古代中世の三野湾は大きく湾入していて、
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
などは、以前にお話しました。海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。
今回は旧三野湾周辺のお寺やお堂に残る中世の仏像を訪ねてみることにします。テキストは「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」です。訪ねるのは次の5つです
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像③宝城院の毘沙門天立像④汐木観音堂の観音菩薩立像⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
まず三野湾を眺め下ろす天霧山の中腹に位置する弥谷寺です。
この寺は西讃岐守護代で天霧城主であった香川氏の保護を受けて中世は栄えていたようですが、香川氏の滅亡と共に伽藍を焼失したとと伝えられます。そのためか古い仏像はほとんど残っていませんが、平安前期十世紀に遡る一木造の吉祥天立像と、鎮守堂に寺の守護神として祭られてきた異仏が中世に遡るようです。
この寺は西讃岐守護代で天霧城主であった香川氏の保護を受けて中世は栄えていたようですが、香川氏の滅亡と共に伽藍を焼失したとと伝えられます。そのためか古い仏像はほとんど残っていませんが、平安前期十世紀に遡る一木造の吉祥天立像と、鎮守堂に寺の守護神として祭られてきた異仏が中世に遡るようです。
吠えるように大きく口を開け、両目を見開き、髪を逆立て、そこから七匹の赤い蛇が頭をもたげ、左手を前に、右手は、やや後ろに引いて岩の上に坐しています。そして手首・足首には蛇が巻きつき、首には欄骸が飾られた、極めて異形の像です。この像こそ、はるか昔、唐の玄実三蔵(三蔵法師)が仏典を求めてインドヘ行く途中、砂漠の中で難渋していた時、出現し三蔵法師を救ったという深沙大将なのです。ヒノキ材、寄木造り、彫眼の像で彩色が施されています。
頭部と体部を同じ木から造り出すことや力強い表現など、この像が平安時代中期(十一世紀初期)に作られたことが考えられます。
旧三野町の報告書はこれを深沙大将像とします。
そして全国でも数体しか残っていないもので、さらにそれらの像はすべて立像で、岩座に坐るのは本像だけという極めて珍しい像とします。しかし、その後の県の調査報告書は「蛇王権現」とされています。それについては、以前お話ししましたので省略します。
そして全国でも数体しか残っていないもので、さらにそれらの像はすべて立像で、岩座に坐るのは本像だけという極めて珍しい像とします。しかし、その後の県の調査報告書は「蛇王権現」とされています。それについては、以前お話ししましたので省略します。
この仏像については専門家は次のように評価しています。
忿怒の異形相にもかかわらず、全体に優美に彫り整えられた作風は中央仏師のそれをうかがわせる。十一世紀初の作品で当時、中央の造仏界を取り仕切った仏師康尚、もしくはその周辺の手になると思われる。康尚は、日本の彫刻崚上もっとも著名な仏師の一人である定朝の父もしくは師匠と伝えられ、平安時代後期における同寺の中央との直接的つながりを物語る。
中央の仏師によって造られたものが弥谷寺に安置され、今に伝わったもののようです。
釈迦如来坐像 定朝様式の釈迦如来 西福寺
弥谷寺から流れ出す小川を下って行くと、大見に大屋敷という集落があります。このあたりは、中世に西遷御家人・秋山氏によって開発されたと考えられる地域であることは以前にお話ししました。ここに小さな御堂があります。かつては西福寺という寺があって、それを引き継いだようです。この御堂の本尊として祀られるのが、釈迦如来坐像です。
定朝様式の釈迦如来 西福寺
両手の指は繊細でしなやかさが感じられます。指先まで当初のものとみられるようです。右手を施無畏印(せむいいん)、左手は与願(よがた)を示した釈迦如来坐像です。 頭髪部には螺髪が細やかに刻まれ、お顔は優しい目とふっくらとした頬など静やかに表されています。肩部はなだらかな曲線を帯び、膝の高さは低くし、そこに浅く流れるような衣文が劾まれています。このように優美な仏像は、平安時代後期に大仏師・定朝一によって確立されたものです。
定朝が造った著名な仏像に、平等院続鳳凰堂の丈六(一丈六尺)の阿弥陀如来坐像があります。この仏像は「仏の本様」といわれ、平安時代後には同じような姿の仏像が全国的に数多く造られました。
西福寺の釈迦如来像も、この定朝様を踏襲したものです。制作時期は、平安時代末期(十二世紀)で、像高53㎝、ヒノキ材の寄木造り、彫眼の像で、それほど大きくはありませんが均斉のとれた見事な像です。
この仏像も中央の工房で造られたものが三野津湾を拠点に活動する交易船によてもたらされたと考えることができそうです。なお台座裏の墨書により‐江戸時代前期、貞享五(1688)年に修理されたことが判明します。それ以前から、ここに安置されていたことになります。
釈迦誕生仏(西福寺蔵)
もうひとつ西福寺像として、伝えられているのがこのブロンズ像です。
右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたという、釈迦誕生を表しています。誕生釈迦仏立像は9、1㎝の小さな仏像でスリムですが、胸から上に厚みがあります。柔和な表情に白鳳仏の趣があると専門家は評します。白鳳か天平時代のもので、非常に珍しいもののようです。
右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたという、釈迦誕生を表しています。誕生釈迦仏立像は9、1㎝の小さな仏像でスリムですが、胸から上に厚みがあります。柔和な表情に白鳳仏の趣があると専門家は評します。白鳳か天平時代のもので、非常に珍しいもののようです。
こんな小さな仏がお寺に安置されて信仰の対象となっていたのでしょうか?
どうもそうではないようです。個人の持仏だったようです。
どうもそうではないようです。個人の持仏だったようです。
古くから、四月八日のお釈迦様の誕生日に、小さな釈迦誕生仏を季節の椛で飾り、甘茶を潅いで釈迦の誕生を祝う「花まつり」が行われた来ました。その時の主役が、誕生仏だったようです。
もう一度、像を見てみると、右手の親指、人差指、中指を伸ばし、左手の指を全て真っ直ぐ伸ばすこと、蓮肉と本体を共鋳すること、細身の体型であることなど、古代の誕生仏の特徴を示しているようです。疑問になってくるのは、その頃に、このあたりにで古代寺院が建てられていたのでしょうか。前方後円墳も大型石室を持つ古墳もない旧三野湾エリアでは考えられません。後世になって伝来した可能性が高いようですが、詳しいことはよく分からないようです。
毘沙門天立像(宝城院蔵)
次にやってきたのは貴峰(とみね)山の麓の宝城院です。
この寺はすぐそばの日吉神社を、はじめ周辺神社のいくつかの別当寺を務めていたようです。そのため明治維新の神仏分離の廃仏毀釈を逃れて避難してきた仏像がいくつか集まってきています。
宝城院(本尊・毘沙門天)の寺号は、多聞寺です。多聞とは仏教世界の北方を守護する多聞天のことで、別名を毘沙門天とも呼ばれます。多聞寺の寺名は、本尊が毘沙門天に由来するようです。
毘沙門天は古代インドでは暗黒界の悪霊の長とされましたが、ヒンズー教に取り入られ財宝・福利を司る善神となり、さらに仏教にも加わりました。悪神が後に、善神に転じて信仰の対象になることはよくあることです。菅原道真や崇徳上皇の怨霊が後には、天神や天狗として祭られるようになるのと同じなのでしょう。毘沙門天は仏教に取り入れられてからは、四天王のひとつとして、北方の守護神となり、やがて七福神のメンバーにもなります。そして、独り立ちしてもやっていける「集客力」を持った天部の仏に成長していきます・
それでは、宝城寺の本尊である毘沙門天を見てみましょう。
高78、8㎝でカヤと思われる一木造りカヤ材の一本からほりだされている。直立した姿形や宝冠を共木で彫出するなど古様な造りで、やや寸詰まりであるが、その比較的太造りの体型に十一世紀後半から十二世紀初頃の傾向がうかがえる。直立し右手に戟(欠失)、左手に宝塔(後補)を持つ毘沙門天、平安時代後期に遡る古像。両手や右一肩などに後補がみられ、また各所一に虫・損がみられる。
この動きのないむっくり感が鎌倉以前の天部の「古用」の特徴のようです。
汐木観音堂の観音菩薩像
高瀬川河口の西側には汐木山があります。古代・中世を通じて、この山の周辺では製塩が行われていたようで、その薪確保の権利が保障されていた山だとされています。また、近世以後に三野津湾が干拓された後には、この地に汐木湊が造られ、年貢米の集積・積出港として繁栄したエリアです。その面影が大きな灯籠(灯台)や背後の荒魂神社に残っています。
ここには汐木観音堂というお堂が残っていて、そこに鎌倉期十三世紀中頃の観音菩薩像が安置されています。
この仏像も観音様にしては、私が見なれた観音とは何かしら印象が異なります。しかし、専門家は次のように評します。
宝冠の文様や頭髪の毛筋など細部をゆるがせにしない製作態度、およびその甘さをふくむ端正な顔立ちに秀逸さをみせ、中世金銅仏のなかでも特に優れた作例のひとつといえる。腹前で右手を下にし、その上に左手を乗せた姿も珍しい。頭部に戴いた宝冠の正面に如来形は、信濃・善光寺の本尊である阿弥陀三尊の観音菩薩に見いだすことができる。
と云います。どうやらこの観音様は信濃・善光寺の阿弥陀三尊の様式の脇仏のようです。善光寺の阿弥陀三尊は、鎌倉時代になり全国的な流行になったようで、それを模した像が数多く造られます。その多くは鋼製で阿弥陀如来が像高を約一尺六寸、両脇侍は約一尺弱のタイプが多かったとされます。この観音菩薩も、その広がりの中で鎌倉時代後期に造られた善光寺式の阿弥陀三尊のひとつのようです。元来は鍍金され金色に輝く姿で、勢至菩薩とともに阿弥陀如来をお守りする三尊だったのでしょう。
善光寺の前立 阿弥陀三尊
しかし、なぜこの観音菩薩だけが、ここに残されているのでしょうか。詳しいことは分かりません。分かっているのは「仏像」たちも旅をし、移動することです。戦国の戦乱の中で焼け出された仏たちは、旅の修行僧に背負われ安息地を求めて移動します。遠くの港に出向いた梶取り(船長)は、実入りのいい航海の時には立ち寄った港にある衰退したお寺から仏像を買い求め、生国にお土産として持ち帰り、信仰するお寺に寄進することもありました。どちらにしても寺勢のあるお寺には仏さんたちが集まってくるようです。
最後は正本観音堂の十一面観音像です
現在の正本観音堂は、かつて宝宮寺という寺院であったといいますが、詳しい寺歴は分かりません。 まずは専門家の評価を見てみましょう
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)
像塙107、3㎝でヒノキ材による寄木造り、かつ素木仕上げからなる檀像仕立ての像である。下半身にまとう腰布、腰帯などを複雑に折りたたむ形式、および頂上仏面の、清涼寺式釈迦のそれと同じ髪形はいわゆる「宋風」の影響を想わせる。現在は左上瞼が欠けるためその印象をやや損ねるが、総じて彫技は鋭く、また流麗である。年代も十三世紀前半を下らず、同期造像中の逸品とみて異論はないだろう。
先ほどの汐木観音と同時代の作品ですが、見なれた感じで親近感の持てる観音様です。頭部に10面の面があるので11面観音と分かります。左手に水瓶を持ち、右手はすっと下に下ろし、スラリとした姿が印象的です。
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)
卵形のお顔に、キリリとした目の表現やキュツと結んだ目元など引き締まった感じで、「美形やな」と呟いてしまいます。
以上、旧三野津湾沿岸に残る白鳳から鎌倉期におよぶ仏像を見てみました。伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているような気が改めてしてきました。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」
「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」
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