「四国遍路を世界遺産に!」というスローガンの下に、遺蹟や遍路道の調査が進められ、その調査報告書もたくさん出されるようになりました。同時に四国の各大学でも四国霊場に関する文献研究が進められ、その成果が論文となって出されています。
それでは、研究者たちは、四国遍路の成立をどのように考えているのでしょうか。  その到達点をのぞいてみましょう。
テキストは、胡光「山岳信仰と四国遍路」「四国遍路と山岳信仰」所収 岩田書院です。

 四国遍路と言えば、お大師さんの遺蹟を訪ね、本堂と大師堂にお参りする巡礼方法です。お遍路さんが「同行二人」や「南無大師遍照金剛」の文字を身にまとう姿が直ぐに思い浮かびます。しかし、このような装束も戦後のものであること研究者によって明らかになってきました。
 そして、いろいろな山岳信仰が先にあって、江戸中期から明治時代にかけて大師堂が建てられるようになります。つまり、大師信仰は霊場には後からやってきたと研究者は考えているようです。例えば、現在の四国霊場を見ても、真言宗以外のいろいろな宗派が含まれています。
  【資料1】現在の四国霊場八十八ヶ所
真言宗79 真言律宗 1  天台宗 4  時宗 1
臨済宗 2 曹洞宗 1
大師信仰に関係のない宗派がなぜ霊場になっているのでしょうか。
①真言密教系修験者によって開かれてお寺さんが、後に改宗した
②修験者が行場とする山岳宗教の拠点寺院に、弘法大師信仰が後から持ち込まれた
の二つが考えられます
明治の神仏分離以前には、次の神社も札所に含まれていました。
 近代(明治維新)の札所変更(数字は札所番号)
③一宮 → 大日寺  ? 一宮 → 善楽寺 
?五社大明神 → 岩本寺 ?稲荷宮 → 龍光寺 
55 三島宮→南光坊 57 八幡宮→栄福寺 62一宮→宝寿寺 
68 琴弾八幡宮→神恵院  83 一宮→一宮寺
   ここからも札所を「弘法大師伝説」や「旧蹟」だけで、とらえることはできないことが分かります。最近は四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが定説のようです。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする

それでは、四国霊場を成立させたのは誰なのでしょうか
それは、山岳信仰に関わる修験者たちだったようです。
  四国遍路に関わる古い文献は、平安時代木の『今古物語集』と「梁庫秘抄』です。
『今昔物語集』(平安時代12世紀初)には、
四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬にうちなされたる。」
「今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也。其の僧共、其を廻けるに思ひ不懸ず山に踏入にけり。深き山に迷にければ、浜の辺に出む事を願ひけり。」
意訳すると
今は昔、仏の道を行う三人の僧が一緒に、四国の辺地と云われる伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺を廻っていました。その僧たちは辺路を廻っているときに。思いもかけずに深い山に踏み入り、道に迷ってしまいました。浜の方に出たいと願い・・・」
 ここからは、仏の道を修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と呼んでいたことが分かります。
四国辺路1

 辺地(路)の様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』です。
「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ。」
とあります。
「忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負」うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたことが分かります。

四国辺路3 

 鎌倉時代初期の戦記物語である『保元物語』にも「仁安三年(1168)の秋のころ、

「西行法師諸国修行しけるが、四国の辺地を巡見の時、讃岐国に渡(り)」とか、「此西行は四国辺路を巡見せし」とあります

 このように平安・鎌倉時代の「四国辺地(路)」に、プロの宗教者である修行僧が修行ゲレンデを求めてやってきていたのです。このような中に、若き日の空海の姿もあったのかもしれません。
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「四国辺路(遍路)」(ヘンロ、もしくはヘジ)の文字が最初に登場するのは、「醍醐寺文書」です。
  【資料5】「仏名院所司目安案」(醍醐寺文書、鎌倉時代、弘安年間(1278~88))
一 不住院主坊事者、修験之習 両山斗敷、滝山千日、坐巌窟冬籠、四国辺路 三十三所、諸国巡巡礼遂共芸、
「(前文略)四国辺路、三十三所諸国巡礼(下略)」
この中では、修験の習いとして挙げられているのが次の3つです。
①山岳修行
②西国33ヶ所巡礼
③四国辺路
 ここからは修験者たちが修行のために、全国各地の霊山で修行を重ねると同時に、西国33ケ寺観音霊場や四国辺路にもやって来くるなど「諸国巡礼」を行っていたことがうかがえます。これらの「巡礼」は、写経などと同じ修行の一貫でした。四国辺路は修験者にとっては、自分の修行や霊力アップのためには是非行ってみたい聖地でもあったのでしょう。

神奈川県の碑伝【資料6】にも、熊野本宮長床衆の修行のひとつとして「四国辺路」が次のように記されています。
  神奈川県「八青神社碑伝」(鎌倉時代正応四年(1291)
秋峯者松田僧先連、小野余流、両山四国辺路斗敷、余伽三密行人、金剛仏子阿閣梨長喜八度 □庵、正応四年辛卯九月七日、小野、滝山千日籠、熊野本宮長床[衆]竹重寺別当生年八十一法印権人僧部顕秀初度以上三人
  ここからは13世紀末に、熊野の修験者(長床衆)が、修行のために四国辺路にやってきていることが分かります。
 南北朝時代になると、四国側の史料にも、熊野修験者の修行のひとつに「海岸大辺路」が見られるようになります。
  徳島県「勧善寺人般若経奥書」(南北朝時代、嘉慶2年1388)
嘉慶弐年初月十六日、般若菩薩、十六善神、三宝院末流、滝山千日、大峰葛木両峰斗敷、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼、水木石、人壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者為法界四恩令加善云々…熊野山長床末衆

  ここでも大峰山や葛城山や観音三十三霊場と併せて「海岸大辺路」が修行場として選ばれています。「海岸大辺路」というのは、熊野の辺路も考えられますが、「四国辺路」の可能性の方が強いと研究者は考えているようです。
 ここでも「熊野山長床床衆」が登場します。熊野信仰の修験者が四国で、辺路修行を行っていたことは確かなようです。
 そして、南北朝時代までは、四国辺路の史料に空海の名前は出てきません。では、熊野信仰の修行場に大師信仰を加えていったのは、誰なのでしょうか

研究者の間で注目されているのが、増吽僧正です。
増吽は、現在の香川県東かがわ市与田寺を本拠として、讃岐・備前・備中などの荒れ果てた寺院を次々に復興再興し、弘法大師の再来と言われた名僧です。中央にも名が知れ、熊野へも度々の参詣していますし、地元をはじめ四国各地へ熊野三社の勧請を行っている記録が残ります。
 熊野とかかわりの深い増吽は、大師信仰に何らかの関わりがあったのではないでしょうか

四国辺路3 弘法大師
研究者が注目するのが「善通寺御影」と呼ばれる大師像です。鎌倉時代の善通寺にあつたと紹介されたことから名づけられたもので、大師が釈迦如来に出会って悟りを開く様子が描かれていいます。この絵図が、増吽が活動した讃岐と吉備の寺には、よく残つているのです。
 これらの「善通寺御影」の裏書には、増吽の名が記されているものがあります。ここからはの図像を使って、わかりやすく民衆にも大師信仰を語ったのではないかという推察ができます。そうだとすれば、修験者の辺路修行から民衆の八十八ヶ所遍路への転換ポイントを果たしたひとりが増吽ということになります。
   
大師信仰が「四国辺路」に見え出すのは、中世末期の戦国時代になってからのようです。
現在の札所には、約500年前の室町時代の落書きが残っている所があります
讃岐国分寺(80番札所)本尊の下身の落書に
「弘治三丁巳(1558)六月二八日、四国中遍路 同行二人」
「大永八年(1528)五月二十日安芸宮嶋宮之浦同行四人 南無大師遍照金剛」(永正十年(1513)四国中辺路
とあります。落書きを残した四国中辺路を巡る修験者の姿が見えてきます。そして、注目したいのは「同行二人」「南無大師遍照金剛」と弘法大師伝説とつながる言葉が見えます。彼らには自分たちが弘法大師と共に、その旧跡を歩いているという実感があったことがうかがえます。つまり、ここにきて初めて弘法大師の姿が見えてくるのです。
16世紀に残された落書きで、研究者が注目するのは「四国中辺路(遍路)」という言葉です。
「中辺路」とは、一体何なのでしょうか?
  時代は下って、江戸・元禄期の案内記「弘法大師御伝記」元禄元年(1688)に
四国八十八ヶ所の札所を立て、坂の数四百八十八坂、川数四百八十八瀬、惣て四百八十八里、大辺路七度、中辺路二十一度、小辺路三十三度成る、

と四国八十八寺霊場が登場し「大辺路」「中辺路」「小辺路」と三種類の辺路が記されています。ここからは、四国遍路が八十八ヶ所となるには、大辺路・中辺路・小辺路という熊野信仰からの影響があったことがうかがえます。
  また同じ年に出版された『奉納四国中辺路之日記』(元禄元年(1688)には
合八十八ケ所 道四百八十八里、川四百八十八川、坂四百八十八坂、空[海](印)
元禄元年土州一宮 長吉飛騨守藤原
  とあります。表題が「四国中辺路之日記』ですから「八十八ヶ所巡礼=中辺路」とされていたことが分かります。
それでは、「大辺路」とは何なのでしょうか。
澄禅『四国辺路日記』を読むNO1 江戸時代初めの阿波の四国霊場は ...

四国遍路を確立したとされる真念より早い承応三年(1653)の澄禅『四国辺路日記」(仙台塩竃神社蔵)には、八十八ヶ所は登場しますが番付はありません。そして、八十八ヶ所に大三島の大山祗神社や石鎚山が含まれています。さらに奥の院や金毘羅大権現など八十八ケ所以外の寺社も入っています。そして、真念の遍路道よりはるかに道程が長いのです。これが「大辺路」で、中世の辺路修行の名残をとどめるものではないのかと研究者は考えているようです。.
 そして、澄禅が記すように、修行のプロが修行した危険な場所は、時と共に避けられるようになります。そして、素人の巡礼者は「八十八ヶ所=中辺路」のみを巡るようになっていったのではないかというのです。
四國遍禮道指南 全訳注』(眞念,稲田 道彦):講談社学術文庫|講談社 ...

 道標や遍路宿を創設して、最初の四国遍路ガイドブックを版行した真念は、大坂寺嶋の高野聖と云われます。その著作中には、空海生誕地を多度津の海岸寺周辺とする不適切な「世間流布ノ日記」に対して怒りを表現していることは以前お話ししました。
 「空海=多度津海岸寺生誕説」は、真念の案内記『四国辺路道指南』とほぼ同時期に土佐一宮で出版されています。善通寺文書の中には、これらの土佐一宮で出された「日記」(ガイドブック)が、実質的には讃岐海岸寺(香川県多度津町)が刊行し、石手寺周辺(愛媛県松山市)で販売したものだと記す包紙が残っています。海岸寺は、江戸時代に大師誕生地の名称をめぐって善通寺と争う古利です。
  ここからは、八十八ヶ所の形成記には、真念たち高野聖とは別のグループが海岸寺や土佐一宮にあって、ともに異なる主張で八十八ヶ所を広めていったと研究者は考えているようです。つまり、八十八ヶ寺のメンバーは、まだ確定はしていなかったのです。
 この背後には、真念のような高野聖や真言系修験者の動きが見えます。弘法大師大師伝説が、しっかりと霊場に根を下ろし始めたことも分かります。
 以上をまとめておきます。

四国霊場の形成過程
                    四国霊場の形成過程

ここからは「四国辺路」の時代には、あくまでプロの修験者たちの行場であり、すべての霊場が弘法大師伝説を持っていたのではないことが分かります。それが16世紀頃から弘法大師伝説が四国辺路に加えられていき、17世紀になって「四国遍路」が形作られていくことになるようです。
最後に「四国八十八ヶ所」の「八十八」という数字は何に由来すると研究者は考えているのでしょうか。
「八十八所」の初見は、室町時代後期の高知県本川村鰐口の記録とされてきましたが、内田九州男氏によって疑問視されて以後は定説ではなくなっています。江戸時代の真念は、八十八の由来について「煩悩説、厄年説、仏数説」などを出しています。
四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳 ...
弟子の寂本はその著書の 【資料15】寂本『四国偏礼霊場記』(江戸時代、元禄2年(1689)で
  八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院ハ大師出生の霊霊跡にして、偏礼の事も是より起れるかし、故に今は此院を始めとす、

 と「八十八の次第はさだかならず」とします。いまから300年前には、すでに分からなかったのです。
  それでは、今の研究者たちはどう推理するのでしょうか。
注目するのは、熊野九十九王子との関連です。
  これまで見てきたように、四国霊場と熊野は深い関係にあります。そこで、八十八ヶ所の成立にも、熊野の影響が強いのではないかと研究者は考えます。そして「八十八」と「熊野」を結びつける物を挙げていくと、姿を現すのが熊野本宮の「牛王宝印」だというのです。これは中世や近世の起請文にも使用されたもので、当時はよく知られたシンボルマークでした。

四国辺路4 師
 
「熊野山宝印」と書かれたカラス文字のカラスの数は八十八羽です。熊野先達によって神札としても広められたので、民衆にも広く受け入れられていました。同時に「八十八」は、信仰的な数字としてのイメージもあったようです。これを証明する文献史料は、今のところありません。あくまで仮説のようです。しかし、私にとては魅力的に感じる仮説です。

四国辺路4 熊野牛王

 おつきあいいただき、ありがとうございました。