阿讃の峠を越える借耕牛
阿波の美馬,三好地方で「米牛」と呼ばれる借耕牛の習慣は,江戸中期から始まったとされています。
農耕用の牛は一年中、働き場所があるわけではありません。春秋の二李,(田植期と収穫期)のみが出番です。そこで、美馬・三好両郡の山分で水田に乏しいソラの農家が,自分の家の役牛を農耕用として讃岐の農家へ貸します。そのお礼に、おいしい「讃岐米」の俵を背に積んで帰ってきました。今回は借耕牛(米牛)について見ていくことにします。テキストは「借耕牛の研究」四国農事試験場報告6号381P~(1962年)」です。これは、PDFfileでダウンロード可能です。
借耕牛が成立するには次のような背景がありました。
これに対して、阿波には山の上に広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。
阿波のソラの集落には広い放牧場があった。
また、美馬や三好地方の田植は5月ですが、西讃地方の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったようです。 そこで、この間を橋渡しする仲介業者が現れるようになります。
貸方の阿波農家と,借り方の讃岐農家の間に入って牛の仲介する博労を美馬郡では俗称「といや」、さぬきでは「ばくろ」と呼んでいました。「といや」が中に立って牛を連れて行く場所と日時を決めます。
それが讃岐側の塩江の岩部、まんのう町の美合や塩入、財田の戸川でした。そこに借り手と貸し手と牛が集まってきます。ここで仲介人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で讃岐側の借主が牛をつれて帰りました。
それが讃岐側の塩江の岩部、まんのう町の美合や塩入、財田の戸川でした。そこに借り手と貸し手と牛が集まってきます。ここで仲介人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で讃岐側の借主が牛をつれて帰りました。
このような光景が、まんのう町の塩入や美合でも見られたのです。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年発行)には、塩江の岩部の当時の様子が次のように書かれています。
先のとがった管笠をかむって ワラ沓をはいて 上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから牛はやってきた朝 登校の途中でこの牛の群れに出会うと わたしたちは小さい溝を飛び超えて 山手の方に身を避けた 牛の群れが立てた往還のものすごい土ぼこりを 山から吹きおろした青嵐が次々と香東川の清流の中へ消していった
岩部(塩江温泉周辺)の里は一ぺんに活気づいた 牛追いさん 受け取り人 世話人(口入れ人) 牛馬商が集まってきて 道も橋も牛と人で一ぱいになった うどん屋も 宿屋も 料理屋も押し合いへし合いで 昼のうちから三味線の音が聞こえ 唄声が流れた
田植えが済んで牛が帰るころは もうかんかん照りの真夏であった 借耕牛は米牛とも呼ばれ 米を何俵ももらって帰ったものだ 塩ざかなを角に掛けた いわゆる「角みやげ」をもらった牛もいるかわいそうに使いぬかれて やせ衰えた牛もいる 讃岐でお産をして可愛い子牛と一しょに帰る牛もいたそれらが帰ってしまうと 岩部の里は 一ぺんに静かになって 長い冬がやって来るのであった
どうして阿波からの借耕牛がやってくるようになったのか?
①江戸時代に、阿波の男達が農繁期に「カルコ」として出稼ぎにやってきていた。②幕末期に讃岐の砂糖製造が軌道に乗ると、砂糖絞りのための牛の需要が増大した。これには小さな讃岐牛は不適で、大型で力のある阿波牛が適していた。③「カルコ」たちが牛を連れてやってきて、砂糖絞り車で働き始めた。
借耕牛以前に「人間の労働力移動(出稼ぎ) → 砂糖牛の移動」という段階があったようです。
明治になって借耕牛が増えたのは、どうしてでしょうか?
明治になって借耕牛が増えたのは、どうしてでしょうか?
1 阿波側の藍栽培の衰退
阿波の特産品と云えば藍でした。しかし、明治34年からの合成藍の輸入で急速に衰退します。その結果、藍輸送用の牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
2 代わって明治になって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
葉煙草には、牛堆肥が最良の肥料です。牛肥を得るために、煙草農家は和牛飼育を始めます。こうして三好郡の役牛数は増加します。藍の衰退による「役牛大量失業」と葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。例えばまんのう町の美合には
煙草作りの牛肥確保のために、讃岐の牛を農閑期に預かっていた
という古老の話が残っています。明治15年頃の話ですが、阿波側は田植えを早く済ませると零細農家の男達もは讃岐へ出稼ぎに行っていたのは、先ほど紹介したとおりです。彼らは牛のいない農家です。そのため田植えが終わって帰る時に、讃岐の雇主の牛を預かって帰り、夏草で牛を飼い堆肥を作って、秋に牛を返すときに自分も働いて帰っていたというのです。牛の飼い賃としては、米・綿・砂糖・煮干しをもらったそうです。
3 讃岐の農業事情 砂糖・綿花が香川から姿を消すのが明治末。
藍が衰退したように外国からの輸入で、サトウキビや綿花の栽培も経営が行き詰まります。そこで、綿花や砂糖黍が作られていた土地が再び水田化され、米麦集約栽培の単調な農業経営へ変わって行きます。さらに、満濃池の増築など農業水利の整備で、畑の水田化も進み水田面積が急増します。こうして、牛耕需要は高まります。江戸時代から借耕牛を利用していた家の周辺でも「うちも来年からは、お願いしたい」という声が中継人に寄せられるようになります。
4 阿波の畜力事情 牛馬の所有率が高い阿波の農家
上表からは、江戸時代の文化年間(1789~)の阿波の和牛普及率は7~9割で高いことが分かります。特に、ソラの集落では各農家が早くから牛馬のいずれかを買っていました。その背景は、藍による資本蓄積が進んだ明和時期(1770年)に普及率が急増したことがうかがえます。藍バブルで儲けたお金を牛の購入という生産性の向上に着実に投資したようです。
それに比べて西讃地方の牛普及率はどうでしょうか?
普及率が高い三野郡でも5割に達していません。平均4割程度で、阿波に比べると牛馬の普及率が半分程度であったことが分かります。この「格差」が牛の移動をもたらした要因のひとつのようです。
それでは、どのくらいの牛が峠を越えて讃岐に出稼ぎにやってきていたのでしょうか
①三好郡と美馬郡でそれぞれ1800頭前後で、合計約3500頭が借耕牛として阿讃の峠を越えていた。②香川県の美合村や安原村からも借耕牛が出ていた③三好郡で貸出率が高いのは、三縄・井内谷・箸蔵で7割を越えている④美馬郡で貸出率が高いのは、端山や一宇でソラに近い村の方が高い傾向が見られる。
「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになった明治になると、借耕牛は急激に増えたようです。そして、戦前直前の1940年頃には毎年約4000頭が阿讃の峠を越えて讃岐にやって来たようです。それは美馬三好両郡で飼育されていた牛の頭数の約半数になるようです。
最盛期の借耕牛の移動を図示化したものです
①美馬郡 → 相栗峠→岩部口(高松氏塩江町)→ 三頭峠→美合(まんのう町)→ 香川郡 高松平野
②三好郡 →東山峠 →塩入(まんのう町)→綾歌郡→男山峠 →山脇(まんのう町) →仲多度郡→箸蔵街道 →財田(三豊市財田町)→三豊郡
阿波西部の2つの郡から阿讃の峠道を越えた牛たちは、里の宿場に集結し、讃岐の借り手の家に引き取られていきます。
戦前には約4000前後だったのが,高度経済成長期には約500頭まで激減します。それは耕耘機が現れたからです。いわゆる「農業の機械化」で、水田から牛の姿は消えていきます。
(数字は、夏秋の合計)
戦前には約4000前後だったのが,高度経済成長期には約500頭まで激減します。それは耕耘機が現れたからです。いわゆる「農業の機械化」で、水田から牛の姿は消えていきます。
春は6月上旬から7月の半夏(はんげ)の頃まで1ケ月間秋は11月上旬から12月上旬までの1ケ月間で,給金として米俵二俵(8斗前後)を背に積んで帰りました。
しかし、上8を見ると分かるように大正時代になると、どの地域でも米から現金に変わっていったことが分かります。貨幣経済が本格的に浸透が、このあたりだったことがうかがえます。
春は1ケ月間,丈夫な牛で最高9,000円~最低4.000円秋は1ケ月は,丈夫な牛で8,000円弱い牛で約4,000円
こんな借耕牛の姿が見られたのも1960年頃まででした。農業の機械化が進み耕耘機が登場すると牛耕の時代は終わります。牛たちは田んぼから静かに姿を消しました。そして阿讃の峠を越える牛の姿もなくなったのです。
先ほど紹介した小野蒙古風の「句集 借耕牛」に載せられた句を紹介します
借耕牛 青峡下る草鞋ばき借耕牛 糶(せ)られつ緑陰に尿太し糶る牛 歩かせ値ぎめの指を握りあう幾青嶺超え来し牛か澄む瞳して牛貸して腰の弁当涼しみ喰う
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