小西行長
以前に秀吉の下で「瀬戸内海の海の青年将校」に任命された小西行長が、その領地となった小豆島に兄のように尊敬する高山右近を見習って「地上における神の国」の建国を目指そうとしていたことをお話ししました。今回は、それを宣教師の立場からもう少し詳しく見ていこうとを思います。
秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利すると、中国地方と四国への侵攻を同時進行のような形で進めます。その過程で改めて瀬戸内海の重要性を認識したようです。四国や九州を平定し、朝鮮半島への野望を満たすためには、瀬戸内海を生命線としてしっかりと掌握する必要があることを秀吉は、感覚的に分かったように思います。平清盛をはじめ古代からの天下人が、瀬戸内海を掌握し、富を蓄え国を動かしてきたのです。そのために秀吉が行った政策で、讃岐に関係することを3つ挙げるすれば次のようになります。
①村上水軍などの海賊衆の排除と制海権の掌握②小西行長を、秀吉直属の「海の青年司令官」に任命し、小豆島・室津・牛窓を与える③瀬戸内海の戦略物資の輸送船団として塩飽を把握するため朱印状を与える。
こうして堺商人の息子・小西行長が「海の青年司令官」として、小豆島にやって来ることになります。行長は高山右近が淡路島の領地で行っていた宗教政策を参考に、小豆島の統治を考えます。それは若くしてキリシタン大名となった行長の理念と理想を実現しようとするものだったのかもしれません。そのために、イエズス会に宣教師の派遣を依頼していたようです。それに応えて、やってきたグレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedesの活動報告が残っています。それを見ていくことにします。
コエリョ
1586(天正14)年春、秀吉は九州平定の前年に、イエズス会に対してキリスト教布教許可を与える決定を行い、その旨を通知します。それを受けてイエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョGaspar Coelhoは、長崎から、通訳にルイス・フロイス神父を伴い、他に神父3名修道3名を連れて、布教特許状を得るために大坂城やって来ます。その目的を果たし、天守閣からの眺望を楽しんだ一行は、九州に帰るために、堺にやってきます。その際に、コエリョは「アゴスチニヨ弥九郎殿」(小西行長)から、小豆島(XOdoxima)に神父一人を派遣するように求められます。
その辺りのことをフロイスは年次報告で、次のように記しています
パードレ(コエリョ)が堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前(南)に在って、小豆鴫と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のためニカ所の城を築造することを命じた。行長の最も望むところは、小豆島に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
この嶋は備前に近く、同所より八郎殿(宇喜多氏)の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。行長は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは行長の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人(グレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedes神父)をさいた。86年7月23三日 堺を発し右のパードレ(セレベデス)を同行して、小豆島(堺より四十レグワ)の前に到る。牛窓と称し、同じくアゴスチニョに隔する町に彼を降ろした。セスペデスは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。
フロイスの報告書からは、セスペデスが小豆島に派遣された経過が分かります。
行長の願いである「小豆島に聖堂や大きな十字架を建て、住民が皆キリシタンになり「地上の神の国」の実現のために、大坂のセミナリヨ神学校から神父が派遣されることになったこと。それがスペイン人グレゴリオ・デ・セスペデスGregorio de Cespedes神父だったようです。
韓国熊川城の麓にのセスペデス公園のセスペデス像。
彼は1577年に来日し、各地で布教活動を行なって、この時点で在日9年目だったようです。小豆島での布教活動後は大坂に帰えり、翌年には細川ガラシアの洗礼にかかわっています。1592年のイエズス会名簿には、有馬教舎所属で
「日本語の懺悔を聴き、日本語をよく解す」
と評価されています。朝鮮出兵時には小西行長の依頼で、九州出身の多くのキリシタン達のために、朝鮮半島に渡って活動を行ってもいます。
関ヶ原の戦い後は、小倉城主となった細川ガラシアの夫細川忠興に保護され、約10年間に渡って、小倉を本拠に布教活動を行います。セスペデスの日本在留は34年間に及ぶようです。小豆島での布教活動は、その中の1ヶ月のことにしか過ぎないようです。
グレゴリオ・デ・セスペデス―スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役
同行したジアン(GiaoあるいはJiao)修道士について上智大学H,チースリク師の「臼杵の修練院」(吉川弘文館刊「キリシタン研究第十八輯」所収論文)では、次のように紹介されています。
「ジアン森 日本名「もり(森・Jr.Mori Jiao)」、摂津出身。1569年ごろ生まれ、1581年(1580?)10月にイエズス会に入り、誓願を立ててのち京坂地区に赴任し、1587年に大坂に居た。
1589年に有家のコレジヨに居り、1592年にオルガンティノ神父と一緒にみやこに行き、1603年にみやこ、1606年に金沢、1607年2月にまた、みやこ下京のレジデンシャに居たが、同年10月の名簿には記入されていないので、そのうちに脱会したらしい。」
豊後でイルマンとしての何年かの基本的学習を終えた後、出身地の摂津大坂に帰任して間もなく、定評ある日本語の知識表現力を買われて小豆島にセスペデスと共に派遣されたようです。
コエリョー行は行長の用意した二隻の船に分乗して、堺を出て牛窓に到着します。
牛窓からの瀬戸内海と小豆島 海の向こうの山並みが小豆島
ここでセスペデス神父と日本人修道士ジアンを降ろしています。牛窓も行長の領地でした。牛窓は瀬戸内海航路のネットワーク拠点として重要な港でした。秀吉の四国平定の際には、多くの人馬や兵船が集結した軍港の役割も果たしていました。牛島の前の前島の丘に立つと、南に小豆島がすぐ近くに見えます。目を凝らせると小豆島の大観音も見えるほどです。その観音さまの足下辺りが屋形崎と呼ばれ、中世に居館があったと伝えられます。牛窓と屋形崎ならば直線で14㎞ほです。かつて道路が整備される以前は、小豆島の北岸の人たちにとって、草壁などの南岸との交流よりも牛窓などの吉備・播磨との交流の方か多かったと云います。近代以前の瀬戸内海は、人々を隔てるものではなく、結びつける役割を果たしていました。船さえあれば、海があればどこにでもいけたのです。小豆島北岸と牛窓は、経済的には一体化していたと考えられます。
セスペデス神父と日本人修道士ジアンは、その日のうちに牛窓から小豆島に向かう船に乗り込みます。二人を待っていたのは、行長が「小豆島の司令官(代官)に任命したキリシタン貴人」でした。これは河内出身のキリシタン武将で、行長の配下にあったジヨルジ結城弥平次かとする説もありますが、よくは分からないようです。
フロイスの年次報告書には、小豆島に派遣されたセレベデスからの次のような報告書簡が載せられています。
予(セスペデス)は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。この島にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆があった。彼等の半数以上は、よく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとおりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモの説教を網けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々に斎座の火を燃やし給ひ、①1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(6㎞)の間に接績していた村々において、②千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって③長さ七ブラサ(15m)を超ゆる立派な十字架をここに建て、④神仏は一つも残さず破壊した。また⑤聖堂を建てるため四十ブラサ(約90m)四方の地所を選んだ。その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この島の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ(4㎞)余りの道を急いで、私が滞在していた村にやって来て、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
ここには、牛窓を出発した船がどこに着いたのか、そして、彼らが布教活動を始めたのはどこなのかについては何も記していません。
まずセスペデスが宣教をおこなった場所についての手がかりを集めてみましょう。
①約六㎞周囲に連続した村々がある。②1か月で1400人以上がキリシタンとなった。
→ 島の人口集中地③キリシタン達が建てた15m以上の十字架がある。④キリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。⑤聖堂を建てるための約88m平方の土地があり、そこには梨、無果花、蜜柑の樹が多数あって、周囲には樹木が繁茂している。⑥小西行長の支配の中心地に当り、「城」が築かれていた。
この条件がに当てはまるのは、内海湾に抱かれた苗羽、安田、草壁、西村の村が連続したエリアと研究者は考えているようです。映画「二十四の瞳」で、大石先生が岬の分校までが自転車を走らせた通勤ルートの沿線になります。
延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、小豆島の「転び切支丹類族」の出た地域と数が次のように記されています。
草加部村 54人肥土山村 12人土庄村 3人渕崎村 2人
また、草加部の項目には次のようなことも記されています。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。
ここからは小豆島の草壁には18世紀の半ばまで、隠れキリシタンが50人以上もいたこと、さらに、草加部の他に、池田、小海、福田にもキリシタン関係者がいたことが分かります。このような「状況証拠」からすると、草加部村を中心とした地域が小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。
④のキリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
については、「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」
と記録され、小豆島の小西行長時代に神社仏閣の破壊が徹底して行われたと伝えています。
小豆島における神社仏閣破壊は小規模なものだったという説もありますが、私は、次の2点から同意はできません。
A高山右近の淡路の領地では、大規模な破壊運動が組織的に展開されていた。B偶像破壊運動が、新たな宗教活動を展開する側に大きな宗教的なエネルギーをもたらし、急速な 信徒増大をもたらす。それはムハンマドのメッカでの活動や、中国の太平天国の指導者達の活動からも垣間見える。
偶像破壊という手法を、大坂で布教活動を行っていたセスペデスやジアンは熟知していた。もっと云えばすでに偶像破壊活動を伴う布教活動をすでに行っていた気配があります。「偶像破壊運動」から沸き上がるエネルギーが「1ヶ月で洗礼者1400人」という「成果」となったと私は考えています。
また、天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
「室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけ(安宅)の大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿」
とあります。これは、薩摩島津藩の藩士が見た報告ですが、ここからは小西行長の支配する室津には、大きな安宅船が係留されていたこと、室津でも「南蛮宗が保護され 大明神は廃」される組織的な神社仏閣破壊が行われていたことがうかがえます。
⑤の約15mの十字架の設置場所と聖堂建設用地については、
片城に近く、海上からよく見える高台にあったことが考えられます。しかし、詳しい場所については分かりません。そして、1年後の九州平定の論功行賞として、行長は肥後南部の24万石の大名に「栄転」
しますので、教会が建設されることはなかったようです。あくまで「建設予定地」でした。
⑥の小西行長が築いたとされる片城については、草聖地区に片城という地名が残っているようです。
最初私は、小豆島での布教と聞いて何年も苦労しながら信者を増やして行ったのかと思いました。ところが、宣教師の布教活動はわずか1ヶ月のことです。期間が決められていたのかもしれませんが、洗礼を済ませるとすぐに引き上げているのです。残された信者達は、その後どうなったのでしょうか。1ヶ月では、信の信者に成長できていたとは云えません。
ところが1年後に秀吉のバテレン追放令が出ると小豆島は、多くの吉利支丹を受けいれた節があります
それは右近の明石領内のキリシタンたちです。右近は秀吉に屈する道を選ばずに、領地を捨て大名であることを止めます。この一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」
と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」
①セスベデスによる1400人の地元改宗者②明石やその他からの亡命信者③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことになります。②③は筋金入りのキシリタンに成長しています。これらの人々が核となって、小豆島では信仰が守られていくことになったのではないかと私は考えています。
以上をまとめておくと
①四国平定前に秀吉は小豆島・室津を小西行長に与えて、東瀬戸内海の制海権確保の拠点とした
②行長は高山右近を見習って、「地上の神の国」を小豆島につくる理想を持っていた
③そのために二人の宣教師がイエズス会から派遣され、内海湾周辺で布教活動を行った
④それは偶像破壊運動を伴う宗教活動で、1ヶ月で1400人の洗礼者を産み出した。
⑤派遣された宣教師は、わずか1ヶ月で小豆島を去った。
⑥しかし、1年後に伴天連追放令が出されると各地から「亡命者」がやってきて信者集団は拡充した。
⑦そのような中で、小西行長は高山右近を小豆島の地に匿うことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 近藤春平 讃岐吉利支丹諸考 1996年
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