淵野(ふちの)というところは、むかしから淵や沼の多いところでした。
沼を開墾して、田圃にしていましたが、田が深いので農作業は大変でした。
特に、田植えのときは吸いこまれそうになるので梯子を置いて苗を植えたといいます。
この淵野のお寺で、働く娘さんがいました。
とってもよく働く娘さんは、夜ぐっすりと眠ります。
よく眠っている娘さんのもとへ、若い男が通って来るようになりました。
若い男は、とても色が自く背もひょろりと高いそうです。
若い男はあまり話もせずに、夜が明けると帰って行きます。
毎晩、通ってくるのはいいのですけどあまりにも肌が冷たく気味が悪くなりました。
体中が、水のなかから出てきたようにひんやりしています。
娘さんは、お母さんに相談してみました。
「どこの人ですか。お名前は」
「わかりません。黙って帰りますもの」
「それじゃ困ります。どこのお人かたしかめましょう」
「でも、名前を言ってくれなかったら…」
「それじゃ、こうしましょう」
お母さんと、娘さんはひそひそと話しあいます。
「糸を長く通した針を、男の着物の裾につけるのです。糸は、くるくるとけるようにしておく
のですよ」
「はい」
「男に、知られないように針を刺すのです」
「はい。わかったわ」
「くれぐれも、気をつけて…」
娘さんは、お母さんに教えられたとおり男の着物の裾に針を刺しました。
翌朝、お母さんは娘の寝室から延びている糸をたどって行きました。
糸は、屋敷の外まで続いています。
そして、まだまだ長く延びているではありませんか。
田を越え、沼を越え、淵のなかへ入っています。
深い淵は、土路が淵です。
お母さんは、土路が淵の中をのぞきこみました。
すると、ぼそぽそと話す声が聞こえてきました。
「正体をさとられてしまったな。もう、通ってはいけないぞ」
「でも、娘の腹には子が宿っているワ」
色の白い男と思ったのは、土路が淵の蛇だったのです。
娘さんは、妊娠しているというのです。
それも、蛇の子を宿してしまったというので、お母さんはびっくりしてしまいました。
でも、お母さんは、あわてません。
なおも、聞き耳をたてていました。
「しかしな、人間というものは利口なものだ。菖蒲の酒を飲むと、子はおりてしまう…」
土路が淵の蛇の親子の話し声です。
お母さんはこれはいいことを聞いたと、いそぎ足で帰ってきました。
菖蒲の酒とは、五月五日の節旬の菖蒲を浸したものです。
同じように二月三日の、酒も効果があるといいます。
「お前は、たいへんなことになっています。はやく、菖蒲のお酒を飲みなさい」
一ぱい、二はい、もう一ぱいと娘さんは菖蒲の酒を飲みました。
ほどよく菖蒲酒が身体にいきわたったころ娘さんは、お腹が痛くなりました。
つきあげてくるような、ものすごい痛さです。
痛さにうずくまっていた娘さんは、驚いなたことに蛇の子を産みました。
盥に、七たらい半、蛇の子を産んだのです。
蛇の子を産んだあと、娘さんはは亡くなりました。
もちろん、蛇の子も死にました。
沼や淵の多い淵野には、娘さんのお墓がひりと建ててあります。
そして、節句の酒は、飲むものだと言い伝えられています。
北条令子 さぬきの伝説 より
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