瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

11因島箱崎 地図

家船(えふね)漁船の拠点地の一つが因島の箱崎です。家船集団の拠点は、漁師達の家が狭い地域に密集していることがひとつの特徴ですが、箱崎にも「漁民密集住居区」があるようです。しかも、その地区は中世の揚浜塩田跡に形成されたものといいます。

11因島箱崎 地図2

 家船漁民とは、小さな船に家族が乗って長い間、海で操業・生活する漁民達です。彼らの先祖については次のような説があることを以前にお話ししました。
①小早川氏の中世以来の海賊対策で弾圧を受けた海民達が、家船漁民たちの祖先
②秀吉の海賊禁止令以後に行き場をなくした村上水軍の末裔が、家船(えふね)漁民の祖先
これだけを押さえて今回は、箱崎の揚浜塩田の歴史を追いかけて見ようと思います。
揚浜式塩田(石川県珠洲市) - おさかな'sぶろぐ
能登の揚浜

『因島市史料』には、寛永15年(1638)の土生村箱崎の塩浜が「地詰帳」が次のように載せられています。
①塩浜弐畝拾八歩 (ぬい弐ツ)六斗 五郎兵衛
②塩浜三畝    (ぬい弐ツ)六斗 久右衛門
③塩浜三畝廿壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 清 吉
④塩浜弐畝九歩 (ぬい壱ツ)三斗 同 人
⑤塩浜弐畝一壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 正左衛門
⑥塩浜四畝    (ぬい弐ツ)六斗 半二郎
⑦塩浜二畝    (ぬい弐ツ)六斗 与兵衛
⑧塩浜三畝三歩 (ぬい弐ツ)六十 孫有衛門
⑨塩浜弐畝甘四歩 (ぬい式ツ)六斗 清吉
ここからは次のようなことが分かります。
A 箱崎に9枚の塩浜があったこと
B 清吉が③④⑨の三枚の塩浜とぬい(沼井)6つを所有していて、塩浜所有者としては最大の家であること。
C 塩浜は平均3畝前後(約教室3つ分)で、瀬戸内海の揚浜塩田の平均であること
 なおBの清吉は別の資料からは、箱崎に屋敷を持っていないこと、畑は2ヶ所持っていますが、その面積は二七歩と七畝一五歩で、あまり広いとは云えない上に、かなり離れたところにあります。そして、二七歩の畑は新開(新規開墾)で、古くから持っていたのは七畝一五歩だけのようです。以上から、清吉は、塩造りを専業として、塩焚小屋にでも住んでいたのではないかと研究者は考えているようです。
  箱崎は、この資料に現れた塩浜のエリアが現在に残っているのです。それは地図5上の太実線のエリアになります。
11因島箱崎 地図旧塩浜

詳しく見ると9つに区画されていたことが分かります。これがもともとは9枚の揚浜塩田だったようです。ここに前の海から海水を汲み上げ、天日で干していたのです。地図で塩田の背後を見ると、すぐそばまで山が迫っていて背後地がほとんどありません。
揚げ浜の塩 歴史・文化

 漁民たちが古い塩浜の区画の上にそのまま家を建てたようです。
かつて塩浜の境だった所が道になっています。港町はどこでも、近代になって車道を付ける際には、海を埋め立てて道路を通しました。つまり海の直ぐそばを車道が走ることになります。
11因島箱崎 syasinn

箱崎もご多分に漏れません。箱崎はも、地図5を見ると分かるとおり海岸には車道が走っています。そして、古い道は塩田と山裾と平地の境にあって今もそのまま残っています。今は、その旧道から上の家は農家が大半で、道から下が漁家です。その漁家の中を五本の道が、海と山裾の道との間をつないでいます。
かつて9枚の塩田だった所に、漁民たちが家を建て集住を始めます。
図5の太線のエリア(塩浜跡)を拡大し、地籍図にしたものが下の図6です。
11因島箱崎 旧塩浜地籍図

NO57の屋敷地が最も広く、海に近い重要ポイントを占めています。ここを中心に屋敷が建ち並び始めたようです。各区画で一番大きい面積を占める屋敷が、塩浜の所有者だったことが考えられます。
 そして、明治になって地籍調査が行われ、一軒一軒に番号が打たれます。全部で161に分けられているは、その時に屋敷が161軒あったことを示します。一戸当りの屋敷面積は20坪程度でだったようです。同規模の家がびっしり立ち並んでいたことが分かります。

11因島箱崎 旧塩浜ido

 かつての塩田跡の住宅区には井戸がなかったようです。
それは当然かもしれません。塩田の中に井戸は必要ありませんから・・・。井戸は、山裾と旧塩田の間の大師堂沿いの道に沿っていくつかの共同井戸が点在します。この井戸は、古くから行き交う交易船に水を提供してきた井戸かもしれません。塩田跡の新住居者たちは、水道が整備される以前は、そこへ水を汲みに行っていたようです。

どうして塩田が廃れて、そこに家屋が建設され始めたのでしょうか
宝暦五年(1755)の「土生村実録帖」によると土生村は、102軒の家があり、そのうち漁家が17軒に増えています。
因島の「中庄村差出帳」享保11年(1726)には
「塩浜只今は田畠に相成候(あいなりそうろう)」

「田熊村村立実録帳」宝暦一四年(1764)には
「塩浜

とあります。ここからは享保前後のころから因島の揚浜塩浜は、田畑になったり、荒地として放置されていたことが分かります。その背景には、入浜式塩田の登場があるようです。
入浜式塩田の製塩方法 | 西尾市塩田体験館 吉良饗庭塩の里
入浜式塩田

大量に安価に良質の塩が生産できる入浜式塩田が瀬戸の入り浜に作られるようになり、揚浜塩田は駆逐され始めたようです。箱崎の塩浜でも、塩を造らなくなり放置されるようになります。その頃から漁民が増えはじめたようです。
  箱崎の塩浜に家を建てて住むようになった者を、対潮院の過去帳には「浜ノ者」と記しています。そして「浜ノ者」が過去帳に登場するのは江戸中期ごろからです。ここからも、浜床への漁民定住が始まったのが江戸時代中期になってからだったことがうかがえます。
 塩浜床跡に、家を建てはじめた漁民はどこからきたのか?
 その漁民たちがよそから来たものか、もともと塩田に働いていた者の子孫であるかは史料的には分かりません。しかし、研究者は
「塩浜で働いていた人たちの子孫が、塩浜跡に家を建てるようになった」

と考えているようです。そう考える理由を見ていきましょう。
 「地押帳」に記録せられた塩浜の総面積は二反六畝六歩で、畑地を加えても三反にすぎません。箱崎の面積はわずか一町歩もない狭いエリアです。ところが箱崎には、漁港として適当な船着がありました。
塩浜関係に従事していた子孫が漁業に転じたのは、この良港があったことがひとつの要因でしょう。
しかし、それだけでは丘上がりした者が再び海へに進出する理由にはなりません。海に出れば利益が出るという採算性がなければ動かなかったはずです。それがイワシ漁だったようです。

11因島箱崎 小豆島イワシ漁do
   「漁業旧慣調」〔愛媛県立図書館蔵〕)右上に高台から合図を送る人がいる

箱崎とその対岸の生名島の間には深い入江があって、そこがイワシ地曳網の良い漁場でした。ここには鰯屋と呼ばれる網元が早くからいたようで、この家が箱崎でも一番古い家とされています。イワシ漁は季節的なもので、イワシのやって来る間だけ操業します。その他の時期は船を浜にひき揚げて船囲いしておきます。その間、網子たちは別の仕事をしていますが、たいていは小漁を行なっています。イワシ網のような経営を大職、小網や釣漁などを小職と呼んでいたようです。この二つがうまく組み合わされて、漁業は発展します。
 イワシ網は「根拠地漁業」に対して、小職漁業は、たいてい放浪性を持った漁業だったようです。これが箱崎を考える上でつ大事な手がかりになると研究者は指摘します。
 箱崎は「浜」で、「浦」ではありませんでした。
瀬戸内海では漁民のいる所をと呼び、塩浜のあった所がです。ここからは箱崎は、もともとは塩浜で「浜」と呼ばれていたこと、それが江戸中期からイワシ網を梃子にして漁村へ転向していったと研究者は考えます。それは塩浜を営んでいた製塩業者が鰯漁をバネにして、再び海に進出していったということです。同時に、尾道からの漁民達も受けいれたようです。こうして塩浜跡に、漁民達の家が建ち並ぶようになったと研究者は考えているようです。
 しかし、漁民としての道を歩みだした箱崎の人たちにとって厳しい試練が待ち受けます。

11因島箱崎 地図3

グーグル地図で見ると箱崎の沖は水道で、その対岸は愛媛県の漁区でした。そこに入漁するにはエビス金(入漁料)が必要でした。江戸時代の瀬戸内海は各エリアに漁業権が設定されて、自由に稼げる漁場はなかったのです。したがって、より有利な漁場を求めて新しいエリアに出かけて行く以外に、発展の道はなかったことになります。それに果敢にチャレンジしたのが家船漁民達だったのかもしれません。より有利な漁場を求め漂泊性を、高めることにもなります。また自分たちの漁業権を持たない流れ者の漁民として、出先では蔑視間を持って見られる事もあったようです。
 
明治14(1881)には、箱崎の漁業専業者が226戸であったことが記録されています。屋敷は161軒ですから60戸余りは、どこに住んでいたのか疑問になります。
 戸籍の上では、戸主の家族として記録せられます。そのため、 一戸当りの家族数は平均12~13人くらいになります。その生活実態は、「家船」で妻も子供も船に乗せて、海上漂泊生活(長期漁業)を送っていました。戸籍上は一世帯でも、一世帯が二隻か三隻の船に分住して、「核家族」で操業を行います。長い家船生活を終えて帰って来ると、次男・三男は本家の長男の家の一間に起居していたと云います。それが後に入江を埋め立てて土地ができると、そこへ分家分住する者が増え、したがって戸数も爆発的に増えます。家船の数は戦前の調査でも170隻程度で、明治から比べても増減はないようです。
 これだけ見ると数が増えていないように思えます。しかし、それは箱崎の「停滞」を意味するものではありません。彼らは「漂泊」し、条件が良いところを見つけては「移住」していったのです。その移住先をみると
広島県豊田郡吉名村[竹原市]
同郡大崎中野村[大崎上島]
同郡生口島[尾道市]
同県御調郡向島[尾道市]
山口県都濃郡太華村[周南市]
岡山県下津丼[倉敷市]
愛媛県岩城島[越智那上島町]
伯方島[今治市]
松山市三津浜
香川県岩黒島[坂出市]
本島[塩飽本島、丸亀市]
福岡県若松市
大分県鶴崎[大分市]
長崎県対馬
などが挙げられます。どこも釣漁を行なう仲間のようです。
 ここからは、狭い塩浜跡地に人口があふれると、船住居(家船)分家という方式を採用し、移住によって瀬戸内海から東シナ海へ膨張したことが分かります。これは、その他の家島漁民も同じような戦略を採用しています。
 瀬戸内海の港には、狭い土地に人が密集し、人口増大のエネルギーを抱えた場合に、周辺に開拓地がなければ、家船分家がが行われ、移住という方法が取られたことがわかります。これが近代には、ハワイや南米移住につながっていくのかもしれません。
瀬戸内海の中世の揚浜塩田を何回かに分けて見てきました。その中で私が学んだことは、中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることです。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 この条件がそろえば、中世に塩浜があったことが考えられるようです。

最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田全体について、研究者は次のようにまとめています。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④入浜塩田のように大きい資本を持つ者の開発の行なわれる所では、浜旦那と呼ばれる塩田経営者がみられる
⑤しかし、小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、それが大きな経営に発展していったような例は姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑥製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。因島箱崎は家船漁民に転進しているが、これは特例である。
⑦畑作農家への転進を助けたのは甘藷の流入である。江戸中期から甘藷の栽培が瀬戸内海の島々に急速に広がってくる。するとそれで食料の確保ができ、さらに段畑をひらいて人口を増やしていく。そして、時間の経過と共に完全に、海から離れて「岡上がり」している。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところと考えてみてよい
⑨しかし、揚浜製塩に従った人々のすべてが、製塩のやんだあと陸上がりしてしまったわけではない。因島箱崎の場合は、もう一度海へ帰っていった例である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

  


コメント

コメントフォーム
記事の評価
  • リセット
  • リセット

このページのトップヘ