まず、弥谷寺縁起を見ていくことにします。
弥谷寺の歴史を伝えるものは、江戸時代中期の元文(1737)年に版木印刷発行した「讃州纒御山涌谷寺略縁起」しか残ってないようです。この略縁起は、八栗寺(牟礼町)の縁起と非常に似ていることが研究者からは指摘されています。
その背景には、江戸時代前期に讃岐を訪れた浄厳の存在があるようです。彼は、讃岐各地の寺々で求めに応じて銘文や縁起を書いています。そのためよく似た縁起が数多くあって「行基開祖、空海再建」にパターン化します。弥谷寺の由来もこのパターンです。空海由縁の遺跡を訪れた浄厳の原稿をベースに、八栗寺や弥谷寺の縁起は書かれた可能性があるようです。
弥谷寺略縁起を要約すると、次のようになります。
弥谷寺は、行基が東西の峯に各七間の梵宇を建て自ら造像の阿弥陀・釈迦仏を安置し、寺名を①蓮華山八国寺と称した。それは、弥谷山からの眺望が周囲八つの国々を見渡せることに因んで名付けられた。次いで、略縁起は、空海が泉州槙尾山寺での修行のことを特記します。そして、②空海が弥谷寺伽藍を再興し千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
ここからは次のようなことが分かります。
①弥谷寺は当初は、蓮華山八国寺と呼ばれていた②空海が弥谷寺伽藍を再興し、千手観音を本尊として剣五山千手院と改称した。
①唐から帰朝した空海が自ら岩窟を穿って求聞持の秘法を行った求聞持窟=獅子窟のこと②「五柄の利剣」が空から降り、金色の光の中から「金剛蔵王大神」が現われたこと③大師に千手観音を造仏し、伽藍を再興するなら、 自らは鎮守の守護神となると蔵王権現が云ったこと
①求聞持窟=獅子窟
②五柄の利剣
③蔵王権現
の3つが弥谷寺の縁起の中核のようです。
金毘羅参拝名所図会 弥谷寺の(蔵王)権現社
この蔵王権現のことは、寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年1689)には、次のように記されています。
「大師登臨の時 蔵王権現示現し玉ひ、即鎮守とす。其像大師御作、御長七八尺、もとより畏る可しの形ちなり」
ここには、蔵王権現を鎮守とし、空海がその像を作ったとして大きさや形も記しています。
蔵王権現とは、どんな姿なのでしょうか
『金峯山秘密伝』延元2年(1337)の中に、次のように由来が説明されています。
『金峯山秘密伝』延元2年(1337)の中に、次のように由来が説明されています。
役小角が大峯の岩窟で守護仏を祈請するとまず釈迦如来、次いで千手観音、弥勒菩薩が現れたが小角は満足しない。最後に現れたのが蔵王権現で、小角はこれこそ自分に相応しい仏と感じて、金峯山の守護神としたという仏神である。
その像容は、一面三眼二膏、青黒身、忿怒相で、頭部に三鈷冠を頂き、右手に剣印を結び、左手を腰に据え、左脚は磐石を踏み、右脚は空に構える姿勢です。
石鎚山頂に運び上げられる蔵王権現
蔵王権現は役行者や吉野山の山岳信仰と結びつけられ、全国の霊山に勧進されていきます。
石立山と呼ばれていた石鎚山の頂上にも、かつては蔵王権現が祀られていました。そして、四国各地に石鎚山信仰の修験者たちいたようです。弥谷寺に蔵王権現が祀られていたのなら、開祖である役行者(役小角)と共にその祀り手は修験・山伏ということになります。弥谷寺は、寂本が指摘しているように、第85番札所の五剣山観自在院八栗寺と同じ修験者(山伏)の寺院ということになりますが・・・。どうもそうとは云えないようです。
石立山と呼ばれていた石鎚山の頂上にも、かつては蔵王権現が祀られていました。そして、四国各地に石鎚山信仰の修験者たちいたようです。弥谷寺に蔵王権現が祀られていたのなら、開祖である役行者(役小角)と共にその祀り手は修験・山伏ということになります。弥谷寺は、寂本が指摘しているように、第85番札所の五剣山観自在院八栗寺と同じ修験者(山伏)の寺院ということになりますが・・・。どうもそうとは云えないようです。
それでは弥谷寺に伝えられる「蔵王権現」とは、どんな姿なのでしょうか。
弥谷寺の蔵王権現は「蛇王権現 → 深沙大将 → 蔵王権現」と変遷
これが弥谷寺の鎮守堂に蔵王権現として祀られてきた像です。しかし、私たちが見慣れた蔵王権現の姿とは違います。「蔵王権現」とされてきたこの像は、近年の三野町史には「深沙大将(じんじゃだいしょう」の侍坐形式木像とされています。
弥谷寺の蔵王権現は「蛇王権現 → 深沙大将 → 蔵王権現」と変遷
これが弥谷寺の鎮守堂に蔵王権現として祀られてきた像です。しかし、私たちが見慣れた蔵王権現の姿とは違います。「蔵王権現」とされてきたこの像は、近年の三野町史には「深沙大将(じんじゃだいしょう」の侍坐形式木像とされています。
しかし、今回の調査報告書には、次のように述べられています。
「頭体を一材から彫り出して頚部で割首とするものか、背面から体部と頭部に内材を施して背板状の材を当てているとみられる。腕は両肩から先を別材として寄せ、膝前は横一材として腹前に矧ぎ付けるようであり、ほぼ通例的な木寄せとみられるが三角材の使用は不明である。炎髪部から姿をあらわす蛇形は当初のものとみられるが本像に特徴的なものである。
右耳から後方の地髪部には大きな修理が加えられており、書の形にも後の手が入るようである。首周りの燭骸の嬰塔は全て後補であり、ひとつ亡失している燭骸部の下にみえる体部材には彫出した痕跡は確認されない。また、深沙大将の図像に特有なものとされる腹部にあらわす童子面も本像にはみられず、かつて彫出あるいは添付をなされたようにはみられない。椅坐の形式は当初からのものとみられるが、深沙大将図像の特徴に上げられる象頭の袴をあらわす両足の膝頭部から下方の足先指にいたるまでは、体部に比して保存状態も良好であり胸部の彫りに比べるとやや硬く後補とみられること、
さらに同様な蛇の巻き付く両腕部は、天衣の一部をあらわす左上腕部だけは当初の可能性があるものの、ほかは天衣とともに後補とみられる。現状にみる体部表面の彩色も古色風に塗りなおされた可能性が高く、修補時に深沙大将像の図容として燭悽の理塔と象頭の袴などを調えた可能性を否定できない。像表面にみる胡粉下地を厚く整えた様子から推測すれば、一時期、かなり傷んだ状態にあったのではなかろうか。」
①深沙大将に特有な腹部の童子面がない②後世の修理の際に、深沙大将像の特徴である燭悽の理塔と象頭の袴などを後に調えた可能性③首周りの燭骸の嬰塔は全て後補④頭髪部の「七匹の蛇」も、当初は蛇に関わる夜叉神像が、後に深沙大将に似せられた可能性がある
その答えは、鎮守堂に掛けられた扁額にあるようです。
そこには「蛇王大権現」と記されているのです。「蛇王大権現」とすると頭に載せた「蛇は龍」とも読み替えることができます。どうやらこの像は「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」として作られ、いつの時代かに「深沙大将像」とされ、山岳信仰や石鎚信仰の山伏たちによって「蔵王権現」へと「変身」させられてきたようです。蛇王権現と蔵王権現の言葉の響きもよく似ています。
それではこの像が「蛇王大権現=龍冠の夜叉神」とすると、弥谷寺にあることをどう考えればいいのでしょうか
上田さち子氏は、本来山に棲む龍神が寿命の神であり、仏教と習合することで蛇王菩薩となったのではないかと次のように述べます。
「寿命の神である夜叉神は山に棲み、あるいは自力で天に昇る。彼らは、仏教の四天王をおそれ、僧形の蔵王菩薩に使われるようすを見れば、土俗的な存在といえる。生命を司る土俗の神が棲むゆえに、高山は他界となり、極楽往生を願う聖が山に登るようになったと私は考える。」
水分神として山に棲むと考えられたのが龍(蛇)形の夜叉神です。
この神は、生活になくてはならない水を供給する一方で、自然災害を発生させる危険な側面を持ちます。それと同時に人間の生命や寿命を司る神でした。それが仏と習合することで彼らが棲む山が浄土化し、大勢の聖や行人を惹きつけていったとされます。蛇王権現は、平安時代のこのような状況下で産み出された仏神のようです。この説は、柳田民俗学の「古より死者の霊魂は里に程近い山に籠る」という祖霊観への疑義でもあります。
この神は、生活になくてはならない水を供給する一方で、自然災害を発生させる危険な側面を持ちます。それと同時に人間の生命や寿命を司る神でした。それが仏と習合することで彼らが棲む山が浄土化し、大勢の聖や行人を惹きつけていったとされます。蛇王権現は、平安時代のこのような状況下で産み出された仏神のようです。この説は、柳田民俗学の「古より死者の霊魂は里に程近い山に籠る」という祖霊観への疑義でもあります。
蔵王権現と蛇王権現の目指した違いを見ておきます。
①蔵王権現は、忿怒の降魔神として、修行としては山中科檄を行い、即身成仏を目指した。②蛇王権現は、山中浄土観を保持し、無言断食や一心念仏による籠行(こもりぎょう)、磨崖仏や磨崖五輪を刻み、民衆の葬儀や死者供養などにも積極的に関わった。
②を信じた念仏行は、後の法然や親鸞の絶対的な阿弥陀如来を前提とした専修念仏とは少し違います。苦行によって直接的に浄土に迫ろうとする自力の口称念仏でした。しかし、彼らもまた「修験」であることに変わりはありません。両者の関係を整理すると
A 役小角系の修験で、「陽」の修験
B 念仏系行人集団で、「陰」の修験
Bの集団の信仰のひとつの象徴的な仏が「蛇王権現」のようです。これは金剛蔵王権現に対して、胎蔵蔵王権現の姿であるのかもしれません。Bの行人タイプの代表例が、阿弥陀聖、市聖とも称された空也(902頃―973)です。京都の六波羅蜜寺の彫像が有名です。
空也像
首から鉦を下げ、撞木と鹿角の付いた杖を持ち、草履履きで歩く姿です。空いた口から「南無阿弥陀仏」の六字名号が六体の化仏として表現されています。平安末期に編まれた『梁塵秘抄』(巻第二)に
B 念仏系行人集団で、「陰」の修験
Bの集団の信仰のひとつの象徴的な仏が「蛇王権現」のようです。これは金剛蔵王権現に対して、胎蔵蔵王権現の姿であるのかもしれません。Bの行人タイプの代表例が、阿弥陀聖、市聖とも称された空也(902頃―973)です。京都の六波羅蜜寺の彫像が有名です。
空也像
首から鉦を下げ、撞木と鹿角の付いた杖を持ち、草履履きで歩く姿です。空いた口から「南無阿弥陀仏」の六字名号が六体の化仏として表現されています。平安末期に編まれた『梁塵秘抄』(巻第二)に
「聖の好むもの 木の節鹿角鹿の皮 蓑笠錫杖木彙子(もくれんじ)) 火打笥岩屋の苔の衣」
と歌われた姿そのままです。彼こそ「山の聖」から様々な活動を経て都市に下り、「市の聖」に転換した宗教者の象徴人物と研究者は考えています。彼が最期を迎えた六波組蜜寺は、元は西光寺と呼ばれました。その場所は鳥辺野と呼ばれる葬地であり、京都の中では最も死者との関係が濃厚な場所でした。空也は、典型的な遊行宗教者でしたが、四国との直接的関係はあまりないようです。
若い頃、阿波と土佐の間の海中の島で苦行したという話がありますが、これは伝説に過ぎないようです。ただ愛媛県の第79番札所、西林山三蔵院浄土寺には、天徳年間(957~61)に滞在し、布教活動を行った形跡があります。
第79番札所、浄土寺の空也
本堂の厨子には、六波羅蜜寺と同等の牢也像が納められていて、作年代代も鎌倉時代のもので国の重要文化財にも指定されています。浄土寺はもともとは法相宗で、隆盛期には六十六房を擁したとされるので、念仏型や行人の活動拠点であったと研究者は考えています。
空也と弥谷寺を結ぶ直接の関係はありません。しかし、今まで見てきたことの延長線上には、弥谷にも空也と同じような念仏聖・行人集団がいたことが見えて来ます。
彼らが善通寺の別所「弥谷」の行人集団であったとすれば、寺院組織の中では地域民衆と交わることの多い、「寄人」して周辺の寺院に寄宿することも多かったでしょう。行人層は、日々の糧を保障された存在ではありませんでした。日々の生活は托鉢行で賄わなけらばなりません。その中には行基や空也のように、土木集団を組織して、橋を架け、水を引くなどの活動を行ったり、病気に苦しむ者がいれば看病し、調剤を行い、死人が出れば供養にも積極的に関わっていったことでしょう。そうした活動の中で、分かりやすい口称念仏を広め、その結果として、弥谷が浄土である「弥谷=阿弥陀浄土信仰」が定着していったと研究者は考えています。
彼らが善通寺の別所「弥谷」の行人集団であったとすれば、寺院組織の中では地域民衆と交わることの多い、「寄人」して周辺の寺院に寄宿することも多かったでしょう。行人層は、日々の糧を保障された存在ではありませんでした。日々の生活は托鉢行で賄わなけらばなりません。その中には行基や空也のように、土木集団を組織して、橋を架け、水を引くなどの活動を行ったり、病気に苦しむ者がいれば看病し、調剤を行い、死人が出れば供養にも積極的に関わっていったことでしょう。そうした活動の中で、分かりやすい口称念仏を広め、その結果として、弥谷が浄土である「弥谷=阿弥陀浄土信仰」が定着していったと研究者は考えています。
しかし、この系譜は鎌倉新仏教興隆の波に飲まれ、真言宗の大師信仰に吸収されていきます。歴史の表に立つことはなかったのです。弥谷寺の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像や五輪塔、そして蔵王権現として鎮守堂に祀られてきた「蛇王権現」は、弥谷寺を拠点とした念仏行者たちが残した痕跡なのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(2024年11月19日改訂版)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(2024年11月19日改訂版)
参考文献
「白川 琢磨 弥谷寺の信仰と民俗 弥谷寺調査報告書2015年所収」
「白川琢磨 顕密のハビトウス 木星社 2018年
「白川琢磨 顕密のハビトウス 木星社 2018年
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