前回は民俗学が標榜した
「弥谷寺=古代からの死霊が集まる山=イヤダニマイリ」説

に対して、歴史学から疑義が出されていること。そして、弥谷寺の祖霊信仰は中世の宗教勢力によって形作られたという説が出されたことを見てきました。それでは、祖霊信仰形成の仕掛け人とは、どんな人たちだったのか、またどんな組織を持っていたのかを見ていくことにします。

98歳の義父とダンナと3人で行く、、(今回は悩んだ末) ~~ 四国八十八 ...
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

と、断崖一面に仏像が彫られていたことを報告しています。
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弥谷寺の磨崖仏分布地図

その30年後の元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)には次のように記されています。

「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」

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磨崖に彫られたキリク文字

意訳しておくと
この当たりの岩には南無阿弥陀仏の六字名号が至る所に彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人の目と心を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が掘られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、この寺にはおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った念仏阿弥陀宗教者の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
弥谷寺 九品浄土1
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺九品浄土の六号名字

元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印の「五剣御山爾谷寺略縁起」には、本堂下の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。弥谷寺の水場の近くの岩壁に南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られ、九品の意味があるというのです。さらに、その下部に

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

と、唐の善導大師の謁が彫られていたと記します。しかし、今はこの文字を見つけ出せないほど、岩壁は摩耗しています。
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 阿弥陀三尊の横には「南無阿弥陀仏」の名号が彫られていました。今は摩耗して見えません。しかし、「心」で見ていると南無阿弥陀仏が浮かび上がってくるような気がします。かすかに痕跡が見えています。
弥谷寺 九品の阿弥陀
九品阿弥陀来迎図

 「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという世界観がありました。
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そのため、臼杵の石仏のように、この空間には印相を変えた9つの阿弥陀仏の代わりに南無阿弥陀仏が9つ掘られていたようです。

弥谷寺 九品来迎図jpg

さらに『多度津公御領分寺社縁起』(明和6(1769年)には、次のように記されています。

「東院本尊撥遣釈迦、西院本尊引摂阿弥陀

東院の本尊は釈迦如来で、西院の本尊は阿弥陀であったというのです。阿弥陀信仰が強かったことがうかがえます。また本堂下の墓石群の中には、次のように刻まれたものがあります。

「延宝四」丙辰天 八月口口日大見村竹田念仏講中二世安楽也」

ここからは弥谷寺の里の大見村竹田には念仏講が組織されていたことが分かります。これも阿弥陀=浄土信仰と念仏聖の活動を示すものです。この石碑とよく似たものが白方の仏母院(寛文13年(1773)年にあります。念仏講が建てたもので、白方と弥谷寺が念仏聖たちによって結びつけられていたことがうかがえます。

阿弥陀信仰を担い、このような空間を弥谷寺に作り上げていった宗教者たちとは、どんな宗教者たちだったのでしょうか?
その前に平安~鎌倉時代の中央の寺院組織は、どんな階層性があったのかを見ておきましょう。
お寺というと住職さんがひとりいて、すべてを取り仕切っている姿を私は思い浮かべていました。しかし、古代や中世のお寺は現在のお寺とはちがいます。まず、東大寺や国分寺をイメージすると分かるように、ここにいる僧侶たちは厳しい試験を通過した上級国家公務員です。中には貴族たちの師弟も数多く含まれています。同時に寺院は、大学・病院・図書館・研究施設・出版局などを兼ねた大施設でもありました。そこには、僧侶を教授に例えるなら数多くの「専門職員」がいました。彼らなくしては、寺院の運営は成り立たなかったのです。そのため畿内の大寺社では、次のような厳しい階層性がありました。

寺じゃ勢力の組織
①統率者として別当、座主、検校長者などが位置し、
②寺務管理の役職として三綱・(上座・寺主・都維那(ついな)があり、
③その下に政所や公天所といった寺務局が置かれた。
④寺院に属する上級僧侶全体は、大衆(だいしゅう)、あるいは衆徒(しゅうと)と呼ばれた。
寺社構成者

彼らの役割は「学(学解・学問)と行(修行・禅行)」で次のようにふたつに分かれていました。
①学に携わる場合は学衆・学侶(がくりょう)・学生(がくしょう)
②行に携わる場合は行者・禅衆(ぜんしゅう)・行人(ぎょうにん)
 中世の「四国辺路」を考える際に、重要となるのが行人のようです。行人を辞書で調べると?
①修行僧。行者。
②延暦寺で、寺の雑役をする人。堂衆。
③高野山で雑役に従事した下級の僧。中世以後、学侶・聖(ひじり)とともに高野三方(こうやさんかた)の一として真言密教修学のかたわら、大峰・葛城(かつらぎ)などの山々で修験の行を行なった。
④諸方を巡り経文を唱えるなどして金品を請う僧。
⑥江戸時代、18世紀後半に白衣に白股引と手甲を着け、白木綿で頭を包み、菅笠で鉦鼓(しょうこ)をたたいて遊行し、銭などを乞うた者。〔随筆・只今御笑草(1812)〕
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいました。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。
中世の寺院組織を見ていると、とまどうことがよくあります。例えば「行人」という言葉が出てくると、
①衆徒に属する中核組織の行人(=現在の大学の教授層)なのか、
②寺院末端の堂社に属する行人なのか、
私には区別できません。大まかに「…寺」という組織の中に、「学」と「行」という二本の柱があったとしておきましょう。
さて、この組織図を讃岐の中世寺院である善通寺に当てはめて考えて見ます。
善通寺は京都の東寺の末寺でしたが、その経済力や規模から見て東寺のような組織を持っていたとは考えられません。が、基本的には共通点があったでしょう。当時の文書には、寺領の共通性からなのか、曼荼羅・善通寺は一体として捉えられています。その曼荼羅寺のエリアには当然、出釈迦寺及び奥之院も含まれ、組織的には善通寺として統括されていたようです。
 『流浪記』で道範は、寛元元年(1243)九月十五日に宇足津から善通寺に移ってきます。
その6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。「世坂」と呼ばれる「行道」を人に助けられて登り、

「五岳の中岳の我拝師山の西の山由(みね)」の「行道所」

に立っています。ここは地元では「禅定」とも呼ばれていている聖地です。そこに自分に身を置いてみたいという願いが強かったことが分かります。後に、西行もここで修行を行っています。
 我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の拠点でもあったようです。ちなみに、現在の出釈迦寺は近世になって曼荼羅寺から独立して出来た新しいお寺です。それまでは、霊山我拝師山の遙拝所であったようです。空海が捨身を行ったと伝えられる「行道所」(行場)を、中世に管理していたのは曼荼羅寺になります。そしてこの寺は、善通寺の「行者」の拠点センターの機能を持っていたことになります。

中世善通寺の組織を考える上で参考になるのが、建治2年(1276)の蒙古人誅伐の祈祷に関する文書です。
鎌倉幕府の求めに応じて、各地の寺院で行われた祈祷ですが、そこには毎日三回行う祈祷の分担が次のように記されています。

中世善通寺の組織(蒙古撃退祈祷の分担)
①「五檀法」(調伏護摩)」は「御影堂衆」と「金堂衆」と「法花堂衆」が担い
②大般若経の不退転読は八幡社に関わつた「供僧分」が行い
③仁王経の長日読誦は「職衆分」
④薬師経・観音経は「交衆分」
⑤尊勝陀羅尼・千手陀羅尼は「行人」が担う
とされています。ここからは、祈祷が単にエリートの学僧たちだけで行われていたのではないことが分かります。面白いのは、護摩祈祷を行える僧侶が階層性のランクが高く、それも管理する堂毎に分類されていることです。各堂が現在の大学の学部・学科の分類のように私には見えてきます。やはり今と同じように、堂同士の反目や派閥争いがあったのかもしれません。それより下の僧侶はランクに応じた聖教が割り当てられています。まさにお寺は階層社会です。目に見える形で、所属と自分の階層が分かるシステムです。
 ③の職衆(しきしゅう・色衆)は、法会で梵唄や散華など担う僧侶です。④の交衆(こうしゅう)が学僧になるようです。ここにも、学と行、神と仏の軸が交差する組織のありようが見えてくると研究者は考えているようです。
南海流浪記- Google Books
 
讃岐に流刑となった道範から見た鎌倉時代初期の善通寺を見ておきましょう。
道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。道範が著した、宝治2年(1248)道範が著した『行法肝葉抄』の下巻の奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
  ここには「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されています。上人とは高僧に対する尊称です。ここからは次のような疑問が沸いてきます。
①どうして個人名ではなく、弥谷の上人という言い方が使われているのか
②弥谷寺ではなく地名としての弥谷しか記されていないのか
③上人は代表者なのか。また、多数の宗教者なのか。
④だれが学僧道範に修行法のテキスト執筆を依頼したのか、
ここにも中世寺院組織を当てはめてみましょう。
 注目するのは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちの存在です。彼らを弥谷ノ上人と記しているようです。「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることに再度注意します。そうすると、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったかもしれないとも思えてきます。この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺=曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で行場として、そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたとも考えられます。

  弥谷ノ上人が道範に『行法肝葉抄』を依頼した背景は?
 仏道念仏修行に情熱を注いだ別所の行人集団が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。敬意をもってそれを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶に頼って完成させたのが『行法肝葉抄』です。この奥書に書かれた「弥谷ノ上人」とは、そんな背景がしめされているようです。『流浪記』からは、 こうしたタイプの宗教者と道範は交流していたことがうかがえます。

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
宝治2年(1248)11月17日に、まんのう町(旧仲南町)春日に位置する「尾背寺」(廃寺)を訪ね、翌日18日、善通寺への帰途、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」

意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」

です。このやりとりの中に出てくる
「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」

には、称名院の性格がうかがえます。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったようです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたのかもしれません。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。

こんな念仏僧を「阿弥陀聖、市聖」ともよばれる空也(903-972年)と研究者はダブらせます。
弥谷寺 空也
空也
空也は、京都の六波羅蜜寺の彫像が有名です。首から鉦を下げ、撞木と鹿角の付杖を持ち、草軽履きで歩く姿で、空いた口元から「南無阿弥陀仏」の六字名号が六体の化仏として表現されています。平安末期の『梁塵秘抄』には
「聖の好むもの 木の節 鹿角 鹿の皮 蓑笠 錫杖 木簗子 火打笥 岩屋の苔の衣」

と歌われた聖の典型的な姿が現されています。
彼こそ「山の聖」から都市に下り、「市の聖」に転換した象徴的人物と研究者は評します。彼が最後を迎えた六波羅蜜寺は、元は西光寺と呼ばれました。その場所は。鳥辺野と呼ばれる葬地であり、京都の中では最もあの世に近い場所でした。空也は、遊行宗教者で若い頃、阿波と土佐の間の海中の島で苦行したという伝説があります。

愛媛県の第79番札所浄土寺には、行基が天徳年間(957-961)に滞在し、布教活動を行った形跡があるといいます。
空也ゆかりの浄土寺で地名や和歌の墨書確認 中世の巡礼者記す 松山 | 毎日新聞
浄土寺の空也像(重文)

本堂の厨子には、六波羅蜜寺と同じ頃に作られた空也像があり国の重要文化財にも指定されています。浄土寺は、もともとは法相宗で隆盛期には66房があり、念仏聖や行人の活動拠点であったことがうかがえます。
 残念ながら空也と弥谷寺を結ぶ直接の関係はありません。しかし、弥谷にも空也と同じような念仏聖・行人集団がいて、修行をはじめいろいろな活動を行っていたことは考えられます。彼らが「別所の行人集団」であったとすれば、寄人として周辺地域の他のお寺にに寄宿することもあったかもしれません。
弥谷寺の行人

行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりませんでした。そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。そして、弥谷が浄土であることを伝えて行きます。こうして、弥谷寺は浄土空間として整備されていくことになります。それが「九品の浄土」とよばれてきた、現在の阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯と研究者は考えています。

  浄土信仰を受けいれるようになった庶民は、次には浄土往生の保証を求めるようになります。そのために霊場とされる寺院の過去帳に名前を残し、確実に「結縁」するようになります。
そのためのひとつの方法として、弥谷寺には、日牌・月牌と称される永代供養のやり方が伝わります。これが江戸時代の日牌・月牌を忌日別にまとめた「忌日別過去帳」で、法名・没年・俗名・施主の住所・施主名などが記されています。寛文(1661-73)年間から始まり、幕末の慶応年間(1865-68)の過去帳には、1冊で約150人、全部で延べ4500人が記されています。その施主の住所について、報告書は次のように述べています。

「中・西讃地方の三野郡・多度郡・那珂郡・鵜足郡・豊田郡・阿野郡・塩飽諸島の村落名が中心であり、いわゆる東讃地方はほとんどみられない」

これが、弥谷信仰のエリアだと研究者は考えています。そして、浄土信仰を担った弥谷の聖・行人集団の活動範囲でもあるというのです。特に死後まもなくして「弥谷参り」をする習俗は、弥谷に隣接するエリアの永代供養以前の形式と推測します。
そして研究者は。最後に次のように指摘します。

  どちらにしても、歴史的に先行するのは中世の聖・行人集団の「浄土信仰」である。そうした宗教者の活動を考慮することなく、民衆から自然発生的に成立した死霊・祖霊信仰から説明しようとした所に民俗学の問題点があったのではなかろうか。

中世の弥谷寺を中心に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちだったようです。
彼らは弥谷寺だけでなく善通寺周辺の行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「7ヶ所詣り」として残っていると考えることも出来そうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献