大三島の大山祇神社は、一遍の出自の豪族河野氏の氏社です。聖絵では、壇ノ浦の戦いで活躍した一遍の祖父河野通信が厚く信仰したことが語られています。また、一遍の信仰は神と仏とを合わせて信じる雑修信仰だった云われます。
とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ
という神詠によく現れています。熊野神と八幡神に結縁した一遍にとって、氏神でもある大山祇神社の懐は、居心地のいいところだったのかもしれません。聖絵によれば、一遍は大三島で神官と地頭に「殺生禁戒」を誓わせたといいます。一遍の布教スタイルといえば、
(1)遊行、(2)踊り念仏、(3)賦算(念仏札配り)
です。が、法然が唱えた専修念仏からは少し離れ、仏教の戒律も重視していたことがうかがえます。同時に、大三島の支配者層の帰依を受けていたことも分かります。
時衆の踊り念仏とそれを見守る庶民達
冬を大三島で過ごし、翌年正応二年の春が来ると、一遍時衆は動き始めます。
「時宗」という語は江戸時代以後のもので、それまでは、一遍に従う僧尼たちは「時衆」と呼ばれていました。ここでは、彼ら一行を「時衆」と呼ぶことにします。
絵巻『一遍聖絵』は、念仏勧進のための諸国遊行の旅の様子が描かれています。その中には遊行先での賦算(ふさん。お札を配ること)や踊り念仏をする様子と見物人たちが描かれています。
また、周囲の風俗や各地の名所が写実的に詳しく描かれていて、今日では高い評価がされているようです。
絵巻『一遍聖絵』は、念仏勧進のための諸国遊行の旅の様子が描かれています。その中には遊行先での賦算(ふさん。お札を配ること)や踊り念仏をする様子と見物人たちが描かれています。
賦算(ふさん。お札を配ること)の様子
また、周囲の風俗や各地の名所が写実的に詳しく描かれていて、今日では高い評価がされているようです。
『一遍聖絵』巻十一には、死出の旅となった讃岐から阿波への遊行が次のように記されています。
正応二年、讃岐国にこえて善通寺曼陀羅寺巡礼し給ひて、阿波国にうつり給ふ。聖いかゞおもひ給ひけむ、
「機縁すでにうすくなり、人教誠をもちゐず、生涯いくばくならず、死期ちかきにあり」との給ひけるを、人々あやしみおもひけるに、いくほどなくして大鳥の里河辺といふところにて、六月一日より心神例に違し、寝食つねならずおはしましけるに、おもふことみなつきはてぬうしと見しよをばさながら秋のはつかぜこの詠につきて時衆ならびに参詣の人々もいよいよ、心ぼそくぞおぼえける。七月のはじめに阿波の国をたちて淡路の福良にうつり給ふ。
ここからは1289年の春に、大三島を出発し、讃岐に入り善通寺や曼陀羅寺を巡礼しています。香川県史には、この際に宇多津の郷照寺を拠点に布教活動を展開し、この時の踊念仏が、後の雨乞い念仏踊りになったのではないかと記します。しかし、それも1ヶ月足らずの期間であったようです。
6月1日は阿波の国へと移動していたことが分かります。阿波入りして間もなく
6月1日は阿波の国へと移動していたことが分かります。阿波入りして間もなく
「機縁すでにうすくなり、人教誠をもちゐず、生涯いくばくならず、死期ちかきにあり」
と、布教活動かうまく行かず、一行の中から離脱する弟子たちも現れたことがうかがえます。死の近いことを予言します。
そして、「大鳥の里河辺」という所で6月1日に、ついに心神違例となり、寝食が異常となったようです。その後、阿波を発ち淡路に向けて出発するのが7月初めです。約1ヶ月近く病気療養のために、大鳥の里河辺に留まったようです。
それでは一遍が発病し1ヶ月を過ごした「阿波の大鳥の里河辺」はどこなのでしょうか?
そのルートについて、ある研究者は次のように推測します。
四国遍路の巡礼道をたどって一遍は、讃岐から阿波入りしたと考えられる。当時は一般旅人の通った道は讃岐大川郡の白鳥引田町から大坂越をして阿波吉野川平野に出る道しかなかったのではあるまいか。そうだとすると大鳥の里河辺は吉野川河口のデルタ地帯の小集落であったのだろう」
この説に従うと、淡路に向かうためには鳴門に至る撫養街道に出なければなりません。そうすると使ったルートして、考えられるのは次の3つです。
① 四国辺路を辿って、善通寺・曼陀羅寺から海岸づたいに、JR高徳線にそって白峰寺、屋島寺、志度寺などを巡礼し、長尾寺から内陸に入り、現在の結願寺の大窪寺経て、10番切幡寺② ①と志度寺までは同じで、その後は海沿いに白鳥・引田を経て大坂峠を越える旧南海道③ 一番最短なのは、善通寺から南海道を東に一直線に進み大坂峠越え
中世の旅人達が最も使用していたのは、③大坂峠越の南海道です。源平合戦の屋島・壇ノ浦の戦いの際にも、義経は、最短のこのルートで屋島を目指しています。いわゆる主要街道です。
しかし、一遍にとって急ぐ旅ではありません。いろいろな聖地・霊山を経ながらの布教の旅です。③のルートを使う必要はなかったように思えます。聖地巡礼の四国辺路ルートに、こだわるなら①の大窪寺経由の現県道2号線沿いになります。
遊行する一遍時衆たち 尼僧の姿も見えます
次に「阿波の大鳥の里河辺」が、どこなのかについて
その説明版には次のように記されています。
徳島県指定史跡河辺寺跡 指定年月日 昭和40年2月5日所在地 麻植郡鴨島町敷地字宮北四二六、四二七、四二八番地平安時代の寺跡と推定せられているもので礎石17個が露出している。昭和29年12月に耕作者佐藤一氏により発掘されたもので、多数の出土品は現在県博物館に保存されている。阿波誌によると河辺寺は往時、七堂伽藍の名刹なりしが、天正の頃兵火にかかり、再建に至らずして廃寺となり、寺跡に小庵を建立し遺跡の石地蔵とまつり今日に至る。
昭和39年2月刊『鴨島町誌』には、次のようにあります。
「古くから敷地にこうべ寺(河辺寺)という寺があったと伝えられるが、それを立証する物的証拠はなかった。昭和29年敷地字宮の北の畑地を発掘調査し17箇の礎石を発見、その配置ならびに出土した瓦の中に平安時代前期の弘仁、貞観のころのものもあることなどによりこうべ寺跡であることが確認された。時代考証の結果、およそ平安中期に創建されたものであろうということになった。」
河辺寺は土地の人々はコウベジと呼んでいて、「神戸寺」と書いたようです。しかし寺址の南西約50mの所に河辺八幡宮跡と刻した石碑が立ち、寺址のすぐ南下に河辺庵があって河辺寺の後を継ぐというから、河辺寺と書くのが正しいのではないかと研究者は考えているようです。
以上から、確かに鴨島町に河辺寺という寺があったことは確認できます。これがはたして『聖絵』巻十一にいう一遍が発病した「大鳥の里河辺といふところ」なのでしょうか。河辺寺という寺がここにあったということは、この辺が河辺と呼ばれていたことは考えられます。ここ以外に阿波では「大鳥の里河辺」という所は見つからないようです。一応、現時点では一遍が正応二年六月一日に心神違例となった場所は、この敷地河辺としておきましょう。
それなら、なぜ一遍時衆はこの地を訪れたのでしょうか?
それなら、なぜ一遍時衆はこの地を訪れたのでしょうか?
敷地の丘を越えた谷筋には、四国十一番札所の藤井寺があります。いまは臨済宗妙心寺派ですが、天正年間の兵乱で焼失する以前は真言宗で、真言密教の道場として栄えたとされます。 一遍は藤井寺に向かおうとする途中の河辺寺で発病したのかもしれません。
『往古過去帳』
一遍の阿波遊行については『往古過去帳』尼衆にも、重要なことが記されているようです。
『往古過去帳』は、代々の遊行上人が持参してきた過去帳で「僧衆」「尼衆」の2帖があります。一遍以来の上人たちが諸国遊行に持って歩き、遊行途上で死亡した僧尼の法名を真筆で書き継いだものです。弘安2年(1279)6月の一遍在世中に、二祖真教の筆で始まり、30代有三が遊行を相続した永禄6年(1563)まで、285年間で12000近くの霊数が記されています。後代には信者の法名も記入されるようになり、これを「お過去帳入り」と称して、浄土往生の証と考えられるようになります。この中に次のような事項があります。
正応二(1289)年五月廿二日 賀茂阿波国 南仏房
これは一遍のひきいる時衆の一群が、正応2(1289)年5月22日に阿波の賀茂に滞在して、そこで南仏房という尼僧が亡くなったのを真教が往来過去帳に記入したものです。ここからは一遍時衆が5月22日に「賀茂阿波国」にいたことが分かります。
それでは「阿波のの賀茂(加茂)」とはどこなのでしょうか。
賀茂のついた地名を挙げると
①徳島市に加茂名町②名西郡石井町に加茂野③吉野川上流の三好郡に三加茂町加茂
の3つが挙がるようです。しかし、南仏房という尼僧が往生した賀茂は、三好郡三加茂町の加茂だと研究者は考えているようです。なぜならば一遍は、6月1日には「大鳥の里河辺」(鴨島町の敷地河辺)にいたからです。5月22日に①や②でいたのでは、吉野川を遡って西に向かう旅をしていたことになります。一遍が向かっていたのは淡路ですから吉野川を下って東に向かっていたと考えなければなりません。
整理すると5月22日に三加茂町で南仏房が往生し、それを見送った後に、吉野川の流れに沿って東に進み、6月1日に鴨島町河辺にやって来て。そこで一遍は心神違例となったと考えるのが自然だと研究者は考えているようです。とすると、最初に考えた一遍が讃岐から阿波入りに使ったコースは、全て誤りだったということになります。
整理すると5月22日に三加茂町で南仏房が往生し、それを見送った後に、吉野川の流れに沿って東に進み、6月1日に鴨島町河辺にやって来て。そこで一遍は心神違例となったと考えるのが自然だと研究者は考えているようです。とすると、最初に考えた一遍が讃岐から阿波入りに使ったコースは、全て誤りだったということになります。
もう一度、一遍時衆が辿った讃岐から阿波へのルートを考え直す必要があるようです。
三加茂町加茂は吉野川上流右岸の段丘の上に開けた町で、「賀茂の大クス」という巨樟が町の真ん中に立っています。南は剣山に続く尾根がいくつも張り出してきて谷を作ります。ここに5月22日に一遍一行が滞在していたのなら、讃岐善通寺から阿讃山脈を越えてやって来たことになります。そのルートを考えたいと思います。
まず一遍が善通寺を出たのがいつのことなのでしょうか?
『絵詞伝』巻四には「同年(虹鶴)五月の頃、讃岐より阿波にうつり縞ふ」
とあります。その年の正月を大三島で迎えた一遍は、2月9日に桜会をおこなった後に、讃岐に入ってきます。各地で念仏勧進を行いながらの旅ですから、善通寺や曼荼羅寺を参拝後に讃岐山脈を越えて阿波賀茂に入ってきたのは、『絵詞伝』にあるように5月ごろなのでしょう。
①二軒茶屋越 (財田町 ー 三好市箸蔵②樫の休み場越 (まんのう町塩入 ー 三好町昼間)③三頭峠越 (まんのう町美合 ー 美馬市美馬
の3つが候補に挙がります。
近世において阿波街道として、最も利用されていたのは③三頭越になります。
このルートは、土器川沿いにまんのう町美合の山間の集落を抜けて、現在の国道438号の三頭トンネルの上にある峠を越えて、美馬町に抜けていきます。一般的には、このルートが考えられるのですが、美馬町は三加茂よりも東に位置し、吉野川の下流にあたります。このルートを取ったとすれば、美馬町から吉野川を西に遡って三加茂にやってきたことになります。道順的には不合理です。
①二軒茶屋越は、近代に大久保諶之丞が四国新道を開くまで使われていたルートです。
阿波池田方面の人々が利用したルートです。しかし、三加茂を目指すには少し、遠回りになります。
一番善通寺・琴平方面から三加茂に近いルートは②の樫の休場経由です。
このルートは、金倉川沿いに上流を目指し、塩入から山道に入り地元では二本杉と呼ばれる樫の休場経由で、現在の東三好町昼間に下って行くルートです。ここでは②のルートを使ったことにしておきます。
阿讃山脈を越え阿波に入った一遍は、吉野川の流れに沿って東に歩き、5月22日には三加茂町に尽きます。そしてメンバーの一員である南仏房が往生し、『往古過去帳』に記入されます。暦は陰暦なので五月下旬といえば、梅雨の最中か、梅雨明けの暑さがやってきた頃だったでしょう。
享保六年『遊行派末寺帳』【南海道】には、次のような末寺が記されています
紀伊 七郡【2寺】⑥安養寺(若山湊) ⑥浄土寺(藤代 鳥居浦)
淡路 二郡【なし】
阿波 四郡【4寺】 ⑥常福寺(加茂) 善成寺(画(昼?間)
弘願寺(二階堂)②光摂寺(八万)
弘願寺(二階堂)②光摂寺(八万)
伊予十四郡【6寺】⑥定善寺(松前) ②宝厳寺(道後村奥谷)
入仏寺(八蔵)円福寺 願成寺(内ノ子村宮床)
保寿寺(陽)
入仏寺(八蔵)円福寺 願成寺(内ノ子村宮床)
保寿寺(陽)
土佐 七郡【3寺】乗台寺 (佐河) 善楽寺(一山) 西念寺(一野)
讃岐 十三郡【7寺】⑥興善寺(爾保)②江(郷)照寺(宇多(足)津)
浄土寺(由佐・尼)興勝寺(勝間) 興徳寺(大田・尼)
高称寺(観音堂・尼)荘厳寺(一宮)
浄土寺(由佐・尼)興勝寺(勝間) 興徳寺(大田・尼)
高称寺(観音堂・尼)荘厳寺(一宮)
阿波には4ヶ寺あったようですが、その筆頭に記されているのが六 常福寺(加茂)です。そこに遊行上人が訪れたことは確かなようです。
三加茂町賀茂から吉野川を西に約四㎞ほど遡った対岸に、三好町昼間があります。さきほど紹介した②の樫の休場からのルートが撫養街道と合流する地点です。
『往古過去帳』遊行十六代南要条に、覚阿弥陀仏(ヒルマ)
と記入されています。遊行上人16代の南要は『遊行十六代祖四国回心記』に記録されているように阿波を遊行しています。このヒルマもこの昼間だと研究者は考えているようです。
また享保六年末寺帳に、善成寺 昼間
とあるので、昼間に善成寺があったことが分かります。
ここからは阿波加茂と近くの昼間に、時衆寺院が2つあったことが分かります。これは、このエリアが時衆教団にとってゆかりの深い土地であったことを推測させます。そのゆかりとは何かと考えれば、正応二年五月二十二日に阿波加茂で亡くなった南仏房が一遍か真教にゆかりのある尼であったからではないのかとの推測ができます。他の者の往生は、地名が記入されていないのに、南仏房だけ「賀茂阿波国」と往生地が記入されているのも手がかりです。
5月22日から9日後の6月1日、 一遍は「大鳥の里河辺」で病みます。
阿波加茂から鴨島町敷地河辺までは、直線距離で約40㎞です。一遍は時衆をひきつれて、日に平均約5㎞という牛の歩みのようなスローテンポで遊行しながら吉野川沿いに東へ歩んでいきます。「讃岐から阿波に入った一遍は
「機縁すでにうすくなり、人教誡をもちゐず」
と言ったと伝えられます。 このエリアでの時衆集団の状況が悪かったことがうかがえます。少し想像力を膨らませて、時衆集団が直面した状況を再現してみましょう。
信不信を選ばず布教を続ける一遍時衆の算を、地元の人たちから拒否されることが多かったのかもしれません。それとも時衆の中に戒律に背いて追放される者が続出したのかもしれません。あるいは、阿讃山脈越の難路で一遍の疲労が甚だしかったこともあるでしょう。そのような中で阿波加茂で南仏房が亡くなります。旅を続ける一遍も、梅雨明けの酷暑の遊行に疲れきっていたのかもしれません。そのような中で、村里で人々に賦算しながの遊行は、一日にせいぜい五㎞ぐらいしか進まなかったのかもしれません。こうして古野川右岸を上流から下流に藤井寺を目指して歩いて行った一遍は、旅の疲れからか、その手前の河辺寺付近で発病するのです。
1ヶ月の療養でも、全快には至らず無理を押しての旅立ちとなったのかもしれません。やがて阿波の国府、いまの徳島市国府に至ります。国府から古代の官通はまっすぐ北上し、吉野川を渡って、板野郡板野町大寺に至ります。大寺には四国霊場3番金泉(こんせん)寺があり、大寺の郡頭(こおず)は『延喜式』に「阿波国駅馬、石濃(隈?)、郡頭各五疋」と記され、律令時代の宿駅でした。。郡頭から官道は讃岐山脈の南麓を東に向かい、二番極楽寺、 一番霊山寺の前を通過して鳴門市大麻町石園(いその)に至ります。この石園が『延喜式』に記された石濃のようです。さらに東進すると鳴門市撫養で、ここから船に乗って鳴門海峡を横断し淡路の福良に上陸するというルートになります。淡路という名称はもと阿波路で、律令時代に大和から阿波へ行く路にあたっていたので阿波路といったと云われます。吉野川を下って阿波の国府に着いた一遍は、おそらくこの古代の官道
に沿って淡路へと歩を進めたのでしょう。
一遍終焉の兵庫の観音堂
そして、淡路から兵庫に渡りその地を臨終の地とすることになります。まさに、死地に向かって歩み続ける最後の遊行の旅が讃岐から阿波への旅路だったようです。
「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
(『聖絵』第十一 第四段)
以上をまとめておきます。
①一遍は臨終の1年前に河野氏の氏神で大三島の大山祇神社で一冬を過ごした。
②翌年の春開けに大三島を出て、讃岐の善通寺・曼荼羅寺を巡礼し
③5月にはまんのう町を経由して、讃岐山脈を越えて阿波加茂に至った。
④阿波加茂で、時衆の中の尼僧が5月21日に亡くなっている
⑤その後、吉野川沿いに東に向かい鴨島町の河辺寺辺りで発病し、
⑥約1ヶ月の療養の後に、淡路を経由して兵庫に向かった。
⑦そして、兵庫がで臨終を迎える
善通寺からまんのう町を経ての山越えの道は、死出へ旅立ちの道でもあったことになるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
今井清光 時衆教団の地方展開 東京美術社 昭和58年
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