
大崎上島(広島県)は竹原市の南にある島ですが、しまなみ海道もとびしま街道も通っていないので、船でないといけない芸予の島です。逆に見ると各方面から船便が出ていて、瀬戸の船旅が好きな私にとっては大好きな島のひとつです。山田洋次の監督の東京物語が撮られたのもこの島です。島東部の木江は、かつては御手洗をしのぐほど繁盛した色街があり、多くの船を惹きつけた所です。しかし、島の南部まで足を伸ばす人は少ないようです。


南部の沖浦は、古くから揚浜塩田があった所のようです。
小早川義春から徳平への譲状に大崎上島猟浜とあるのはが沖浦のことのようです。いまも狩浜の名が残っていて、猟浜は猟浜浦と呼ばれているようです。
「浦」は漁民の村ですから、漁民が古くからいたのでしょう。いまもここは、純漁民の集落で、周囲の農民とは一線を画しているようです。農家は山麓に散在しています。この農家の先祖はいつどこからやってきたのでしょうか。もし、海から陸上がりした人たちの子孫だとすれば、現在の「浦」の漁民達がやって来る前になります。そうだとすれば、中世には農民化していたことになります。
山が海にせまり、海岸に近い所にやや緩傾斜があり、そこが畑にひらかれています。今は、そこがみかん畑になっています。ここは「大長みかん」の産地です。
寛永一五年(1638)の「地詰帳」には沖浦は
「田五町一反二畝一八歩、畑二〇町三反四畝二一歩」
とありますから、畑が水田の5倍になります。畑が断然多いようです。そして、塩浜が七反六畝一二歩です。沖浦の塩浜は一畝半から三畝が塩田一枚の単位です。
「地詰帳」を整理した表2です。
ここには沖浦の構成員の田・畑・屋敷・塩浜の所有面積が示されてい
ます。例えば一番上の庄屋を務める助作は、田65畝、畑216畝、屋敷3畝、塩浜1,2畝を持っていたことになります。
ここには沖浦の構成員の田・畑・屋敷・塩浜の所有面積が示されてい
ます。例えば一番上の庄屋を務める助作は、田65畝、畑216畝、屋敷3畝、塩浜1,2畝を持っていたことになります。
①43軒のうち、塩浜をもつのが24軒、②塩浜所有面積の最大のものは七畝九歩、③最小一畝一五歩であり、④所有しない者が19軒⑤屋敷を持たないもの10軒
このような状況は、この時代までに売買による土地移動がかなり激しく行なわれていた結果と研究者は考えているようです。
もう少し表2を見てみましょう
庄屋の助作は二町八反四畝二四歩という広い畑を持ちますが、屋敷は三畝二一歩しかありません。ここからは、彼は中世的な土豪の流れをくむ者ではないようです。土豪なら居館跡はもう少し広いはずです。もともと沖浦には、戦国時代には小早川氏の代官がいたはずです。ところが、秀吉による小早川氏転封とともに他に移り、古くからの生産者層のみが残ったと研究者は考えているようです。
さらに研究者は細部まで検討して、次のような点を指摘します。
①標準農家は屋敷二畝を持ち、耕地は田畑合して一町一反余から一町五反ぐらいを所有する②そういう農家が15戸ほどあったのが、分家によって屋敷と耕地を、均等に二つに分けたものが5つか6つ見られる③屋敷を持たないで分家したものが10戸ある。④売買によって移動した土地が若干ある。
以上から、最初は均等に分割されてい所有されていた土地が、時代と共に所有階層分化されてきていること。そして屋敷も持たず、少ない畑を所有する人たちは、漁民であったのではないかと考えるのです。
揚浜塩田は、先ほども云ったように、狩浜といわれる所にあったと伝えられます。その塩田跡は、現在は集落になています。沖浦には、漁民が住み、アゲといわれる山麓集落には農民が住んでいますが、アゲの農民が漁業に進出することはなかったようです。
それでは、塩田経営を行っていたのは、どの集団なのでしょうか。
塩を造ったのは主としてアゲの農民達だったというのです。
彼らが、狩浜へ毎日塩を造りにアゲから下りてきていたようです。浦に住む漁民の中にも、塩浜を持つ人たちがいましたが、それは少数だったようです。塩浜を所有していた農民たちが、当初から農民だったのか、あるいは漁民が陸上がりして塩を焼いて定住して次第に農民化していったかは分かりません。沖浦では、塩を造った場所と、造る人たちの住んでいる場所は離れていて、塩浜跡ヘ住みついた人たちは塩浜の古くからの住人ではなかったということになるようです。
以上を整理して、想像も加えて沖浦の歴史を物語化してみましょう。
①中世の早い時期に海民達が沖浦にやって来て揚浜塩田を開いた②彼らは塩田後方の塩木山の裾野を切り開き開墾し畑とした③こうして「製塩業+畑作農業」で生計を立て、農地に近いアゲに屋敷を構えた④そこへ秀吉の海賊禁止令後に、村上水軍の一部がやってきて沿岸部に定着し「沖浦」を形成した⑤かれらは沖浦の住民は漁民として生きる道を選び、先住民とは「棲み分け」をおこなった。⑥揚浜塩田の経営が行き詰まると、塩田跡地は沖浦の漁民に売られ、そこに住宅地が密集するようになった。⑦先住民は畑作専業化し、現在はみかん農家になっている。
揚浜塩田を拠点に海民によって開かれた「浜」に、解体された村上水軍の一部がやってきて「浦」をひらいたのが沖浦のようです。沖浦の二面性や重層性は、ここからきているのでしょう。



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