
三豊市の古三野湾をとりまく古代史については、以前にお話ししました。改めて確認しておくと
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。
今回は中世の三野湾について見ていこうと思います。
三野という地名の由来は、古代律令制下の郡名からきているようです。古代の讃岐国には11の郡がありましたが、その内の一つが三野郡です。三野郡は勝間・高瀬・熊岡・大野・高野・本山・詫間の七郷
からなっていました。現在の三豊市のエリアとほぼ重なることになります。三野湾をとりまく旧三野町は、昭和三十(1955)年に大見・下高瀬・吉津の三つの旧村が合併してできた町でした。大見・下高瀬地区は、高瀬郷、吉津地区は詫間郷に属していたようです。つまり、古代の三野郡と戦後にできた三野町とはまったくエリアが異なることを初めに確認しておきましょう。その上で、旧三野町の大見・下高瀬・吉津の地域を見ていきましょう。
下高瀬は、高瀬郷が二つに分けられた片方です。
鎌倉時代末期の元徳三(1331)年の史料(秋山家文書)に、
「さぬきのくにたかせのかうの事、いよたいとうよりしもはんぶんおは、まこ次郎泰忠ゆつるへし」
漢字に置き換えると
讃岐国高瀬郷の事、伊予大道より 下半分をば 孫次郎泰忠に譲るべし
となります。高瀬郷を支配していた秋山家の当主・源誓が、息子の孫次郎泰忠へ地頭職を譲る際に作成した文書です。ここからは、次のような事が分かります。
①伊予大道が高瀬郷を貫いていた②「伊予大道より下半分」の所領が孫次郎に譲られた
これで伊予大道を境にして、高瀬郷が上下に区分されたことになります。つまり上高瀬・下高瀬が生まれたようです。上下のつく地名は、各地にありますが、街道や河川を境に分けられた地名のようです。上高瀬は高瀬町、下高瀬は三野町に属していますが、高瀬と名がつけばどちらも高瀬町だと思ってしまいます。
次に大見地区です。
この地区は、中世には高瀬郷に含まれていました。そのため中世の下高瀬というのは大見地区も含んでいたようです。
この地区は、中世には高瀬郷に含まれていました。そのため中世の下高瀬というのは大見地区も含んでいたようです。
秋山家の源誓が、息子の孫である泰忠に譲った所領は、大半が三野町域にあったようです。例えば、
「すなんしみやう(収納使名)」「くもん(公文)」「たんところみやう(田所名)」
は、大見地区に見る砂押・九免明・田所が比定できます。
最後に吉津地区です。
詫間町の浪打八幡宮の年中行事番を示した南北朝期の史料(宝寿院文書)に、「吉津」の地名が見えます。吉津は、詫間とや比地と同じグループで、詫間郷に属していたようです。
詫間町の浪打八幡宮の年中行事番を示した南北朝期の史料(宝寿院文書)に、「吉津」の地名が見えます。吉津は、詫間とや比地と同じグループで、詫間郷に属していたようです。
以上から中世と現在の行政地域とは、まったく異なることが分かります。行政区域は、人為的に後世に引き直されることが多々あります。丸亀藩と高松藩の「国境」などもその例かもしれません。人間が勝手に行政区域を設定しても人や物の移動は、地域を越えて行われます。行政単位で見ていると、見落とす事の方が多くなります。
平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。
さぬきの国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを
ここからは西行が「みのつと申す津」に上陸したこと分かると同時に、三野に港があったことも分かります。
吉津には「津の前」という地名が残ります。これは港湾施設に関係する地名と研究者は考えているようです。また「東浜・西浜」もあります。これは、この地域が砂浜であったことがうかがえます。津ノ前から東浜・西浜を結ぶラインが、海岸線であったようです。中世の三野津湾の海岸線を示したのが上図ですが、大きく南の方へ湾が入り組んでいたことが分かります。その奥まったところに港が建設されたようです。ここから宗吉瓦窯で焼かれた瓦も藤原京に向けて積み出されていたと研究者は考えているようです。

太実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名
三野町の中世文書より
吉津には「津の前」という地名が残ります。これは港湾施設に関係する地名と研究者は考えているようです。また「東浜・西浜」もあります。これは、この地域が砂浜であったことがうかがえます。津ノ前から東浜・西浜を結ぶラインが、海岸線であったようです。中世の三野津湾の海岸線を示したのが上図ですが、大きく南の方へ湾が入り組んでいたことが分かります。その奥まったところに港が建設されたようです。ここから宗吉瓦窯で焼かれた瓦も藤原京に向けて積み出されていたと研究者は考えているようです。

私は、津嶋神社のある津嶋に古代の港があったのではないかと思っていたのですが、「津の島」は津(港)に入るための目印の島と研究者は考えているようです。
讃岐では古くから塩が作られてきました。讃岐の生産地を見てみると。
①九条家領であった庄内半島の三崎荘②阿野郡林田郷の潮入新田が開発され塩浜造成③石清水八幡宮の神事に用いる塩が小豆島肥土荘で生産④塩飽でも盆供に用いる塩が生産され、年貢として貢納
三野湾でも中世には塩田があったことが史料に見えます。
秋山泰忠の置文(秋山家文書)の中に、次のように塩田が登場します。
「ははの一こはしんはまのねんく又しをのち志をはしんたいたるへし」
漢字に変換すると
「母の一期は新浜の年貢、又塩の地子をば進退たるへし)」
と、母の供養には、新浜の年貢や、塩の売上金を充てなさいと、指示しています。ここからは秋山氏が「新浜」に塩田を持っていたことがうかがえます。塩の売買という農業収入以外のサイドビジネスを持っていたことは、秋山氏の経済基盤強化には大いに役立ったことでしょう。また、塩の輸送を通じて、瀬戸内海交易への参入も考えられます。
塩浜があったとすれば、塩作りには燃料となる材木が必要になります。この材木を供給する山を塩木山と呼び、塩浜の近くに確保されていました。東浜・西浜の付近で材本を提供できる山を探してみると、吉津の北に「汐(塩)木山」があります。この山が製塩に使用する材木を供給した塩木山であったと研究者は考えているようです。
三野湾周辺は、古代後半には開発が急速に進み、宗吉窯や製塩の操業のために燃料となる木材が周辺の山々から切り出されます。禿げ山化した山からは大量の土砂が三野湾に流れ込むようになります。それが急速に三野湾に堆積していったことは以前にお話ししました。古代に環境破壊問題が三野湾には起きていたのです。
もう一度、中世地形を復元しながら三野湾周辺の地名を見てみましょう。
大見地区は砂押・九免明・田所といった地名がありました。これらはいずれも農村から税を徴収する機構や年貢請負人の役職名に由来する地名です。弥谷山系と貴峰山とに挟まれた谷筋を水源として早くから田畑が開かれていたようです。中世では、農地を切り開くにはまず水の確保が必要でした。山間部で、不便と思われる谷筋ですが、湧き水などを確保しやすいので、大きな労働力が組織できない中世では「開発適地」だったようです。谷筋を水源とし、そこから引いた水で山裾の田畑を潤すという灌漑方法です。秋山氏が所領として、開発していったのは大見地区と研究者は考えているようです。大見地区が先進地域でです。
ところで、この水田では、どんな米が作られていたのでしょうか?
永和二(1376)年の日高譲状(秋山家文書)の中に、次のように生産米が記されています。
「たうしほふつかつくり候た、にんかうかちきやうせしかとも、ちふんやふれてもたす」
漢字変換すると
「唐師穂仏禾作り候田、日高か知行せしかとも、地文破れて持たす」
とあります。
「唐師穂を作っていたが、日高(秋山泰忠)が所有していたが、土地が崩壊して栽培出来なくなった」
というのです。
唐師穂とはインディカ種赤米のことで「大唐米・とうほし(唐法師)・たいまい」などと呼ばれていたようです。この赤米は旱魃に強く、地味が悪くても育つので、条件の悪い水田で古代から栽培されていました。
十五世紀中頃の『兵庫北関入船納帳』にも、讃岐船が大量の赤米を輸送していた事が記録されています。赤米は、干害に苦しむ讃岐の「特産物」となっていたようです。この赤米が日高(秋山泰忠)の所有する土地で作られていたことが分かります。耕作地は、「すなんじき(収納使職)」で、すなわち砂押地域のことです。この赤米耕作地が「ちぶんやぶれ」(土地の状態が変化し)たため耕作できなくなったというのです。その理由は分かりませんが、自然災害かもしれません。
十五世紀中頃の『兵庫北関入船納帳』にも、讃岐船が大量の赤米を輸送していた事が記録されています。赤米は、干害に苦しむ讃岐の「特産物」となっていたようです。この赤米が日高(秋山泰忠)の所有する土地で作られていたことが分かります。耕作地は、「すなんじき(収納使職)」で、すなわち砂押地域のことです。この赤米耕作地が「ちぶんやぶれ」(土地の状態が変化し)たため耕作できなくなったというのです。その理由は分かりませんが、自然災害かもしれません。
今までの情報をまとめて、もう一度、下高瀬地区を見てみましょう。
下高瀬は、現在はその真ん中を高瀬川が流れています。しかし、古代・中世は西浜・東浜まで三野湾が入り込んできていたことを先ほど見てきました。現在の本門寺の裏あたりまでは海でした。三野中学校は、海の中だったのです。高瀬川周辺は、塩田・瓦窯の操業に伴う木材伐採で、洪水による氾濫が多発化し、田畑は度々流失したようです。葛の山より北の河口部分は、デルタ地帯で、荒地が多かったと研究者は考えているようです。下高瀬地区が現在のように水田化されるのは、江戸時代になって千拓と灌漑設備が整備された後のことになります。
高瀬川の河口には塩浜が形成され、製塩業者がいました。また本門寺の創建以降は、その門前には寺に関わる職人や商人が門前町を形成します。大見という地名は、史料上では南北朝期から見えます。ここは、先ほど見たように下高瀬地区に含まれていました。大見村が形成されていくのは近世になってからです。
吉津地区にも「津の前」という地名が示す通り海岸線が入りこんできて、当時は水田はほとんどありません。
七宝山の麓に畑地が形成されただけで、水田は未形成だったと考えられます。ただ、港があったことから海に関わる仕事に従事する人たちがいたようです。「兵庫北関入船納帳』では、仁尾から多量の赤米が輸送されています。三野地域で生産された赤米が七宝山を越えて仁尾まで運搬して積み出したと考えるより、吉津の港へ仁尾輸送船がやってきて、そこで赤米を積み込んで輸送したと考える方が合理的です。仁尾湊の輸送船は、三野地区を後背地にしていたと考えられます。
七宝山の麓に畑地が形成されただけで、水田は未形成だったと考えられます。ただ、港があったことから海に関わる仕事に従事する人たちがいたようです。「兵庫北関入船納帳』では、仁尾から多量の赤米が輸送されています。三野地域で生産された赤米が七宝山を越えて仁尾まで運搬して積み出したと考えるより、吉津の港へ仁尾輸送船がやってきて、そこで赤米を積み込んで輸送したと考える方が合理的です。仁尾湊の輸送船は、三野地区を後背地にしていたと考えられます。
大見・下高瀬・吉津の三地区の中で、農業生産力が最も高かったのは大見地区でしょう。しかし、ここでも赤米栽培が行われています。大見以上に劣悪な土地であった高瀬川河田部分や吉津の畑地では、当然赤米が作られていたと研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと
①古代・中世の三野湾は南に大きく入り込んで本門寺の裏が海であった。②大見地区は秋山氏が西遷御家人としてやってきて開発が行われた③大見地区の新浜では、秋山氏が塩田を経営していた④伊予大道を境に、高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分けられた⑤下高瀬には秋山氏の氏寺である本門寺が建立され、門前町も形成され地域の中核となった⑥吉津は目の前まで海で、中世には水田はほとんどなく畑作地帯であった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
橋詰茂 中世三野町域の歴史的景観と変遷 三野町の中世文書所収
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