土佐湾は九十九洋(つくもなだ)とも呼ばれ、数多くの漁業資源を昔から人々に提供してきました。その中でも「いうたちいかんちゃ おらんくの池にや、潮吹く魚がおよぎよる、ヨサコイ、ヨサコイ」とヨサコイ節で歌われているように、昔から鯨の回游エリアでもありました。土佐西部の足摺半島には「鯨野郷」という古代村落があったようで、沖合いにやって来る鯨からこの地名がつけられたのでしょう。

2土佐捕鯨1

 天正十九(1519)年、秀吉に仕えることになった長宗我部元親は、浦戸湾内に入り込んできた大きな鯨を、そのままの状態で、関白豊臣秀吉のもとに贈り、大阪の人びとを大いに驚かせたと『土佐物語』では伝えています。派手で人々を驚かすことが好きだった秀吉も喜んだことでしょう。秀吉の目指す「劇場都市国家」作りを、長宗我部元親は理解していたようです。
 今回は土佐の捕鯨と金毘羅信仰を探って見ることにします
以前に、土佐の捕鯨に関わる人たちが讃岐の金毘羅大権現の石段整備に寄進をしていることを見ましたが、今回は土佐側の背景を見ていこうと思います。テキストは
「広谷 喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 ことひら49号」です。
 
土佐の古式捕鯨は、寛永初(1624)年に安芸郡津呂浦の庄屋多田五郎右衛門が捕鯨組をつくり、藩庁の許可を得たときからはじまるとされるようです。五郎右衛門は、そのために紀州の熊野灘でおこなわれていた突取り式の捕鯨技術を習い受けています。そして鯨船十三艘を作って、室戸方面の沿岸で捕鯨をはじめます。創業5年目の寛永五年には、200人ほどの鯨取り漁師を養えるようになったようです。順調な滑り出しだったようです。
2土佐捕鯨3
 ところが次第に鯨がやってこなくなったことや技術力不足のために捕獲量が少なくなり、寛永十八(1641)年には捕鯨中止に追い込まれます。
それから10年後の慶安四(1651)年に、家老野中兼山は、他国の捕鯨団を招き捕鯨再開を計ります。

2土佐捕鯨 津呂港

野中兼山は室戸岬の先端近くに津呂の港を開きます。この港は室津港と同じく、掘り込み港です。港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。今、見ても雰囲気のある港で、非常に印象的でした。これは土佐から畿内方面への航路上で風待ちする港として重要な機能を持つようになります。同時に、新たに作られた港を捕鯨の拠点とするために、他国から捕鯨集団を招聘したようです。
 その時に六艘の船団を率いて、やって来たのが尾張国の尾池四郎右衛門です。彼は、室戸岬の安芸郡浮津浦と足摺岬の幡多郡佐賀浦の2ヶ所で捕鯨をはじめ、佐賀浦の沖で13頭の鯨を捕獲しています。それを記念した鰐口が作られて、佐賀浦の鹿島神社、室戸市の八王子宮や南国市の伊都多神社に奉納されています。しかし、これも長続きはしなかったようです。6年後の明暦三(1657)年には、尾池組は故郷・尾張に引き上げています。
 突取り法は、鈷だけにたよるきわめて原始的な捕獲法だったために捕獲量が上がらなかったようです。
このような中で、先進地の紀州では網で鯨を捕らえる方法が開発されます。新たに開発された網取捕鯨を学ぶために紀州に渡り、それを土佐に持ち帰り操業が開始されるのが天和三(1681)年のことです。この網による捕鯨方法の採用によって、土佐の捕鯨業は軌道に乗っていくようです。そして、津呂港(現室戸岬港)を拠点にふたつのグループが操業を行うようになります。
①津呂組 多田吉左衛門  →  奥宮氏
②浮津組 宮地武右衛門
が経営に当たり、以後、土佐での捕鯨は東の室戸方面、西の幡多郡窪津浦を基地として展開されていきます。

 津呂組は元禄六年から正徳二年の20年間に412頭を捕獲しています。年平均にすると20頭前後の捕獲になります。また、天保八(1839)年には、浮津組の宮地家が捕獲した鯨が千頭になったので、鯨を供養するために大きな位牌と梵鐘をつくり慰霊しています。

2土佐捕鯨 鯨位牌

それが宮地家の菩提寺である浮津の中道寺には、今も残っているようです。位牌は高さ約60㎝と大型で、「南無妙法蓮華経鯨魚供養」と大書されています。
2土佐捕鯨 鯨位牌2

室戸の発展の原点は津呂港にあるようです。
津呂に港が出来る前は、人家のまばらな寂しいところだったようです。近世になって、ここに港ができ捕鯨を中心とした漁業が盛んになるにつれて人家も増えます。二代藩主忠義が最蔵坊に津呂の港を掘ることを命じ、津呂権現の宮(王子宮)と屋敷を与え、津呂沖を往来する船の安全を祈願するように命じたとも伝わっているようです。
2土佐捕鯨4

古式捕鯨のスタイルについて
捕鯨組の当初は
勢子船十二艘
網船四艘
持双船二艘
市艇二艘の計二十艘で一団を構成していました。
後に網船十三艘、勢子船十五艘へと船を増やしています。

2土佐捕鯨 勢子船4
勢子船

勢子船一艘分に十二人、網船八人、持双船に約十人の乗組員が必要でしたので、全体では300余りの漁民たちが、海上で游泳している鯨を取り囲み、激闘を繰り広げたことになります。
 それだけではありません。何よりも鯨を発見し、知らせる「早期警戒システム」が必要になります。そのためには山見小屋に見張番を常駐させておかなければなりません。
2土佐捕鯨 山見小屋4
山見小屋

鯨発見の「しるし旗」が揚がると一斉に動き出せるように待機しておく必要もあります。沖合いの捕鯨船の合図に応え、沿岸にいて鯨納屋に連絡する人びと、陸上げされた鯨を解体する人びと、鯨納屋で鯨肉を取引きする人びとなどを数えると、大変な数の人びとが捕鯨業に参加していたようです。
2土佐捕鯨 鯨解体3

鯨肉の入札には、商札を持つ商人だけが参加できたようです
多い時には商札が177枚が発行されています。数多くの商人の参加があったようです。鯨肉や皮はそのまま塩漬されて大阪市場へ送られました。その運送船が「鯨五十集」といわれる船でした。
 「鯨一頭捕獲すれば七浦が賑わう」
といわれていたように、鯨肉は食用に、鯨油は灯火用や農薬用として利用価値があり、骨は細工物に、骨粕と鯨の血は肥料用に利用されてきました。骨粕は砂糖キビ畑の肥料として、九州方面に売られていたこともあったようです。

2土佐捕鯨 鯨解体4

 鯨は経済的に非常に高い価値をもっていました。

しかし、沖合いを泳ぐ鯨は捕まえることはできません。ただ沿岸に近づいた鯨を、網代に追い込んで捕獲するだけでした。それも百発百中というわけにはいかなかったようです。捕鯨人には、給与として米と酒は充分に支給されていたようです。そのため
「酒は水なり、米は砂と思え」

と、捕鯨人たちは鯨を捕獲したといえばすぐに宴席を設けて祝い、不漁といえば酒宴を張って景気づけをしています。彼らにとっては酒は欠かすことのできないものであったようです。
 特に不漁時の「神さまや仏だのみ」は欠かすことのできない重要な行事だったのです。まさに神頼みしかなく、捕鯨従事者は信心深い人びとにならざる得なかったのかもしれません。

室戸市にある土佐捕鯨創始者の多田家の墓地には、地蔵さまの形をした大きな墓が七基あります。
これは鯨供養の意味を込めてつくられたようです。また、鯨供養のためにつくられた地蔵が、もうひとつの捕鯨基地であった足摺岬の幡多郡窪津浦の海蔵院にもあります。
海蔵院の「鯨供養地蔵」
ここには
「へんろみち 文化九(1812)壬申 津呂組 為鯨供養也 施主鯨方当本 奥宮正敬立之」

と刻まれています。室戸の網元奥宮三九郎正敬が建てたことが分かります。奥宮家は、季節を変えて室戸と足摺の二つのエリアで操業していたようです。この窪津の鯨納屋のあった場所には、現在でも豊漁を祈願するための戎神社があります。その石灯龍には
「文化六(1809)己巳春建之 鯨場所中常夜燈 鯨方当本 元村住奥宮三九郎正敬
 
「法界萬霊 土州安喜郡元村住 施主奥宮三九郎正敬 文化十発酉年(1813)十一月吉日」

と刻まれています。窪津浦には、この他にもいくつかの常夜燈が捕鯨関係者によって寄進されているようです。これ以外にも
①文政十五(1832)年に奥宮三九郎は大きな石灯龍二基を寄進
②文政九(1826)年には安芸郡浮津浦商人の谷伴蔵が世話人になり、室津浦や浮津浦の鯨方商人の数人と共に琴平宮の手洗鉢を奉納。

窪津の戒神社脇の「法界萬霊地蔵」文化10(1813年)に奥宮正敬氏建立。

このように室戸の捕鯨網元奥宮正敬は、土佐の室戸や足摺の捕鯨エリアに鯨供養の灯籠などをいくつも寄進していることが分かります。
このような彼の寄進活動の一環が金毘羅さんへの石段整備だったのかもしれません。
四段坂の石段整備の石碑には下のように彼の名前が残されています。 

5 敷石四段坂55

この四段坂の銘文に見える宮地十太夫元貞と奥宮三九郎正敬は、二人だけで三段目の石段を全て奉納しています。それは文化8(1811)年のことです。こうしてみると、奥宮正敬は灯籠などを毎年のように、室戸か足摺か金毘羅さんに奉納していたことになります。土佐の捕鯨網元の信仰心の厚さを感じます。

参考文献「広谷喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 
ことひら49号」