瀬戸内海沿岸の地図を見ていると、「泊」「津」「浦」「浜」のついた地名が数多く出てきます。
1「泊」とついた地名は、「船の泊」だといいます。
「泊(とまり)」は、遠浅になっている所が多いようです。古代は、遠浅の砂浜に船を着けていました。すると潮がひくにつれて船が浜に、安定して座ります。海が少々荒れても、次の満潮時までは船は安全に係留されます。そういう所が、船の停泊地となり「泊」と呼ばれたようです。現在の岸壁に囲まれた港のイメージとは違っています。
2「津」もあります。
難波津・住吉津・兵庫津・大津・など聞き慣れた地名があります。讃岐の宇多津、中津、多度津、三野津などは、古代の郡港があった所と云われます。津は、巨船が停泊可能だったようです。
3「浦」と呼ばれる所もあります。
これは、漁村が多かったようです。近世になると、浦は漁村に限られてきます。
4そして「浜」という地名があります。これは塩浜のあった所が多いようです。

中世の揚浜塩田は、床を作ってその上に砂を載せ、それに海水を散布して、鍼水を採るため、そこを浜床とか床浜と呼びました。小字の名には、それが海岸地方の遠浅の海には見られます。ここも塩浜跡の候補と考えられます。
揚げ浜塩田

塩田跡の痕跡は、浜の後ろの山や畑にも残されています。
  海に面した畑が海から山へ縦割りに地割されているところがそうです。これは塩山跡で塩浜についた山で、はじめは製塩用の薪を切っていたのが、後には畑に開墾されたようです。そういう畑のある所には揚浜があったと研究者は考えているようです。このような風景は小豆島の内海湾の海岸線を歩いていると見えてきます
製塩が行われていた地形は?
 中世の地形復元を行ってみると、もともとは深い入江になっていたと考えられるところがあります。その入江の中ほどに弓形の砂州が発達して、その内側に潟沼や潟州(ラグーン)が形成されていることが多いようです。ここに「泊」として、瀬戸内海交流の拠点となる集落が形成されます。そして、砂州を利用して揚浜塩田も作られるようになります。これが近世の入浜塩田に、成長して行きます。
 塩浜には、「藻塩を焼く」と云われたように燃料としての薪が大量に必要とされます。そのために「塩(汐)木山」が背後の山に確保されていきます。

8塩田 周防大嶋全体
中世の揚浜塩田跡のある周防大島

 中世の揚浜式の塩田の例を 周防大島に見てみましょう。
周防大島には、慶長15年(1610)の「検地帳」と寛永二年(1625)の「坪付帳」があります。そこには塩浜の面積が書き込まれてた「浜」がいくつかあります。
 揚浜には二つのスタイルがあったことが分かります。
①砂浜がいつも海から出ているもの、つまり揚浜です。
②浦の奥に砂嘴が発達して、その内側に潟州を持ち、その潟州を利用したもの
②の潟州は満潮時には海水が入って来て入海となります。しかし、潮が引くと干潟になる塩田です。干潮で潮が引いた後に、日干しされた砂を採って、これに海水を注いて鹹水を採ったようです。こちらの方が「労力削減」ができて、効率的です。しかし、日中が満潮の時は、作業は行えません。そこで砂嘴の先端、潮の入口をせきとめて、満潮時に必要なだけ海水を入れて、日干しさせる方法が考え出されるようになります。それが後の入浜塩田になります。
 このように次のような条件がそろう所は揚浜塩田に最適地でした。
①入江を持ち
②広がる砂浜
③砂嘴も発達して内潟を抱いている
こんな場所は、小豆島や本島にはたくあります。
次に、揚浜塩田の構造を見てみましょう。

8塩田 周防大嶋和佐1
周防大島の和佐の海岸
周防大島で、古い遺構を残存しているのは和佐の塩田です。
 元文三年(1738)の『地下上申』を見ると、揚浜一七枚、畝数五反一畝(0,5㌶)なので、一枚の大きさは平均三畝(約3㌃)になります。石高は25石5斗です。1畝(せ)は一反の1/10で、約0.992㌃です。
三畝が生産単位ならば16戸分にあたるわけで、寛永二年のころには20戸が塩を造っていたようです。当時の和佐全体の戸数は30戸ですから、塩を作らない家が10戸あったことになります。これは和佐の領主平岡氏の家臣であったようで、この郷で生活していたようです。つまり江戸時代初期の和佐は、戸数30戸、製塩業20戸、その他10戸で成立していたようです。

8塩田 周防大嶋和佐2

和佐の塩浜の経営構造を押さえておきましょう
一枚の揚浜の年生産高の約50石です。和佐東浜の塩田17枚で、856石になります。ただし、浜一枚で年間に釜屋を使用する日数は24日のみです。 一昼夜で7釜炊き、三回塩水[戯水]をつぎ足して、 一釜で三斗を得る計算です。ここから生産高は七釜で二石一斗になり、24日で50石4斗になります。これを俵詰めします。一俵は6斗入りですから、一浜で84俵、17浜で1428俵になります。
  浜子は浜1枚に四人で17浜ですから合計68人。塩浜には一枚に一頭ずつ牛が必要でした。
その他の浜道具としては、各浜ごとに次のような物がいります
①六斗入りの打桶   1一つ
②塩水を担ぐ担いタゴ 3
③ジョレン      1
④浜鍬        3
⑤振杓        1
こうした浜を一戸が一枚ずつを4人の労働力で経営していたようです。4人の家族労力による自営経営です。このように塩浜は、均等に分割されていたようです。逆に言うと、4人の労働力で操業可能なのは、この広さまでの塩田だったようです。これ以上の広さがあっても、逆に人手が足らなくなります。中世の揚浜塩田は小規模だったのです。
8塩田 周防大嶋和佐

それでは耕地はどうだったのでしょうか。
和佐は、検地図では図1のように耕作地が21に区画されています。そのうち6つが水田で、他の15が畑地です。一見すると区画面積はさまざまで、均等ではないように見えます。しかし、詳しくみると、水田の東冷田・吉平・九十岡・末通・折田・神田二の6区画を除くと、残りの畑地15のうちの6が二つ以上に分割されているのが見えてきます。分割される前は、畑地同士はほぼ同じ面積で均等であったようです。つまり、畑地に開墾される前は「塩木山」でだったのが、製塩用の薪をとるために利用され、切りつくした後が畑に開墾された研究者は考えているようです。整理すると、
①中世の和佐は、二、三の家を除いては、どの家も塩浜を経営する塩業従事者であったこと。
②塩木山は、平等に割り付けられていたこと
③中世末に、入浜塩田が現れると生産性が低く、効率の悪い揚浜の東浜塩田は衰退したこと
④近世初期に検地が行なわれた時、残った製塩家の数に応じて塩木山を平等分割されたこと。
⑤塩木山が開墾され畑地となったこと
が分かります。図1からは、畑地の区画境が、海岸からほぼ直角に山頂に向かって通っているのが見て取れます。それが以上の経過を物語っていると研究者は考えているようです。
 どちらにしても、この和佐の村は、海から来た者による開拓痕跡が強く残っています。海からやってきた「海民」は、どんな人たちだったのでしょうか。史料はありませんので想像力を膨らませると
①中世揚浜塩田の生産技術を持った弓削島の技術者集団の一部が、戦乱・抗争でなどで本拠地を逃れ、大島に新天地を求めた。
②戦国時代末期の村上水軍の亡命者たちの定住。
などが思いつくところです。

これに対して和佐の西隣の森集落や、北隣の神ノ浦集落を見てみましょう。
ここは区画線の引かれ方が和佐とは、かなりちがうと研究者は指摘します。図1で森集落の畑地の区画線をもう一度見ていましょう。確かに複雑に折れ曲がっています。これは、森や神ノ浦が早くから山麓緊落として発達した所であり、複雑な境界線を持つ畑地や山林区画が形成されていたからのようです。
 ここからは、最初から農耕を目的にして本土から渡って来た森集落の祖先と、海から来て陸上がりした「海民」との生活様式の差が表されていると研究者は考えているようです。
和田も海岸線沿いに「浜割」が見られます。

8揚浜塩田 和田

図2で黒いメッシュ部分が旧塩田跡です。今では、ここに家が建ち集落になっています。しかし、ここには先住の山麓集落があったようです。海岸線から奥へ行けば行くほど区画線が複雑に折れ曲がったものになっています。これは「先住者」のテリトリーだった地域です。そこへ海からやって来た「海民」が海岸沿いに、均等に土地を分けて揚浜塩田を開いたようです。そして薪は、先住者のテリトリーを侵すことなく、周辺の無人島の山から切り出してきたようです。
 このように和田集落は先住者である畑作農耕者いる所へ、海からの海民が入り込み塩田を開いて住み着いたという事になるようです。両者の間に「棲み分け」が成立したのでしょう。

8塩田 揚浜塩田

近世初期に周防大島で揚浜を経営した村は数多くあり、当時の揚浜総面積は9町5畝23歩になるようです。
これをひとつの経営単位を三畝一枚して計算すると、約300枚の揚浜があったことになります。一枚で年間塩10石を生産するとして、約3000石の塩生産石高になります。当時の大島は、戸数は約2000戸で、1戸平均5人とすれば人口は1万人程度であったと考えられます。すると島民の塩の消費量は1000石を越えることはなかったでしょうから、多くは島外へ売られていたことになります。近世になって入浜式の大規模塩田が姿を見えるまでは島の重要産業だったことが分かります。

もうひとつ研究者が指摘するのは、周防大島で畑作率の高いのは和佐や和田なと島東部で、そこに揚浜が多かったことです。
その背景には何があったのでしょうか?
島の開発の大きな原動力は、本土からの移住と水田開拓でした。水田開発が可能なエリアでは、農耕民の渡島によって開拓が進み、村落が成立していきます。それは本土と同じような農耕集落が形成されます。
 ところが水田開発が不可能な所では、陸地は牧場などに利用せられてきました。瀬戸の島でも、日本海の隠岐のように牛が放し飼いにされていたのです。確かに古代においては、瀬戸内海沿岸や島には「牧」が開かれていたことを示す史料が残されています。
 漁民が定住した浜で、揚浜経営可能の砂浜を持つ所では自然に製塩が始められるようになります。同時に製塩のためには山の木を切ります。その跡が開墾され畑になっていきます。それは自然の成行きだったのかもしれません。こうして畑作と製塩を生業とする村が海沿いにできます。しかし、これは漁村ではありません。浦ではないのです。
 弓削島・因島・生名島・岩城島・佐島・周防大島をはじめ、中世以前に製塩が行なわれたとされる姫島・柱島・能美島・大崎上島・新居大島・塩飽島・小豆島などは、どこも畑作を主体とする島です。そしてそれらの島々には、山を海岸から頂に向かって縦割りにし、その割られた所が段々畑にひらかれている光景が、かつては見えていました。「耕して天に至る」の景色です。
耕して天に至る 歴史遺産で育つ、究極のじゃがいも | 健菜通信 | 健菜倶楽部

 塩を生産するためには、大量の薪を必要だったことは何回もお話ししました。そのため、塩浜には薪を供給する山がついているのが普通で、塩(汐)木山という地名が今に残ります。それでは、塩木山が先住者との関係や地理的な制約から確保できない場合はどうしていたのでしょうか
 そんな場合には近くの無人島を「薪島」にしていた所もあります。
たとえば、山口県岩国市柱島は、早くから塩を焼いた島でしたが、この島には11の属島がついていて、柱十二島とよばれていたようです。
8塩田 無人島塩木島

今は干拓で陸続きになってしまいましたが岡山県笠岡市の神島も塩を焼いた島ですが、沖合の片島・明地・稲積・高島・小高島・白石島などを薪島としていたようです。また、香川県直島も古代以来、塩を生産しており、直島をめぐる10の属島は、薪島であったようです。
  塩田の面積が広ければ広いほど、薪山・薪島の面積は広かったはずです。逆に考えると
「属島を多く持つ島は、製塩が盛んであった」

と考えられます。そうだとすると属島を多く持つ兵庫県家島群島、香川県小豆郡豊島、香川県塩飽本島、真鍋島なども、中世以前には塩の有力な生産地であったことがうかがえます。そして、それらの地域からその推察は近畿に運ばれた塩の量から裏付けられます。

こういう視点で瀬戸内海を見ていくと、中世以前の揚浜のあった所が浮かび上がってきます。香川県では、次のような所で中世に揚浜製塩が行われていたと研究者は考えているようです。
①引田町
②小豆郡内海町馬木・新開・片城、池田町、
③木田郡庵治村
④高松市
⑤丸亀市塩飽本島生之・尻()浜、
⑥丸亀市
⑦三豊市詫間町箱・室・仁老・大・栗島京・永・東風
⑤三豊市三野町浜・新

以前に甲州からやってきた西遷御家人の秋山氏が三野津湾で揚浜塩田を経営していた話をしましたが、このような背景があったことを押さえておきたいと思います。
 海民の陸上がりして定住したとみられる島々では、親方や支配者の家を除いて、財産も家屋敷も平均化していたのです。それが徹底して行なわれたのが岩国市の柱島のようです。それは、また別の機会に
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 宮本甞一    塩の民俗と生活