四国遍路の形成過程については、次の2段階に分けて考えるのが一般的になっているようです。
①近世前の修験者等による行場巡りとしての四国辺路形成②近世後の庶民による四国霊場88ヶ寺巡礼巡り
①の近世以前を、さらに細分化すると次のようになるようです。
③平安時代後期から鎌倉時代には『今昔物語集」や『梁塵秘抄』などに四国の海辺を巡る辺地修行や山岳修行が出てくる④室町時代前期には熊野信仰に伴う参詣、修行のルートが確認される。⑤室町時代後期になると、四十九番浄土寺の本尊厨子や八十番國分寺本尊像に「南無大師遍照金剛」や「南無阿弥陀仏」の落書がみられ、弘法大師信仰とともに念仏信仰も盛んであったことが分かります。⑥江戸時代初期、承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記」には、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」とあり、各札所で念仏が唱えられていたらしい。
ここからは戦国期から江戸時代初期の「四国辺路」では、熊野信仰や六十六部、時宗に加えても念仏信仰が盛んに行われていたことが分かります。今から考えると、真言宗のお寺で「南無阿弥陀仏」の念仏が称えられていたことに、何かしら違和感を感じてしまいます。どんな風に阿弥陀信仰の念仏と霊場が混淆していたのでしょうか。
郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。このあたりに秘事法門が多いといわれるのは、念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものと研究者は考えているようです。そのため庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は、それらもなくなり大師信仰だけになっています。
縁起は、後世のものらしく霊亀年間(715ー17)に行基菩薩が開いたと伝えます。そして、弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいます。が、現在は時宗です。
そして、一遍上人の関係を伝えています。
一遍は四国の松山の人で、16年に及ぶ最後の遊行の際には、善通寺に参拝して郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡っていますので、ここを通ったことは確かです。また最後の遊行を前にして、自分の郷里に帰ったこともはっきりしています。正応二年(1289)8月末に亡くなっています。
一遍絵図の中の踊り念仏
郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。
それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は
「おどりはね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」
です。これはまさに、一遍上人の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には時宗の影響下にあったことがうかがえます。
郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。
六字名号版木 郷照寺
これは、江戸時代初期頃の縦六七・ニ㎝、横一九・七㎝、厚さ三・七㎝のもので、表面に「時衆二祖真教様」の書体で大きく「南無阿弥陀仏」と書かれています。その下に「承和元(834)年三月十五日書之空海」とあります。そのまま受け取ると、弘法大師が高野山奥院に入定する前年に書いたことになります。空海真筆を強調しているようです。
裏面上部には、椅子に坐わす弘法大師像、その背後に山岳中から影現する釈迦如来が刻まれます。その下に「讃岐国屏風浦誕生院」とあるので善通寺御影堂本尊を表していることになるようです。
つまり表面の空海筆銘の六字名号と裏面の弘法大師像とを合わせれば、まさに弘法大師信仰と念仏信仰が合体した版本となるようです。その意味では貴重な物かもしれません。
研究者が注目するのは、郷照寺の版木と、ほぼ同じ頃に造られた「空海筆銘六字名号」の版木が四十番観自在寺、五十一番石手寺、五十二番大山寺、八十一番白峯寺などにもあることです。弘法大師に関わる念仏信仰の拠点がどうも札所寺院であったようなのです。
研究者が注目するのは、郷照寺の版木と、ほぼ同じ頃に造られた「空海筆銘六字名号」の版木が四十番観自在寺、五十一番石手寺、五十二番大山寺、八十一番白峯寺などにもあることです。弘法大師に関わる念仏信仰の拠点がどうも札所寺院であったようなのです。
空海と六字名号の関係について、もう少し見ていくことにしましょう。
鎌倉時代末期の『一遍聖絵』巻二に
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字名号の印板をとどめ、五濁常没の本尊としたまへり。
とあり、弘法大師が六字の名号を版木に刻んだとしています。一遍上人は時衆の開祖です。そして『一遍聖絵』は、一遍上人の弟、聖戒などが関わっていますので、時衆の影響が大きいとされます。
また「四国辺土(遍路)八十八ケ所」の文言が記される説経『苅萱』「高野巻」には、弘法大師が入唐する際、宇佐八幡宮に参詣すると火炎の中から六字の名号が現れ、これを船板名号と称し、御神体として舟に彫りつけ無事に唐に渡ったと記します。「高野巻」は高野聖たちが深く関与したことは、すでに明らかにされているようです(真野俊和一「日本遊行宗教論』)
このふたつのことから弘法大師と念仏信仰(六字名号)の混淆の仕掛け人は
①時衆が深く関わっている②時衆系高野聖の存在も大きい
ことが分かります。
空海が開いた高野山は真言密教の聖地です。
しかし、時代と共に様々な流派を取り入れていきます。平安時代後期から覚鑁(かくばん・1095~1143))や明遍(みょうへん・1142~1324)などが現れ真言念仏や念仏を盛んにしています。
しかし、時代と共に様々な流派を取り入れていきます。平安時代後期から覚鑁(かくばん・1095~1143))や明遍(みょうへん・1142~1324)などが現れ真言念仏や念仏を盛んにしています。
覚鑁については、新義真言宗 総本山根来寺のHPでは「真言の教えの中興者として、次のように評価しています。
興教大師(覚鑁)の時代は、真言宗は事相の興隆とともに多くの流派が林立し、修法に関して一部で混乱がみられました。こうした実状に悩んだ興教大師は、遍く諸流を学びかつ相承して、真言の法門の「源底」を求め、真言密教の秘奥を究められました。現在でも興教大師は、「大伝法院流」の祖として崇あがめられています。興教大師の教えの本質は、弘法大師の教えの継承・発展にあり、あくまでもその目標は「即身成仏」の実現にありました。しかしそれだけではなく興教大師は、当時興隆しつつあった浄土往生思想を真言密教の枠組みの中に見事に活かし、真言密教の立場からの正しい弥陀信仰のあり方を示されました。 興教大師は、高野山の独立を達成され、教学の振興をはかり、文字通り真言宗団を中興されたのです。
室町時代になると、高野聖の多くが時宗化します。
そして、念仏を唱える時宗系高野聖の勢力が増し、高野山の念仏化が進んだようです。つまり、当時は真言の総本山である高野山で「南無阿弥陀仏」が称えられていたのです。その後、慶長十一年(1606)幕府の命により、高野聖の真言宗加入が行われます。(五来重「高野聖」)
そして、念仏を唱える時宗系高野聖の勢力が増し、高野山の念仏化が進んだようです。つまり、当時は真言の総本山である高野山で「南無阿弥陀仏」が称えられていたのです。その後、慶長十一年(1606)幕府の命により、高野聖の真言宗加入が行われます。(五来重「高野聖」)
もう一度、版本に話を戻します。
これが郷照寺で造られたのか、また他から持ち寄られたのかは分かりません。しかし、郷照寺の寺歴からすると、郷照寺で作られ所蔵されていた可能性が高いと研究者は考えているようです。どちらにしても、弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を広めたことに間違いはないようです。時宗系念仏聖の存在がうかがえます。
これが郷照寺で造られたのか、また他から持ち寄られたのかは分かりません。しかし、郷照寺の寺歴からすると、郷照寺で作られ所蔵されていた可能性が高いと研究者は考えているようです。どちらにしても、弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を広めたことに間違いはないようです。時宗系念仏聖の存在がうかがえます。
この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろなプロの宗教者が巡っていたことが明らかになっています。この中で近世の四国遍路への展開・発展に大きく関わったのは高野山の行人や時宗経系念仏聖のようです。彼らには弘法大師信仰を持ちながら、念仏行や念仏踊りを踊るという二面性(?)があったようです。
江戸時代前期、貞享四年(1687)頃に真念によって『四国辺路道指南』が刊行されます。そこには
「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」
と記されています。ここにはもう念仏信仰はみられません。真言宗本来の光明真言を唱えています。南無阿弥陀仏の念仏は「追放」され、弘法大師の一尊化が確立している様子がうかがえます。江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。
郷照寺の版木からは、弘法大師信仰の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。同時に、この版木は中世の四国辺路から近世の四国遍路への橋渡し的な意味を、持つものかもしれないと思えるようになりました。
武田和昭 四国遍路における弘法大師信仰と阿弥陀信仰 空海の足音四国へんろ展 所収
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