1 善通寺伽藍図

善通寺は東院と誕生院の2つのエリアから現在は構成されています。古代に佐伯氏の氏寺として建立されたのは、五重塔や本堂の建つ東院です。それに対して誕生院は、空海の生家があった場所とされ、空海誕生の聖地とされています。こちらは弘法大師伝説が広まった中世に成って生まれた宗教施設です。
1 善通寺 仁王門

誕生院に入口に立つのが仁王門です。この仁王門を真っ直ぐに進んでいくと御影堂に至ります。ここで悪霊や魑魅魍魎たちの侵入を防ぐために立っているのが金剛力士像です。
向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。
1 善通寺 金剛力士阿形

阿像は左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。
1 善通寺 金剛力士吽形

  一方、左が口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開く吽形像です。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
 小さいときに、この阿吽像の間を通って「お大師さん(おだいっさん)=善通寺」に、お参りするときには、両方の仁王さんから睨まれるようで恐かった思い出があります。そして、鉄人28号のように、もっと大きく感じたものです。実際どのくらいの大きさだったのかとデータを見ると、
「像高(阿形)193、2㎝(吽形)190、5㎝」

とあります。 この数値を見ると意外な感じがします。もと大きいはずと感じてしまいます。このくらいの身長なら今ではスポーツ選手には数多くいます。等身大よりかは、はるかに大きいというイメージでした。確かに阿吽像は、土で築いた壇(高さ約70㎝)上に立っています。そのためいつもは、見上げるように見るため大きく感じていたのかもしれません。
 いつもは仁王門の中にいて、下半身は柵でよく見えないのですが、こうして写真で見て気付くのは、下半身に重量感があるということです。下半身にまとう服は裾が長くボリュームがあります。いったい何をまとっているのかと思います。また、阿吽のふたつを並べてみると、左右対比性をもつてバランスを考えて作られていることに改めて気付かされます。

   さて、この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
  かつて、この仁王さんたちは江戸時代(十七世紀)の製作と聞いたように記憶していました。ところが現在では、14世紀の南北朝まで遡るとされています。一体何があったのかを、まずは見ておきましょう。
金剛力士像の製作年代の決定に大きな役割を果たしたのは、善通寺の学芸員の方です。平成21年の春ごろに、善通寺の建造物群の修理履歴を調べるため、近年の寺務書類を整理・確認していた時のことです。真言宗善通寺派の機関紙に、この金剛力士像の修理に関する記事が載せられていたというのです。(『宗報』第九号昭和51年1月発行)。そこには、修理後の写真とともに、
「応安三年(1370)に作られたもの」、
その修理は「京都東山の佐川仏師」によって行われた
ことが記されていました。つまり、昭和50(1975)年に、修理が行われた際に体内墨書が発見されていたのです。しかし、当時は注目もされずに、そのまま忘れ去られることになったようです。そのことを再発見したのが学芸員の松原 潔氏です。そこで、彼は修理にあたった仏師・佐川中定氏と連絡を取り、一枚の写真を手に入れます。
それが、この写真のようです。ここには修理解体時の時に見つかった次のような像内墨書銘が写されています。

1 善通寺 金剛力士像内墨書jpg
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  確かに、この墨書の年代は決定的な史料となります。こうしてそれまで江戸時代後半の作品とされていたものが、一気に400年近くも遡り、南北朝時代の仁王さんと評価されるようになったのです。しかし、この墨書銘が阿吽両像のどちらに書かれているのか、また、像内のどこに記されたものかは分からないようです。また、発願者の有覺という僧侶についても、作った仏師についても現在のところは分かりません。そこで、同時代の全国の仁王像と比べてみましょう

全国の鎌倉時代後期から南北朝期の製作年代のはっきりしている金剛力士像は?
①大阪・法道寺像  円慶・慶誉作  弘安六年(1283)
②高知・禅師峰寺像 定明作     正応四年(1291)
③神奈川・称名寺像 大仏師法印院興・法橋院救・法橋長
          賢・法橋快勢作元亨三年 (1323)
④兵庫・満願寺像  南都仏師康俊作 嘉暦年間
                   (1326~28)
⑤奈良・金峯山寺像 康成作     延元四年(1339)
などが挙げられるようです。
同じ四国霊場である②の定明作と比べてみると、様態は似ていますがイメージはまるで違います。
1 金剛力士
 高知・禅師峰寺像 定明作 正応四年(1291)
おなじ系統状のものとは思えません。
③の神奈川・称名寺像はどうでしょうか? 

1 金剛力士称名寺jpg

「ぼってり感が③の称名寺像と共通する感覚をもつ」と、研究者は云いますが、そうですかとしか私には答えられません。

香川県内の中世の金剛力士像を挙げると次の通りです。
  本山寺像・志度寺像・大興寺像・屋島寺像・國分寺像
 吉祥院像・伊舎那院像
  仁王の吉祥院像と財田の伊舎那院以外は、四国霊場のお寺さんになるようです
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伊舎那院の金剛力士像阿形

運慶作の金剛力士像 - 三豊市、大興寺の写真 - トリップアドバイザー
大興寺金剛力士像吽形

ただ、本山寺(三豊市)の二天(持国天・多聞天)像には
「仏師当国内大見下総法橋」
「絵師善通寺正賢法橋」

の製作名と製造年の正和二年(1213)が記されているようです。
ここからは、この時代には善通寺や三豊に、在地の仏師や絵仏師がいて、その工房があったことがうかがえます。善通寺の仁王たちも讃岐の仏師の手によって作られた可能性もあります。

 仁王さんが善通寺に、やってくる背景を見ておきましょう。
仁王門が建つ誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたとされてきました。誕生院は、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院でした。創建は建長元年(1249)で、高野山の学僧・道範(1178~1252)によって行蓮上人造立の弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 この時期の誕生院は、東寺の末寺です。東寺から派遣された別当が住持を務め善通寺全体を監督していました。それが、元亨年間(1321~24)に後宇多天皇の遺告で、善通寺は大覚寺が本寺となります。その結果、本末の争いが起き、暦応四年(1341)に光厳上皇の院宣が出されるまで続きます。そして、善通寺は東寺長者も兼任する随心院門跡の管理下に入ります。
こうしたなか誕生院住持となったのが宥範(1270~1352)です。
宥範が住持になった頃は、善通寺は中世の混乱で衰退期でした。平安中期に大風により五重塔は、倒壊し失われたままでした。このような中で、諸堂の再建・修理に勤め、伽藍整備おこなったのが宥範です。 また、教学上でも真言密教の諸法流のうち三宝院流慈猛方や安祥寺流などを学んで、小野三十六流善通寺方(宥範方)を確立し、独自教学の発展と自立的経営の基礎を築いたとされるようです。そのため彼は「善通寺中興の祖」とされるのです。
 仁王門の金剛力士像が造られた翌年の応安四年(1371)には、宥範から誕生院住持職を譲られた弟子の宥源の上表によって、宥範に僧正位が追贈されています。宥源にとっては、師匠の宥範と共に目指した誕生院整備の締めくくりとして迎えたのが、この阿吽の仁王さまたちだったのかもしれません。
1 善通寺伽藍図.2jpg


善通寺に仁王たちがやってきて約二百年後の永禄元年(1558)に、阿波三好氏配下の讃岐武士団が天霧城の香川氏を攻めます。

その際に、善通寺は三好氏の本陣となります。両者の和議が成立し、三好軍が撤退した後に善通寺は炎上します。この際に、東院の本堂や五重塔は燃え落ちたとされますが、誕生院については次の2つの説があります。
①誕生院も兵火に係り燃え落ちた
②燃え落ちたのは東院のみで、誕生院は残った
 この論争に対して「金剛力士が中世に作られた」という事実は、②の説に有利に作用すると考えられます。「仁王門は、延焼を免れたから仁王さまは生き延びた」と考えるのが自然です。戦国期においても善通寺は壊滅的な打撃を受けたわけではないようです。東院は瓦礫の山になったかもしれませんが、誕生院は寺院のとしての機能を維持していたとしておきましょう。

善通寺には宝永五年(1708)の「金剛力士堂」再建の棟札が残っているようです。
戦国期に兵火にあった東院の五重塔や本堂が再建されるのは、17世紀末のことです。棟札には願主・光胤(1651~1732)と大工竹内十右衛門の名前があります。宮大工の竹内十右衛門は、元禄十二年(1699)上棟の金堂再建にも参加していたことが棟札から分かります。
 東院の再建と一緒に、「金剛力士堂」(仁王門)も、同じ宮大工によって再建されたようです。この棟札の裏面には「力士修補」とあります。このときに修理された力士像が、現在の仁王門に立っている阿吽像になるようです。阿吽像は永禄の兵火をくぐり抜け、660年近くにわたって善通寺を守護し、参拝者を迎え続けてきたようです。

  最後に仁王さまに敬意を表しながら、その姿を紹介する研究者の文章を紹介したいと思います。

善通寺金剛力士像 阿形

阿形像は髻(もとどり)【(頭頂で結った髪の束)を結い、その正面には上辺が三角の飾りをつけ、元結紐の先端を右上方へ翻す。目を怒らせ、開口して上下歯と舌を見せる。下半身には折り返し付のくんを着け、体側を天衣がめぐる。左手には金剛杵を握り肘を屈して振り上げ、右手は全指をのばし掌を外側にむけ体側に垂下する。右斜め下方を向いて、腰を左に強くひねり右足を踏み出して、手斧目の方座上に立つ。

善通寺金剛力士吽形
吽形像は阿形と同様に髻を結うが、その正面の飾りは花弁形にあらわす(元結紐は亡失)。
目を瞑らせて閉口する。左手は肘を張って体側に垂下させてこぶしをつくり、右手は肘を側方に張って全指を立てて掌を正面に向ける。左斜め下方を向いて、腰を右に強くひねり左足を踏み出して立つ。その他はおおむね阿形像のかたちに準じる。
善通寺仁王像 (2)


針葉樹材(ヒノキか)による寄木造。表面の彩色や補修のために構造の詳細は不明だが、頭体は別材製とおもわれる。頭部は耳の前後で矧ぐ三材製で、日には水晶製の玉眼を嵌め込み首下で体幹部に差し込む。体幹部は前後三材製で、腰に着けた祐は前後左右から別材を矧ぎつけるか。このほか、阿形像は両肩・左肘。両足先に、咋形像は両肩。右肘。両足先に矧ぎ目があり、それぞれそれ以下に別材を矧ぎつける。また、天衣も別材を矧ぎつけている。台座は広葉樹材製(ケヤキか)で複数材を矧ぎ合わせている。

善通寺仁王像 (3)

激しい怒りをあらわす面貌や引き締まった肉身にみられる抑揚の強い表現、肩を後方に引き頭部と腹部を前に突き出して創り出す前後の動勢は鎌倉時代初頭に活躍した運慶一派が完成させた写実的な新様式を踏襲するものだが、一方で、体幹部や腕などの角ばった造形や補にみられる厚ぼったい衣の表現などには様式の形骸化が見てとれる。

善通寺仁王像 (4)

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原 潔    善通寺の金剛力士像(仁王)について
                  空海の足音 四国へんろ展 香川県立ミュージアム所収