前回は三野湾の大見・下高瀬・吉津の3つの地区の特徴について見てきました。今回は、中世の秋山家文書に見える地名を通じて、三野湾の復元に取り組んだ研究を見ていくことにします。テキストは「山本祐三 三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名 三野町の中世文書」です
西遷御家人・秋山氏の讃岐への移住について
鎌倉幕府は元の再来に供えて、西国防衛力のアップという名目で西遷御家人を西国の要衝に送り込みます。三野湾の入口に位置する高瀬郷に、甲斐国からやってきたのが秋山氏です。西遷御家人は、東国での新田開発を通じて、高い治水・灌漑技術を持っていた技術者集団でもあったようです。地頭として入ってきた地域の未開発地域を積極的に開発していったことは以前に、土器川周辺の法勲寺地区で見た通りです。
秋山氏が取り組んだのは、下高瀬郷の大見地区の谷田の開発です。中世を通じてこの地区は、谷田が開かれていきます。そのため開発名主の名前が今でも地名として残っているところが数多くあります。大見地区の農業生産力は、この時期に急速に高まります。その発展を背景に、大見は下高瀬より分離・独立していったようです。ちなみに大見の一番大きな水源が天霧山になります。そして、ここには死霊の赴く山として弥谷寺があります。この山が古くから霊山であったことがうかがえます。
大見という地名が文書の中に表れるのは、南北朝期以後のことで、秋山家文書中の応安五(1372)年、沙弥日高(秋山泰忠)置文(遺言状)に、譲る所領の境を次のように記しています。
「 さかいの事ハ(境の事は)
ひかし(東)ハ 大ミ(大見)のさかい(境)を あさつ(朝津)の山をくたり
にし(西)ハ たくま(詫間)のさかう(境)まつさき(松崎)まて しうき(塩木)のミね(峰)をさかう(境)なり
又みなミ(南)たけか(竹包)の志ちたん(七反)あまりゆつ(譲)るなり
これが大ミ(大見)が記録に出てくる最初のようです。相続させるエリアを次のように示しています。
①東は朝津山を大見との境②西は詫間の境である松崎ー塩木山(汐木山ではない)まで③南は竹包の七反地
その約200年後の永禄三(1560)年、香川之景知行宛行状に
「替わりとして大見の内 久光・道重両名(久光・道重の名田)を扶持せしめ候」
と出てきます。ここでは大見という漢字になっています。南北朝期や戦国期に大見という地名が使われていたことが分かります。
下高瀬については、前回も触れましたので省略します。
吉津については、寛治三(1089)年の浪打八幡官(詫間の浪打八幡神社)放生会頭人番帳写(片岡家所蔵文書)に、
「吉津・詫間・仁尾分 十二年廻」
として36名の頭人があげられています。その中に吉津が見えます。
また貞治六(1367)年の宮年中行事番帳写(同前)にも
「吉津日天寺・吉津大光寺・吉津多門坊」
とあります。さらに明徳二(1391)年の宮放生会駕輿丁次第写には、吉津正元以下五名の名が挙がっています。ここからは平安時代末期には、吉津の地名が文書に残っていることが確認できます。吉津は、古代の行政区分からすると詫間郷に属していました。そのために、詫間郷の郷社的な存在であった波打八幡神社の氏子となっていたようです。吉津と下高瀬は行政区分が異なっていたという点は抑えておいた方がよさそうです。
吉津の地名由来は、この地の海岸沿いに葦(よし)が生えていた津(港)であったことによると云われています。あるいは「良津(港)」が転じて吉津となったとも伝えられます。
三野湾に残る中世関連地名をもう一度見てみましょう
研究者が秋山家文書から抽出した中世地名が、地図上に赤字で示されています。番号中に見ていくことにします
①大道(おおみち)
秋山家文書(1331)年の文書の中に、父の秋山源誓が子の秋山孫次郎泰忠に地頭職を譲る置文(遺言状)の中に「大道」が次のように出てきます。
「さぬきのくにたかせのかうの事 (讃岐の国高瀬の郷の事)、
いよたいたうより志もはんふんおは(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし(孫次郎泰忠譲るべし)」
高瀬郷の下半分、つまり今の下高瀬地域を子(泰忠)に譲るというものです。伊予大道は、善通寺から鳥坂峠を越えて、現在の国道11号沿いに高瀬を抜けていきます。近世の伊予街道と重なる部分の多いルートです。かつては、この道が南海道とされていた事もありました。しかし、現在では南海道は飯野山の南を真っ直ぐに西進し、善通寺の四国学院のキャンパスを通過し、大日峠を越えて高瀬を横切って六つ松に至っていることが分かっています。伊予大道は、古代末から中世以後に整備されたと研究者は考えているようです。
この文書にあるように高瀬郷は、14世紀前半に伊予大道を境に南北に上下に分けられたことが分かります。同時に、この伊予大道(いよだいどう)が、現在の大見にある大道の地名に残されているのではないかと研究者は考えているようです。
②砂押(すなおし)
「かさねてゆつりおく (重ねて譲りおく)、
そうりやうまこ四郎に (惣領孫四郎に)
たかせのかうのすなんしき(高瀬の郷の収納使職)」
これは秋山家文書中の永和一(1376)年の文書です。秋山泰忠が、孫でありながら嫡子として惣領にした孫四郎に所領を譲った置文です。泰忠は、置文(遺言状)を12通も残しています。いろいろと気がかりで心配なことが次々と出てきたのでしょう。その度に、新しい置文を書いたようです。ここには、高瀬郷の地頭職(収納使職=すなんしき)を惣領孫四郎に譲るとあります。「収納使職」が訛って「砂押」になったようです。
「あさつの山(浅津の山)をくたり(下り)」の東側とあるので、現在の砂押の位置関係と合います。現在の大見小学校の南側にあたる地域です。惣領家に継承されたのですから重要なエリアであったことがうかがえます。ここを拠点に大見開発が進められたのかもしれません。また周辺には
「大見浜・浜堂・塩焼田・浜・蟹田地」
という地名が残ります。三野湾が入江となって直ぐそばにあったようです。塩焼田という地名からは、塩業が行われていたこともうかがえます。
秋山氏の居館がどこにあったかは分かりませんが、有力候補地と考えられる地区です。
③九免明(くめんみょう)
秋山家文書中に九免明(くめんみょう) は出てきません。この地名は公文名に由来し、高松市新田町に公文名、まんのう町にも公文の地名が残ります。公文は、荘園の記録・文書など公文書を取り扱っていた役所があった所です。その役所が名田と呼ばれる私有地を持っていて、その土地からあがる収入を役所の費用に充てていました。つまり公文名とは公文の名田という意味で、後には名主そのものを指すようにもなるようです。高瀬郷の公文の名田がここにはあったとしておきます。そして、公文名が九免明に転訛したと研究者は考えているようです。
④道免(どうめん)
似たような地名に道免があります。位置的には大道の近くになります。大道の管理維持のための経費を当たられた免田(年貢を免除された田)が設けられました。その代償に、官道である大道の改良工事などに労働力や資材の提供を求められたのでしょう。同じような地名に道免と南原の間に坂免(釈迦免=しゃかめん)がありますが、詳細は不明です。
⑤田所(たどころ)
大化改新以前の豪族の私有地として田荘がありましたが、大化改新により廃止されたと云われます。田所は、これに関連するものではないかとも思われますが、よく分かりません。
⑥法華堂(ほっけどう)
秋山家文書中の秋山一忠自筆之系図に
「下高瀬法花(華)堂 久遠院 ゐんかう(院号)高永山 さんかう(山号)本門寺 じかう(寺号)」
と出てきます。中世には本門寺は法花堂と呼ばれていたようです。法花堂が中核施設であったことがうかがえます。 本門寺は、高瀬郷を領した秋山氏が創建された西国で最も古い日連宗寺院です。地元では高瀬大坊のと親しみを込めて呼ばれています。
本門寺を中心にして、法華宗は周辺に広がっていきます。これは、全国的にも早い時期の日蓮宗の布教形態です。秋山氏の氏寺として本門寺は創建され、発展をしていきます。
泰忠の祖父阿願は法華信仰に深く、帰依していたようです。泰忠はその影響を受け、小さいときから法華信仰に馴染んでいたのでしょう。故郷の甲斐国を離れ、幼くして遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経への信仰心を深めていったのでしょう。彼は晩年に置文(遺言状)を12も書いていますが、その中にも子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。このように秋山泰忠により本門寺は創建され、秋山一族の保護の元に領民に法華宗が広められていきます。これが後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立する背景のようです。その出発点となるのが、この法華堂のようです。
⑦原(はら)・樋之口(ひのくち)
秋山家文書中の香川之景(天霧城主)知行宛行状に
「三野郡高瀬郷水田分内 原・樋口、三野掃部助知行分並びに同分守利名内、真鍋三郎五郎買徳の田地」
とあります。永禄四(1561)年の文書で、原・樋口・守利の地域にある土地を合戦の恩賞として天霧城主の香川氏が秋山兵庫助に与えたものです。ここに出てくる原は、現在の大見の原で、樋口は下高瀬の樋口と研究者は考えているようです。
原は現在は原・小原・原上・下原・原南等に分割されています。また大見原と下高瀬原に分けて呼ばれたりもしているようです。
また樋口については下高瀬に中樋・樋之前・樋之口がある。樋口は現在の下高瀬小学校や百十四銀行の周辺で、旧三野町の中心地になります。三野町役場そばの橋は三野橋といい、その一つ上流の橋は樋前橋と呼ばれています。守利(もりとし)については、これがどこに比定されるか分かりません。
この文書からは戦国時代には、秋山氏は守護代の香川氏から恩賞をもらう立場にあったあったことが分かります。つまり香川氏の家臣団として、軍事行動に参加していたようです。
この文書からは戦国時代には、秋山氏は守護代の香川氏から恩賞をもらう立場にあったあったことが分かります。つまり香川氏の家臣団として、軍事行動に参加していたようです。
⑧東浜(ひがしはま)・西浜(にしはま)
「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事
右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、
一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」
とあります。親の泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。泰忠は、本門寺を建立した人物です。泰忠の息子たちの世代に移り変わっています。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」「しおはま(塩浜)」「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここからも秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
この文書からは泰忠の所領が、三人の息子に分割相続されていたことが分かります。この分割相続が秋山氏の力を弱めていくことになるようです。経済的に立ちゆかなくなった惣領家は、大事な土地を切り売りしていることが残された文書からは分かります。
⑨打上(うちあがり)・竹田(たけだ)
一 三野野郡打上の内 国ケ分 是は五郎分なり・・・一 同郡高瀬の郷の内 武田八反、是も真鍋三郎五郎買徳、有坪かくれなく候」
とあります。天霧城主で守護代の香川之景が帰来善五郎に打上と武田の土地を所領として安堵した文書です。打上は葛山(前山)の麓の地区で、高瀬町新名と三野町吉津にまたがります。現在の高瀬ー詫間線が通っている地区です。葛山の南麓の打上から新名村西下にかけての地区は、江戸時代初期に新名新田として干拓されるまでは浅海でした。満潮時には打上のあたりに海水が打ち寄せていたと云われます。そのため湿地帯で、耕作には不適な土地でした。
武田は現在の大見の竹田のことのようです。
秋山家文書中の泰忠の置文には、次のような多くの名前が付いた名田が出てきます。
あるいハミやときミやう (あるいは宮時名)、あるいハなか志けミやう (あるいは長重名)、あるいハとくたけミやう (あるいは徳武名)、あるいは一のミやう (あるいは一の名)、あるいハのふとしミやう (あるいは延利名)又ハもりとしミやう (又は守利名)又はたけかねミやう (又は竹包名)、又ハならのヘミやう (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」
とあります。多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。しかし、その多くは近世の検地実施と共に消えていったようです。
久光(ひさみつ)・道重(みちしげ)
秋山家文書中の香川之景知行宛行状(永禄三(1569)年に、次のようにあります。
「替わりとして大見の内久光・道重両名扶持せしめ候」
と見えます。
これも久光とか道重という名前の名主がいて、ここは私(久光)の土地ですよ、とか、ここは私(道重)の土地ですよ、と標示した名残なのでしょう。それが地名となって中世に使用されていた名残です。
豊中町の比地大にある友信や石成も、友信という名前の名主が持っていた名田、また石成という名前の名主が持っていた名田であったと伝わる集落です。これらの村を名田百姓村と呼びます。
重光(しげみつ) 秋山家文書中のちやうほうらうとう売券に
「さぬきのくにたかせのかうのうち 志けみつのまへらうとう」
あります。ちやうほうは秋山長房とも考えられ、長房が「志けミつ」の地を誰かに譲り渡した、というものです。「志けミつ」を漢字変換すると「重光」が考えられます。前後関係から重光は旧高瀬町と旧三野町との境あたりにあった地名と考えられるようです。
以上、秋山文書に現れる中世地名を追いかけてみました。復元地図と併せながら見ていくと、面白い発見がいくつもあります。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山本祐三 三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名
三野町の中世文書所収








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