、評定では、その理はないので、一方どちらかを選ぶようにとの裁定が降された。とあり、壱岐尉時が法勲寺領の地頭であったことが分かります。
 しかし、壱岐時重や壱岐氏については、よく分からないようです。
 一つの説は、承久の変の時に京都守護として在京していた伊賀光季の子に「時重」と名乗る者がいます。そのため伊賀光季の息子と、同一人物だと考える説です。
 2つ目の説は、下総国葛西荘出身で奥州黒沢に所領がある葛西時奥がいます。この葛西氏の諸系図には、仁治元年(1240)に讃岐に移ったとあるので、これを壱岐時重と考える説です。
 壱岐時重の名は、『吾妻鏡』康元元年(1256)6月2日条にも出てきます。
ここでは、時重は幕府から次のように命じられています。
「近年、奥州街道において夜討・強盗が度々蜂起して往還の旅行者の煩いとなっているので街道の警備に当たるように」

この命を受けて時重は、同族または兄弟の壱岐六郎左衛門尉ら24人とともに奥州街道の盗賊掃討に当たっています。これらの人々は、すべて奥州街道筋に所領を持つ地頭御家人です。まさに治安維持のための地頭の職務にふさわしい活動です。ということは、この時期には時重は、まだ讃岐にやって来ていなかったことになります。
 『吾妻鏡』には、壱岐時重と同時期に活躍する葛西七郎時重の名前が見えます。
 このふたりが同一人物がどうかも分かりません。岩手県に伝わる「葛西氏諸系図」には、壱岐時重を葛西三郎清重の子としています。葛西清重は、下総国葛西荘を本拠とし、文治五年(1189)の源頼朝の奥州征伐に従軍し、奥州総奉行に補任された幕府の功臣です。清重が陸奥に所領を得て、葛西氏は大勢力となり勢力を拡大します。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに遅参し、葛西七郡すべてを失い滅亡するようです。
 「葛西氏諸系図」には、時重の讃岐法勲寺地頭のことが記され、仁治元年(1240)に、讃岐へ赴いたことが記されているようです。これを信じると、壱岐時重は葛西氏の出身になります。
 飯山町史によると飯山町の葛西姓の家には、中世に香西郡円座保に来住し、その後に法勲寺地区へ円座の技術をもって移住したと伝えが残っているようです。葛西氏としてやってきて、讃岐で壱岐氏に改名したとしておきます。
 どちらにしても、壱岐時重は地頭として法勲寺にやって来て、居館を構えたようです。その居館がどこにあったかは分かりません。しかし、候補地の一つとして、以前見たように讃岐富士の麓のダイキ飯山店に眠っている居館跡が考えられます。ここも中世の大束川支流跡に堀を巡らした居館でした。ここを拠点に。周辺の未開発地の開発に乗り出していったのでしょう。その一族の中には、土器川の氾濫原や大窪池の谷筋のサコ田の開発を行うものも現れます。かれらは開発地に屋敷を構え、武士団を発展させて行ったのかもしれません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
 この時期の開発領主が、どのように地域支配をおこなっていたのかがうかがえる史料は数少ないようです。そんな中で丸亀市川西町にあった二村庄で、その一部を垣間見ることができます。
 まず、1204~06年(元久年間)に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分が興福寺領として荘園化します。それを地元で押し進めたのは開発領主・藤原貞光という人物です。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で古代綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。しかし、これは寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
 このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします。しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。
13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
参考文献 飯山町史