ザヴィエルが日本にやてきたころの讃岐の情勢は?
①守護細川氏が衰えた結果、武士間の対立抗争が激化②分裂状態に乗じて阿波の三好氏の讃岐進出が始まる。③三好氏の西讃侵入と、天霧城主の香川之景の従属。④信長が三好氏を破ると、讃岐武士団も相続いで信長の支配下に⑥天正六年(1578)に土佐の長宗我部元親が讃岐侵攻。
このように十六世紀後半の讃岐は、中世来から近世への大きな歴史の転換期にさしかかっていたようです。うち続く戦乱の中で、民衆たちは心の平安を求め、新しい時代の生き方を模索していたのかもしれません。それに応じるように。新しい宗教運動が展開されていました。讃岐にも阿波郡里の安楽寺から讃岐山脈の峠を越えて、浄土真宗興正寺派の教線が急速に伸びてきたのもこの時代です。
一方、目を海に転じると行き交う船には、今まで目にしたことのない「南蛮人」が乗り込みキリスト教の布教のために、瀬戸内海を往来し始めていました。イエズス会の宣教師達は、その際の拠点として本島に立ち寄っています。
一方、目を海に転じると行き交う船には、今まで目にしたことのない「南蛮人」が乗り込みキリスト教の布教のために、瀬戸内海を往来し始めていました。イエズス会の宣教師達は、その際の拠点として本島に立ち寄っています。
今回は本島に立ち寄った宣教師達を視ていくことにします。
彼らは個人で布教に日本にやって来ているわけではありません。イエズス会という巨大な宗教団体の一員として、神との契約に基づいてやっていていました。その組織は軍隊的でさえありました。自分の活動については上司に定期的に報告する義務がありました。エリアの総括本部では、それを本国やバチカンに年次報告として定期的に送っていました。その記録が残っているのです。もちろんラテン語で書かれています。

パシオ、ゴメス『1598年の日本におけるキリスト教界報告:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』

イエズス会ルイス・フロイスLuis FIols神父,
同宿少年3,4名,キリシタン3,4名 (インド人1名,シナ人1名を含む)
アルメイダ1565年10月25日付書簡フロイス「日本史」
彼らの塩飽に至る経路を見てみると、平戸を1564年11月10日出発。キリシタン大名として有名な豊後の大友宗麟に会うために臼杵に上陸し、その後に府内(今の大分市)に移動し、宗麟と会見します。大分港から出航しようとしますが、晩秋の北西風が続いたために府内に1カ月の滞在をを余儀なくされています。好天になった1565年1月1日になってやっと出航します。
この時期の瀬戸内海廻船は、冬には船を動かさないことがセオリーだったので、無理な航海だったようです。伊予の堀江で8日滞在後に、1月中旬に塩飽に到着しています。当時の塩飽は、海のハイウエー瀬戸内海のサービスエリアのような役割を果たしていました。塩飽にやって来て、船を乗り換えて目的地をめざす人たちが多かったようです。
「塩飽まで行けば、なんとかなる」「まずは塩飽を目指せ」
というのが旅人の常識であったようです。それだけ塩飽が瀬戸内海ネットワークの重要な拠点であったことが分かります。
しかし、時期が悪かったようです。冬の瀬戸内海を航海する船は少なかったようです。正月の塩飽には堺行きの便船なく、海賊を心配しながら小舟で坂越(サコシ、現在赤穂市東部にある小港)に移ります。そこで10日程便船を待ち1月27日に堺に上陸し、31日に京都に着いています。この時の平戸から京都の旅は、風向きや船便が悪く80日近くを要しています。
宣教師が塩飽に立ち寄ったことが分かる最初の史料なのですが、残念ながら塩飽のことは何も触れられていません
1574年(天正2年2月~) 日本布教長フランシスコ・カブラル
カブラルは、イエズス会の日本布教区の責任者でした。日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的だったために、後に巡察師ヴァリニャーノに批判され、解任されます。
カブラルは、第2回の五畿内巡察行のために、当時の伝道センターである「シモ」(西九州)の口之津を1573年9月7日出発し、島原・府内(大分市)・博多・下関などを経て山口に到着します。ここで3ヶ月滞在・伝道した後に、翌年2月岩国から堺へ向かう船に乗り込みます。春が来るのを待っていたのかもしれません。しかし、患っていた熱病が悪化します。それを助けたのが異教徒の「海賊船頭」です。
この船頭は安芸川尻の九郎右衛で自宅にカブラルを連れて行き20日程療養させています。このあと一行は、九郎右衛の船で塩飽(本島の泊港?)に送られてきます。この時期は、村上水軍が塩飽までも支配下に置き、瀬戸内海に「海の平和」がもたらされていた時代です。川尻の船頭は村上水軍の配下にあったのかもしれません。船の通行に問題はなかったようです。しかし、カブラルの病気は良くなりません。塩飽でも8日間の療養を余儀なくされます。
この船頭は安芸川尻の九郎右衛で自宅にカブラルを連れて行き20日程療養させています。このあと一行は、九郎右衛の船で塩飽(本島の泊港?)に送られてきます。この時期は、村上水軍が塩飽までも支配下に置き、瀬戸内海に「海の平和」がもたらされていた時代です。川尻の船頭は村上水軍の配下にあったのかもしれません。船の通行に問題はなかったようです。しかし、カブラルの病気は良くなりません。塩飽でも8日間の療養を余儀なくされます。
この間、同行のトルレス修道士は、塩飽の人々に説教を行ないます。その結果、世話になっていた宿の主婦が受洗します。この女性が讃岐で最初のキリシタンのようです。宿の主人は、その勇気がなかったようで、この時には洗礼をうけていません。しかし、8年後の1581年4月14日付フロイス書簡には
「塩飽の我等の宿の主人であるキリシタンその他が・・・」「塩飽での良き協力者」
と書かれているので、のちにキリシタンになったようです。が、彼の受洗入信の記録はないようです。
カブラルが世話になった「宿の主人」については、どういう人物か分かりません。
彼は、カブラルを自宅で療養させ塩飽まで送り届けた安芸川尻の船頭「九郎右衛門」の友人だったようです。また、塩飽の有力者で立派な家を持ち、この時から
「我々(イエズス会士たち)が通過する時には、いつも宿を提供してくれる地元の顔役」(「日本史」1581年記事)
だったとも記します。そして、1585年フランシスコ・パシオ神父一行が豊後から塩飽にやってきた時は、塩飽の領主である小西行長から島の代官と共に、この「宿の主人」にも事前に歓待依頼の手紙が来た程の存在でした。
ここからは瀬戸内海を行き来する宣教師がふえ、塩飽へ寄港することが多くなるにつれて、キリスト教に改宗し布教活動を助ける人たちが現れていたことが分かります。
カブラルが回復すると出港しますが、塩飽から堺への途上では多数の海賊船に襲われることもあったと記します。海の関所の通行料「関銭」徴収が、このエリアではまだ行われていたことがうかがえます。 3月末には堺に到着し、4月中旬には入洛し、京都にやってきていたた織田信長に再度謁見しています。
1577年 (天正4年12月)8日間 ルイス・フロイス神父
ルイス・フロイスは、その後10年余り「ミヤコ地区」の布教長として京都周辺の布教活動に関わっていました。カブラルの命で、オルガンチーノ神父に交替して京都を離れることになります。それが1576年の大晦日で、年を越えた1月3日に兵庫から豊後へ向う船に乗船します。途中海賊船数隻の追跡を受けたと記しますが、無事「塩飽の港」(泊港)に着きます。これが彼にとっては塩飽、二度目の滞在になります。ここで、塩飽以西の航路の案内人が来るまで8日間滞在しています。
当時は、先ほども述べましたが塩飽は、村上水軍の支配下にありました。
芸予諸島から村上水軍の「上乗り案内人」がやって来て「関銭」を支払って、その代償に航海の安全が保証されるシステムでした。
芸予諸島から村上水軍の「上乗り案内人」がやって来て「関銭」を支払って、その代償に航海の安全が保証されるシステムでした。
それに対して塩飽以東の航路については、先ほども見たように、海賊船の出没が記録されています。しかし、攻撃を受けているわけではないので「関銭」を船上で納めていたのかもしれません。同時に、このエリアは村上水軍や塩飽衆の勢力範囲でなかったことがうかがえます。
塩飽での滞在中にフロイスは、宿(3年前に主婦がこの地域で初めてのキリシタンになった家)の主人や家族を含め人々に数回説教し、質疑に答えています。そのうちの数名はキリシタンになりたいと希望しますが、長く滞在できなかったので、後日の機会に延期しています。
たまたま宿の隣人が重病を煩っていて、宿の主人からせがまれたフロイスが手持ちの薬剤を与えたところ、快方に向かいます。そのため「名医」の評判が立ち、宿の家は怪我人病人を連れてきて薬を懇願する人々で一杯になつた、という余談も記しています。フロイスらしい筆まめさが出ています。「現世利益・病気退散」が行える宗教家を、庶民は求めていたのです。
1581 (天正9年2月) イエズス会巡察師ヴァリニャーノ
(同伴者 ルイス。フロイス神父, 他に神父3名,修道±3名)
「1581年度イエズス会日本年報」(G.コエリコ執筆),

ヴァリニャーノ
イエズス会巡察師ヴァリニャーノは、フロイス等を伴い、1581年3月8日豊後府内(大分市)を出発して畿内に向かいます。出発に先だって、山口の国主毛利(輝元)が、自領の港や塩飽港(当時毛利領)に寄港するバテレンをすべて捕らえるよう命令しているとの情報を得ます。加えて『我々(イエズス会士たち)が通過する時にはいつも宿を提供してくれる地元の一人の顔役』からも、塩飽の港に入らないように伝える手紙が送られてきます。しかも乗船予定の船頭は、織田信長やイエズス会に敵対する大坂の浄土真宗の信者だったので、一層不安になります。しかし、彼の船以外に便船はありません。乗る外なかったようです。
大友宗麟は船頭に塩飽など、毛利勢力下の港に立ち寄らないように約束させますが、船頭は約束に反して塩飽の泊(Tamari←Tomario paragemとも)港に入港します。一行は恐怖でパニック状態になりますが、泊港で過ごした一昼夜の間は、毛利の代官が不在だったので拘束されることはなかったようです。しかし「常宿の主人」は、できるだけ早く塩飽を離れるようにと助言します。
それに従って翌日には出港し、寄港予定だった室津や兵庫の港には寄らず、淡路の岩屋港に寄港します。ここでも一晩過ごしただけで、青年漕ぎ手30人の快速船を用立てて、折しも吹く西風を受けて堺へと向かいます。ところが兵庫沖で待ち構えていた大きな海賊船(通行税取り?)が追いかけてきます。結局、堺の港の直前でで追い付かれ、求める金銭を支払ったと記します。
ここからは「関銭」の徴収方法が、村上水軍のように「上乗り」制度というスマートな方法でなく、現地徴収方法だったことがうかがえます。このエリアの海賊たちが組織化されていなかったようです。
堺に上陸したのは、豊後を出て10日目の3月17日のことです。寄港地に長逗留せずに、最短で目的地を目指すと瀬戸内海は、この程度で航海可能だったことが分かります。
このあとヴァリニャーノは、約5ヶ月間、畿内のミヤコ地区を巡察し、織田信長にも何度か謁見する機会を得て厚遇されています。
ちなみに9月初めに近畿視察を終えて、豊後に戻る時は土佐沖航路で約1ケ月を費やして豊後に戻っています。それだけ往路で経験した「海賊と毛利氏からの危険」を避けたかったのでしょう。
1585年7月12日(天正13年6月15日)フランシスコ・パシオ
[史料]パシオ1585年7月13日付牛窓発信書簡
[史料]パシオ1585年7月13日付牛窓発信書簡
7月6日(陽暦)パシオ神父は、堺へ向かって豊後佐賀関を出発し、6日後の12日に塩飽に到着します。当時の瀬戸内海は、秀吉が四国平定のための軍勢集結準備の真っ最中でした。牛窓と小豆島を秀吉から与えられた小西行長は、東瀬戸内海の制海権を握って活動中でした。「海の司令官」として、行長は四国遠征の最後の連絡のために各拠点を忙しく巡回していた時期になります。
行長は父と共に入信していて、当時は高山右近を見習い、小豆島にキリスト教の「地上の楽園」建設を目指している最中でした。そのためイエズス会宣教師から見ると頼りになる「青年海軍指令官」でした。
その行長から塩飽の殿Tono(ここでは代官)に対して、室津までの船の用意と歓待が依頼されていたようです。「我等が同地を通過する時に泊る宿の主人」にも、行長から同様の手紙がだされていました。
塩飽に派遣されてきた行長家臣の案内で、パシオは日比(現在岡山県玉野市)に渡ります。翌早朝、四国派遣軍の輸送船団を指揮する行長の姿を見ています。行長は「十字架の旗を多数立てた大船」でパシオを大いに歓待し、堺への軽快な船と護衛兵士を用意し、送りだしています。それが、翌々年の九州遠征後の秀吉のバテレン追放令で、小豆島が右近の亡命先になるとは、この時点では思ってもみなかったことでしょう。
1586年4月 イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ
ルイス・フロイス神父, 外に神父3名,修道±3名

ガスパル・コエリョ
1586年3月6日準管区長コエリョは、フロイス等を伴い、大坂に向かって長崎を出発します。秀吉は翌年の九州平定に向けて、キリスト教勢力の協力を取り付けようとします。その代償として、秀吉から布教の特許状が出ることになったようです。そのためのキリスト教側の使節が大坂に派遣されることになります。航路は、西彼杵半島の西岸沿いの海路で平戸を回り、博多・下関・上関等を経て塩飽にやってきます。塩飽到着は4月10日(天正14年2月22日)前後です。この時の塩飽滞在については、フロイス「報告書」にも「日本史」にもはっきりした記事は残されていません。
「報告書」に
「アゴスチニヨ弥九郎殿(小西行長)は、船をもって我等を迎えるため(塩飽に)家臣数人を遣わした。」
とあります。小西行長は、四国平定が終わった後も「海の青年司令官」として、秀吉の命令で瀬戸内海の各地に命令を伝え、現地司令官と協議を重ねてる忙しい日々を送っていたようです。先を急ぐ使節団に早舟の手配を行ったかもしれません。そうだとすれば塩飽への寄港・滞在はなかったでしょう。大阪城に向けての急ぎ旅だったので、潮待ちで滞在したとしても短期間だったでしょう。
塩飽からは室津・明石・兵庫を経て、4月24日(邦暦3月6日)に堺に上陸します。長崎から50日かかった、と記されています。10日後の5月4日コエリョは、神父・修道士達を伴って大坂城に入り、秀吉に謁見し、1ヶ月半後に待望の布教特許状が下されます。
大任を果たし意気上がるコエリョー行は、7月23日に豊後へ向かって堺を出発します。
この時に小西行長からひとつの要望がありました。
それは行長が「地上の楽園」の建設を行っていた小豆島に、布教のために適任者を派遣して欲しいという願いでした。「海の司令官=行長」の要望を断るわけにはいきません。そこで、一行に加えられた大坂のセミナリヨのグレゴリオ・デ・セスペデス神父が小豆島に派遣されることになります。彼は牛窓で一行と分かれ、日本人修道士ジアンと共に小豆島に入り布教活動を始めます。そして短期間に1400人余に授洗したと報告しています。
この時に小西行長からひとつの要望がありました。
それは行長が「地上の楽園」の建設を行っていた小豆島に、布教のために適任者を派遣して欲しいという願いでした。「海の司令官=行長」の要望を断るわけにはいきません。そこで、一行に加えられた大坂のセミナリヨのグレゴリオ・デ・セスペデス神父が小豆島に派遣されることになります。彼は牛窓で一行と分かれ、日本人修道士ジアンと共に小豆島に入り布教活動を始めます。そして短期間に1400人余に授洗したと報告しています。
コエリョー行は、室津牛窓を経て能島の海賊頭とイエズス会員達の安全通行を交渉した後、伊予に赴きます。復路では塩飽には立ち寄っていないようです。
伊予に立ち寄った目的は、四国平定後に伊予領主となった小早川隆景に会うためです。
毛利・小早川氏は、それまでキリスト教布教には好意的でなかったようです。それを秀吉の布教特許状を頼りに、山口と伊予に教会のための土地を要望します。これに対して、隆景の反応は以外にも好意的で2ヶ所とも許可されます。伊予で数日過ごした後、豊後の臼杵に到着しています。ここからは彼らの布教拠点が、豊後臼杵であったことが分かります。
その後、伊予道後の隆景から与えられた地所には、教会堂や司祭館が建てられたと云います。この時期が宣教師にとっては、日本布教に大きな展望が開け期待が膨らんでいた時期でした。翌年の7月、九州遠征終了後に秀吉は、伴天連追放令を出すのです。松山の教会も破壊されたようです。
初めて塩飽に宣教師が寄港してから、秀吉のバテレン追放令までの宣教師の通ったルートを見てきました。そこからは、次のような瀬戸内海交通路とキリスト教の布教ルートが見えてきます。
①1556年を境として、キリスト教布教の中心地は山口から豊後に移ると、宣教師の出発地点も、豊後に移動している。
②大内氏にかわって毛利氏が実権を握り、キリスト教を禁止するようになると、宣教師の航行路は瀬戸内海北岸ルートを避けて、南岸ルートに変化し伊予ルートが多くなる
③瀬戸内海航行の各船頭間には、密接な連絡網があり相互に航行範囲の分担があった
④瀬戸内海航路の終着地点としての堺が、交易物資の独占的な集積地となり、その富を背景に新しい文化の享受地となっていた。
⑤宣教師は、イルマン(修道士)や日本人改宗者を伴い、行く先々で民衆と交わり、医療・教育・社会活動などを通じて信者を獲得している。
⑥永禄3年(1560)には、将軍足利義輝から教会保護の約束をとり、
⑦永禄12年(1569)には、織田信長から布教許可を得て、
「上からの布教」方法も取り入れた積極的な布教活動を行った。
「上からの布教」方法も取り入れた積極的な布教活動を行った。
その結果、信者数は宣教師の報告によれば次のように増加しています。
元亀元年(1570) 2~3万人天正9年(1582) 15万人、天正18年(1590) 25万人
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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