江戸時代の下津井の北前肥料問屋は、下津井鉄道の誕生に重要な役割を果していることを、前回は見ました。今回は、どのようにして北前肥料問屋が、回船業者に変身したかを最初に見ていこうと思います。
近世の北前肥料問屋は、完全な仲継問屋でした。北前船の積荷としてもたらされたニシン粕を預って、委託販売し、これを内陸部の綿花栽培農家に売りさばいて利益を上げていました。しかし、明治になって棉花、藍などは、輸入商品によって農家に大きな打撃をもたらし、下津井の北前肥料問屋の経済基盤を突き崩します。先を見た北前船肥料問屋の中には、西洋式帆船を購入し回船業者に転じる道を選ぶものが現れます。
江戸時代の下津井湊
その時期は日露戦争前のようです。経営方式は、近代海運企業のコモンキャリアー(con!rnon carrler)ではなく、自己の荷物を自己の持船で運び、運賃と商利をあわせとるプライベイトキャリアー(private carrler)の形態を採っていたと研究者は指摘します。この方式は、もともと北前船の経営方式でした。1907年12月末日に、下津井を船籍港とする船舶は第五表の通りです。
①洋式帆船11隻、和式石数帆船2隻が下津井港と長浜港(大畠)に船籍を置いていること②下津井の回船問屋所有の洋式帆船は、スクーナーかトップスルスクーナー型であること③建造年月は、日清戦争後に集中していること④建造地は地元もあるが、長崎や伊予・筑前・紀伊など県外への発注もあること⑤洋式帆船所有者の家は、ほとんどが下津井鉄道の大株主であること
ここからは、洋式帆船を使った回船業で蓄積した資本が下津井鉄道建設の経済的基盤になっていることが分かります。
洋式帆船所有者には、次の2種類の船主たちがいました。
①近世の北前肥料問屋より転じた者
( 岩津、三宅、中西、古西など)②大畠の商家・酒造業出身で、明治になって回船業に進出してきた者(渡辺、永山、毛利)
彼らが当時の下津井の経済界の有力者といえるようです。
下津井鉄道建設の動機は、宇野・高松航路へのライバル意識であったことは前回にお話ししました。下津井・丸亀間の四国連絡航路を残したいという危機感と願いが彼らの団結をもたらし、地方鉄道の建設を実現させたのです。
それでは営業成績はどうだったのでしょうか。
まず下津井・丸亀間航路を見ておきましょう。この航路は、第一次世界大戦が始まる1914年3月から運行を開始します。しかし、賞業成績は振るわず、汽船および関係物件全部を田中汽船合資会比(塩飽本島)に譲渡し、これと連帯運輸契約を結んで、1922年1月には営業中止に追い込まれます。再びこの航路を系列会社として、経営を再開させるのは昭和になってからです。
下津井鉄道は、直接に岡山市には乗り入れていません。
国有化された宇野線との接続駅である茶屋町が終着駅でした。茶町は当時は小さな集落で、集客力のある施設もありません。単に距離的、地形的に最も近い駅として、接続駅に選ばれたにすぎませんでした。そのため茶川町まできた乗客は、ここで宇野線に乗りかえて岡山に行くか、馬車か人力車で倉敷に出るかのどちらかのコースをとらざるえません。つまり、下津井鉄道は直接に岡山市や倉敷市に乗り入れていないために、利益が上がりにくい鉄道だったのです。
このために倉敷・岡山方面への連絡能力の向上が求められました。
国有化された宇野線との接続駅である茶屋町が終着駅でした。茶町は当時は小さな集落で、集客力のある施設もありません。単に距離的、地形的に最も近い駅として、接続駅に選ばれたにすぎませんでした。そのため茶川町まできた乗客は、ここで宇野線に乗りかえて岡山に行くか、馬車か人力車で倉敷に出るかのどちらかのコースをとらざるえません。つまり、下津井鉄道は直接に岡山市や倉敷市に乗り入れていないために、利益が上がりにくい鉄道だったのです。
このために倉敷・岡山方面への連絡能力の向上が求められました。
このため試みられたのが茶屋町・倉敷間6,4㎞の軽便鉄道免許申請でした。まだ下津井鉄道が運転を始める前の1013年9月23日に免許申請して、翌年11月6日に認可されています。しかし、問題は資金です。会社は設立当初に資本金30万円を集め、1913年には、資金不足のために20万円の優先株による増資をすでに実施していました。倉敷へ路線延長には、増資額14万円が必要との見積もりが出されます。しかし、これを調達するだけの力は、地元にはなかったようです。認可免許については、申請期限の延期が繰り返された末に、1916年5月22日の三度目の延期願が却下されてます。そして1ヶ月後の6月22日官報に免許失効の公示が掲載されました。
当時の会社の努力は第九回営業報告書(大正五年度上期)に、次のように記されています。
乗客貨物ノ誘致吸収二対シ種々努カシ、貨物賃ノ割引又ハ督励金割戻金等ノ奨励法ヲ行ヒ一面天城倉敷間ノ人力車連絡ヲ開キ、且ツ期末春陽二際シテハ団体、遊客ノ募集ヲ行ヒ専心注意ヲ怠ラザルモ……
意訳しておくと
貨客誘致のために努力を行った。貨物に関しては割引や払戻金制度を導入し、取扱貨物の増加を図った。また、天城駅と倉敷の間には人力車を配置した。また、行楽シーズンには団体や行楽客の募集を行うなどの利用促進を図ったが・・・・
結果としては、収益増には結びつかなかったようです。
開業から10年を経た1925年、会社は次のような改善計画を鉄道省へ申請します。
弊社下津井町茶屋町間鉄道ハ 運輸営業開始以後拾数年ヲ経テ 此ノ間鉄道ノ起終点ナル下津井港及茶屋町ハ勿論沿線ノ各町村二於ケル時勢二伴フ文化ノ発達ハ異常ニシテ、加フルニ近時下津井港及対岸ナル丸亀港間二連絡期成同盟会成立シ 岡山方面ヨリ弊社線ヲ経テ丸亀方面ノ連絡運輸二対シ時間ノ短縮、輸送方ノ増大頻繁ヲ要スルニ至リ候二付テハ鉄道軌間ノ拡張及電化工事等時勢に順応セル施設ヲ致度別紙申請仕候也▽
意訳すると
弊社下津井鉄道は、営業開始以来10数年を経ました。この間に下津井港や茶屋町はもちのんのこと、沿線の発展は著しいものがあります。加えて下津井・丸亀港間の連絡期成同盟も設立され、岡山方面から弊社路線を使って丸亀方面への連絡については、時間短縮や輸送量の増大が求められるようになっています。このような情勢に応じて鉄道軌間の拡張と電化工事など時勢にマッチした施設への変更を別紙の通り申請いたします。
ここからは
①下津井港と丸亀港に「連絡期成同盟会」が結成され、航路と鉄道の利用促進運動が行われていたこと②下津井鉄道が「鉄道軌間ノ拡張及電化工事」の申請をしていること
が分かります。
「電化計画」について、申請書ではその狙いを次のように具体的に述べています。
(前略) 乗客漸次幅接シ殊二其ノ全乗客ノ大部分ハ岡山間ノモノニシテ此レガ省線茶屋町駅二於ケル乗替ハ 非常ナル困難且ツ相当ノ時間ヲ浪費シ乗客ノ不便甚ダシキヲ以テ御省御管理ニ係る宇野線茶屋町岡山間二於テ之レヲ電化施設ヲナシ弊社地方鉄道電車ヲ乗入レ運転致度 本計画ノ施設二関シテハ万事御省ノ御規則並びに御指定遵守仕ル可ク侯 間特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被成ド度此脚御願奉候也
意訳しておくと
(前略) 下津井鉄道の利用者は、次第に増えてきました。しかし、その乗客のほとんどは岡山行きのために終点の茶屋町で下りて、宇野線に乗り換えなくてはなりません。そのため不便な上に大きな時間の浪費となっています。
つきましては、鉄道省管理下の宇野線茶屋町と岡山間を電化して、弊社の電車を乗入運転できるようにしたいのです。本計画の施設整備については、鉄道省の運行規則を遵守いたします。本計画について、特別の御詮議していただき許可されるようお願い申し上げます。
ここから分かる具体的な計画と狙いを、まとめると次のようになります。
①下津井鉄道の軌間を現行の762㎜から1067㎜に拡張して、鉄道省線の宇野線と同一にする②同時に、鉄道省宇野線の岡山駅までも、電化して電車運転を行なう③そして、下津井鉄道の電車が鉄道省の線路と架線を使って岡山駅に乗り入れる
というものだったようです。
宇野線岡山・茶屋町間を下津井鉄道の手で電化し、岡山までの直通運転を計るとともに、四国連絡ルートとしての機能大改善を計ろうとするものです。ここには、会社側の決意が感じられます。電気供給は中国水力電気より行なわれるものと予定だったようです。問題は、鉄道省の対応と資金集めだと予想できます。
鉄道省の対応から見ていきましょう
申請書を受けた鉄道省監督局は監督局長名で、1925年2月16日で関係各局の意見を聞いています。これに対する各局の意見は次のようなものでした。
運輸局意見
宇野線ハ国有鉄道ノ本州線卜四国線トノ連絡幹線ナルヲ以テ 之二他鉄道ノ回数多キ電車ヲ乗入セシムルガ如キハ将来運輸上二支障ヲ及ボスコト大ナルベキヲ以テ本件ハ承認セザルコト致度
工務局意見 運輸局卜同意見
電気局意見
省ニテ岡山・宇野間ヲ電化シ茶屋町・岡山間二会社車両ヲ乗入レシムル方技術上便利卜認ムルモ差当り同線ヲ電化スルノ計画ナシ
ここからは次のような事が分かります。
①運輸局、工務局は、下津井鉄道の乗り入れを認めることは、宇野線の輸送容量からして「将来運輸上二支障」になることを挙げて反対しています
②電気局は独自の意見を出し、電化をするならば宇野線全線の電化を鉄道省自らの手によって行なうべきであるとします。そして、乗入れは便利と認めるが、今のところその計画はないと回答しています。
当時の鉄道省線の電化は、東京付近の電車区間と信越本線の碓氷峠越え以外には、なかったようです。東京・小田原間、大船・横須賀間の工事が進行中で、全国的な電化が始まったにすぎません。そのような中で、山陽本線が電化されていないのに、その支線の宇野線の電化などは計画にもなかったはずです。鉄道省側の立場としては、下津井鉄道の申請を認めることは、ありませんでした。
監督局では1926年4月21日付で下津井鉄道に次のように照会します。(監鉄第七六三号二)
客年一月二十二日付工事方法変更並省線乗入運転二関スル申請中省線乗入運転二付テハ承認ナキモ軌道改良工事ハ尚遂行ノ意志ヲ有セラルルヤ何分ノ回報相成度
これに下津井鉄道は、4月20日付で次のように回答しています。
去月12日付監鉄第七六三号ニヲ以テ御照会相成候件左二御答仕候 省線乗入運転方承認不可ノ場合ハ弊社ノ軌道改良工事ハ到底遂行出来難キ状態二御座候 間可然御処理相成度候
宇野線への乗入許可が下りない場合は、軌道工事も中止するという回答です。こうして下津井鉄道の岡山乗入計画は挫折します。もしこの計画が認可されたとしても、その資金60万円を増資で集めることは、難しかったのではないでしょうか。
会社は、方針を転換して、岡山方面への乗入れバス路線を開くという次善策で打開していきます。
1924年11月29日に、下津井・岡山間・碑田・田ノロ間・茶屋町・倉敷間の三路線についてバス営業免許を申請していました。これが翌年1925年2月26日、茶屋町・倉敷間を除いて認可されます。この区間が認められなかったのは倉敷鉄道免許線(倉敷・茶屋町間)と重複したからのようです。会社のバス事業への進出は、下津井ー岡山間・下津井ー倉敷間、田ノロー彦崎間に、バス営業者が現われたのに対する対抗策で、鉄道の岡山乗入計画も、これに刺激されたのかもしれません。
このバス路線は1925年3月より営業を開始します。これによって、岡山方面への直通運転は達成されたことになりますが、当時のバス輸送能力は貧弱でした。また鉄道の輸送能力の改善は、それ以後は手が付けられずに放置されます。戦後のバスの発達によって、運行回数が少なく乗換えの必要な鉄道は、不便な乗り物として利用者を減らしていくことになったようです。
以上をまとめておきます
①下津井鉄道は、下津井と丸亀市の株主の持株が全体の過半を占める。
②建設目的は、山陽線との連絡だけでなく、下津井・丸亀間航路を維持しようとする意図があった。
③大株主の多くが下津井の回船業者と内陸部の水田地主から成長した織物業者であった。
④下津井鉄道の建設動機は、鉄道院宇野線の開業と宇高連絡航路開設に対する対抗策だった。⑤下津井鉄道の建設を可能としたのは、軽便鉄道法施行だった。
⑥開業後の経営困難打開のために、宇野線へ直通電車を乗入れを計画するが挫折した
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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