まんのう町勝浦 四つ足

琴南町誌には、庄屋たちの家に残されていたいくつかの史料がふんだんに使われていて、地主達の日常業務が見えて来ます。その中からいろいろな出来事に対応を迫られていたことを日記風に記したものに出会いましたの紹介します。
 金毘羅さんの賑わいは、春と秋の大祭の日が一番でした。今年(文化8(1811)も秋の大祭が近づいてきた10月3日のことです。讃岐山脈の阿波との国境の近くの鵜足郡勝浦村の状継(じょうつぎ)福右衛門は、大庄屋の宮井伝左衛門と木村甚三郎の連名の飛脚便を受け取ります。その内容は、金毘羅大祭について参拝者に注意するようにという内容でした。それには髙松藩の郷会所の元締の中村甚三郎と柏原弥六の連名で、走り書きにした大庄屋宛の次のような手紙も添えられていました。

一筆申上候。然ば金毘羅会式につき、西郡の面々心得違無之様 可仕旨被仰出候間、其旨村々え洩れざる様御中渡置可被成候。

意訳変換しておくと
 一筆申上候。金毘羅大祭については、鵜足郡西の面々に心得違いのないように行動すること。その旨を村々へ洩れなく申しつたえるように

去年までは回状で、中通村の肝煎(きもいり)が届けてきた。それなのに、今年はわざわざ飛脚便で知らせてきた。これは昨年の大祭で、勝浦村の若者が間違いを起こしたからだろう。書状を見ながら昨年の苦い思い出がよみがえってきた。
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 勝浦奈良の木坂の孫兵衛は、24才の真面目な働き手です。
去年の大祭に、阿波から参詣する知人に誘われて、初めて金毘羅さんの大祭に行きました。あまりの賑わいに呆然としている所を、すりに狙われます。気がついて、そのすりを大力で投げとばしたところ、稼ぎに来ていたすり仲間と大喧嘩になり、危ない所を金毘羅領の年寄玄右衛門に助けられます。稼ぎを台無しにされたすり仲間の復讐を心配した玄右衛門の計らいで、五日間の入牢を申し付けられ、這々の体で村へ帰ってきた。
そのことを覚えていて藩の役人は、こんな達しをわざわざ回覧したのだろう。さて、昨年のようなことが起きないように、村衆に伝えなければなるまい。さて、どのように話したらよいものか。飛脚便を手にしながら考え込む福右衛門でした。

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勝浦神社の狛犬
 それから十日余りたった日の夕方、中通村の肝煎が一通の手紙を届けてきた。
村継ぎの手紙であるので急いで封を切って見ると、柏原弥六の達筆が、躍るように眼にとびこんできた。
一筆申達候
其御村 松五郎
  同 東吉事 秀吉
 右の者饂飩(うどん)・蕎麦(そば)商い申義、金毘羅春秋両度の会式中相済み、已来平日は不相成候段御申渡可被下候以上
  文化八年十月十三日  柏原弥六
佐野直太郎殿(勝浦村の庄屋)
意訳変換しておくと
右の者はうどん・そばの商いを、春秋二回の金比羅大祭の時だけ許している。祭りが終われば、平日の商いは行ってはならない。
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まんのう町勝浦神社

 松五郎と秀吉は働き者で律義者だ。毎年大祭の時に、金比羅でのうどんと蕎麦の商いを許されて、その儲けを足しにして百姓を続けている。大祭が終わるとその翌日には、店をたたんで百姓仕事に精出している。どうして、わざわざこんな通知が届いたのだろうか。商いをすることが許されない村の者が、告げ口でもしたのであろうか。入念な達しに、不安を感じないではいられなかった。当事の村人に、移動・営業の自由はありませんでした。大祭の時にうどんや蕎麦を出すことができるのも許された人間だけでした。
 それにしても、お殿様は昔から商いがお嫌いだ。
百姓が商いをすれば儲けに眼がくらみ、野良仕事が嫌いになり、年貢を納めなくなる者がふえると思っておられるのか。毎年この村で十人以上の者が出店を願い出るのだが、許されるのは二名か三名だけだ。手紙を庄屋日帳に写し取りながら、福右衛門は、働き者で子沢山な東兵衛の腰が少しまがりかけたことや、鉄砲の名人の秀吉が、獲物に狙いをつけた時の精悍な顔つきを思い浮かべていた。
         まんのう町(旧琴南町)勝浦 牛田文書より
藩からの書状は、大庄屋のところへ届けられ、それを大庄屋がいくつか写し取って、決められたルートで各庄屋へ送付しました。受け取った庄屋も、保存用に一部写し取って、次に廻すことになります。これらを残しておくことが役に立つことを体験的に知った庄屋は、日記と共に書状を写し取って保存することが日常化します。そのため、代々庄屋を務めた家には、膨大な藩からの書状が残ることになります。それらが旧琴南町には、牛田・西村・稲毛などに残された庄屋文書になります。もう少し、話を続けます。

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まんのう町勝浦 今は亡き旧長善寺

○お殿様の金毘羅さん御参詣の動員
 天保二年(1831)3月23日の辰の刻、鵜足郡造田村の庄屋西村市太夫は、大庄屋木村甚三郎と宮井清七連署の、山分村々回文を庄屋日帳に書き写して本文と読みあわせてみた。
○以回文申入候。
殿様来る廿六日より同二十八日の内、金毘羅へ御往来共御遠馬にて御参詣被為遊候由、依之御当日御前日共、於栗熊東継更人馬別紙切符の通割紙相回候間、同所より触れ込次第毎々の通、宰領組頭相添御指出可有候。
大抵廿六日中御社参の御様子に相聞候間左様 御心得御取計置可有候。
 一 草履・草軽・馬沓(くつ)並拝駕龍共 明日中に栗熊東馬継所迄 御指越可有候。為其急中入候。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
意訳変換しておくと 

殿様が来る26日から28日に、金毘羅参拝のために髙松街道を馬で往来することになった。ついては当日・前日共に栗熊東に人馬を別紙の通り準備するように伝える。書状を受け取り次第、宰領組の頭は各組に指示をだすこと。
26日中に参拝予定と聞いているので、そのつもりで準備にあたること 御心得御取計置可有候。
 一 草履(ぞうり)・草軽・馬沓(くつ)や駕龍などは 明日中に栗熊東の馬継所まで運び込んでおくこととの御指図があった。急ぎ申し送る。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
高松の殿様が3日後の26日~28日に金毘羅さんに参拝することになったので前例通り準備をするようにとの内容です。造田村の割当をもう一度確認する。
 O殿様御遠馬の割当 造田村
  御前日、御当日共。
 一、人足三拾四人。
 一、馬弐疋。
 一、草履六足。
 一、草靫六足。
 一、馬沓弐足。
 書き誤がないことを確かめた市太夫は、末尾に連記された長尾村、炭所東村、炭所西村の次の造田村の肩の所に「(合点(がってん)」を入れます。そして辰の刻と書き込んで仮封をし、肝煎の助蔵を呼び寄せて、大急ぎで中通村の庄屋磯太夫の地下清(じげんじょ)の宅まで届けるよう命じた。

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馬沓 馬にもわら草履を履かしていた

 三日前になって突然、殿様の金比羅参拝のための人足と馬・草履などを準備せよとの通達です。ここでも送られてきた書状を写し取り、内容確認の上で、次の庄屋宅へ送り届け指しています。

草履六足、草靫六足、馬沓弐足は明日中に栗熊まで持参せよとのことだ。急がなければならない。前日からは、人足34人と馬2頭を引き連れて行かねばならない。誰を連れて行くのか、どの馬を選ぶのか、頭の中で算段を始めていた。

髙松街道に面する鵜足郡南部の長尾村、炭所東村、炭所西村、造田村、中通村は、一つのグループで、
殿様などのVIPが髙松街道を往来するときには、人馬の提供義務がありました。その数も人足34人です。これを引き連れて栗熊まで出向くことになります。

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まんのう町福家神社
お殿様の金比羅詣でが終わったと思ったら、今度は御姫様の金毘羅参詣が通知されてきた。
 4月7日付の大庄屋からの回文によると4日後の11日のことだという。回文が届いた翌日には、金毘羅街道に近い村々の庄屋が、お姫様の御小休所に指定された栗熊西村の浪士平尾庄之進宅へ召し出されて、打ち合わせを行った。終わったのは未刻(午後2時頃)を少し回ったころであった。造田村の割当りは次の通りになた。
O御姫様御参詣に付掛りの物 造田村
 一、興炭 壱俵。
 一、薪  貳束。
 一、草履 四足。
 一、草桂 四足。
   右は九日中に指出候事。
 一、人足三拾人、御前日、御当日。
 一、馬 三疋、右同断。
    但しとゆ持参有之様申越候。
 一、外に壱人、掛り物送り人足。
炭や薪はすぐにでも集まるが、人足を三十人出すのは骨が折れる。殿様の金比羅詣での度に、呼び出されるのはなんとかならないものか。今年は、これで二回目だ。
 
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4月23日、大庄屋の宮井清七から3月の殿様御遠馬の入目割当(決算書)が届いた。
〇殿様御遠馬の入目割当 造田村
 一、御遠馬入目割当  銀九匁八分。
 一、御社参の入目割当 銀三十四匁五分。
            〆銀四拾四匁三分。
 殿様の参拝にかかる費用を、どうして村々が支払わなければならないのか。昔からの決まりだと云うが、どうも合点がいかない。浮かぬ顔で市太夫は算盤をとって、弾いて見た。高869石の造田村の割り当りが、44匁3分である。藩全体では、大高を21280石と見て、御遠馬の総入目は、十貫弐百六拾目余かかったことになる。四月のお姫様御参詣の造田村の割当は、六十目を超えるのでないかと案じられた。

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 市太夫は、造田村の割当りから、人足賃などを差し引いて、尚七匁九分の銀を、組頭の夫右衛門に持たせて。日限ぎりぎりの27日に川原村の宮井清七の宅へ届けさせた。
                   造田村西村文書より
こうしてみると、庄屋には文書・算用能力が欠かせないものであったことがよく分かります。ちなみに、ここに登場する造田村の庄屋西村市太夫はやり手で、義兄の金毘羅の油屋・釘屋太兵衛と組んで水車経営などのいろいろな事業を展開していたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 2025/02/11改訂版 
参考文献
 大林英雄 御神徳を仰ぐ人々 こんぴら 昭和60年
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