「丸亀繁昌記」の冒頭は、次のような文章で始まります。
「玉藻する亀府(丸亀)みなとのにぎわいは、昔も今も更らねど、猶神徳の著しく、象の頭の山へ(象頭山)、歩みを運ぶ遠近の道俗群参す、数多の船宿に市をなす」
また、江戸千人講の趣意書「讃州丸亀平山海上永代常夜灯講」『孤座特質』)には、
「讃州丸亀平山海岸は、往古より 金毘羅参詣の渡海着船の処にて象頭山へ順路の要地なり……」
と記されます。丸亀が金毘羅船の帰着港で「象の頭の山」に向けて多くの人が歩み始める要地として認識されていたことが分かります。
19世紀になって新湛甫ができ銅灯寵が建立され、参詣客がいっそう増えると、その恩恵に浴した船宿やその他の人々が、玉垣講や灯明講を結成して玉垣や灯寵を寄進しているのは、以前にお話ししました。丸亀からの寄進について、もう少し踏み込んで今回は見ていきたいと思います。
丸亀玉垣講寄進の玉垣(四段坂)
丸亀玉垣講
右は御本社正面南側玉垣寄附仕り候、且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、戸帳料として当卯・天保12(1841)年に金子弐拾両、勘定方え相納め侯事、但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛 金刀比羅宮文書
意訳すると
丸亀玉垣講は本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進した。また内陣での参拝料として1841年に二十両を勘定方へ納めた。丸亀玉垣講のメンバーは毎年正月と九月の2回、総勢180人ほどで参拝する。取次宿は余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛である。
ここからは、丸亀玉垣講が本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進したことが分かります。この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)がやっと姿を見せて、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
そんな中で、
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったようです。
親柱に、「天保十三年(1842)九月」と奉納年月があります。
この玉垣講のメンバーはどんな人たちなのでしょうか。
「船宿中」の「中」は「御中」と同じような意味で「仲間・衆」と考えれば良いようです。「船宿衆」が世話役として、この玉垣建立を進めたことが分かります。そのメンバーとしては、佃屋金十郎と明石屋又兵衛、柏屋団次、阿波屋栄吉、備前屋藤蔵、大黒屋清太夫の名前が見えますが、彼らは銅灯寵建立のときの寄進にも名前があります。その末尾には「丸亀船宿」としてあみや為次郎、米屋弥太夫、つくたや金十郎の名前もあります。文化十四年(1817)、奈良の椛屋半助の四角形石灯寵一基の奉納を取り次いだ淡路屋市兵衛、天保五年京錦講の八角形青銅灯寵二基の寄進を取り次いだ多田屋為助の名もみえます。
ここからは、この丸亀玉垣講のメンバー180名の多くが船宿の宿主で、丸亀港周辺の整備や灯籠・丁石設置に関わっていたことがうかがえます。
次に灯籠を寄進した丸亀灯明講について見てみましょう。
講元は梶春助、灯明料として一五〇両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納、講中は毎年九月十一日に残らず参詣して内陣人、そのたびに金子五〇両寄附、宿は高松屋源兵衛
と記されています。
意訳すると
丸亀灯明講の講元は梶春助で、灯明料として150両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納した。講中は毎年9月11日に講員が残らず参詣して内陣に入る。そのたびに金子50両を寄附する、取次宿は高松屋源兵衛である。
灯明講も玉垣講と同じ年の天保十二年(1841)に結成されています。両者が競い合うように同時期に作られたようです。そしてすぐに六角形青銅灯寵両基を奉納しています。

鉄屋弥兵衛、竹屋粂蔵、板屋清助、槌屋茂右衛門、銘酒屋喜兵衛、指物屋嘉右衛門、油屋茂助、糸屋喜四郎、笹屋仁兵衛、万屋豊蔵です。扱っている商品が目に浮かんできます。
船宿以外の商人たちで構成されているのが灯明講という印象を受けます。
屋号毎に見ていくことにします。
①吉田屋は灯明講に6軒ありますが、玉垣講にはなし。。②唐津屋は灯明講に3軒あるが、玉垣講には1軒のみ。③松屋が灯明講では7軒、玉垣講では2軒のみ。④塩飽屋は灯明講に4軒、玉垣講に8軒
⑤越後屋は灯明講に6軒、玉垣講には1軒もなし。
ここからは、灯明講と玉垣講のメンバーは丸亀城下でも異なった仲間同士であったことがうかがえます。丸亀玉垣講寄進の玉垣は、天保十三(1842)年9月、四段坂の権現前に建てられます。その二年後に、その対面に明石玉垣講からの寄進の玉垣が建立されます。この取次を行ったのは、丸亀船宿・明石屋又兵衛です。明石屋は、その屋号どおり、明石に縁のある家だったようです。丸亀の玉垣講の前に、自分の故郷の明石講を導いたようです。
金毘羅参拝客相手の客商売の旅館(船宿)の主と、城下町の住民を相手にする商売主との間には人脈的にも、隔たりがあったようです。
金毘羅参拝客相手の客商売の旅館(船宿)の主と、城下町の住民を相手にする商売主との間には人脈的にも、隔たりがあったようです。
参考文献 町誌ことひら
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