明治7年に国の進める神道国教化政策に沿って、信徒の組織化のために金刀比羅宮が崇敬講社(以下・講社)を設立したことを、前回はお話ししました。金刀比羅宮には、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員(会員)名簿(=講帳)が約14000冊ほどが保存されているようです。それらの「講帳」の約半数の調査が行われ、報告書として『金刀比羅宮崇敬講社講帳目録』が出されています。これをテキストにして、講帳から見えてくることを挙げていきましょう。
報告書のはしがきには、講帳について次のような指摘がされています。
①講帳は、北海道から沖縄までの全国の会員を網羅するものである②取次定宿名とあるのは、講員がそれぞれ属した講元のことである。「定宿」が地域の名簿作成の責任者となっている。③「筆乃晦→桜屋源兵衛」とあるのは、講員株が講元筆乃海から講元桜屋源兵衛へ売却されたことを示している。つまり、講員名簿は「定宿」間で売買されていた。
④講元は「定宿」(その地域の旅館)で、講員と日常的に接触し、一方で金刀比羅宮参詣の際には宿泊していた
「崇敬講社講帳」の記載内容については
江戸時代に隆盛をきわめた参詣講には「伊勢講・高野山講・出羽三山講・白山講・大山講・立山講等」などがあります。これらの講帳には、戸主だけが記されています。それでは金刀比羅宮の場合は、どうだったのでしょうか
『金刀比羅宮崇敬講社講帳』の記載内容の実際を見てみましょう
「講帳」第壱号の巻頭部分を見ると、
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村居住明治七年十一月一日入構琴 陵 宥 常 印当戌三拾六歳同 妻 千 萬 二拾一歳同 死去 長男 千 盾 壱歳
長女 瑞 枝 十年十ヶ月次女 八千代 九年一ヶ月三女 勝 也 六年十ヶ月四女 賢 子 二年七ヶ月
とあります。当時は前年から香川県は廃止され「阿波+淡路+香川」で名東県になっていました。一番最初に記されている人物は、金刀比羅宮社務職の琴陵宥常です。金刀比羅宮講帳には各戸の戸主が筆頭にかかれ、そのあとに続けて妻・小供・同居人の順に家族全員の名前が記され、さらに戸主との続柄、年齢までが記入されているのです。
続いて、一人置いて
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村寄留松岡 調 印 当戌四拾五歳死亡 母 脇屋里喜 五拾七歳死亡 妻 松岡須磨 二拾九歳死亡 長男同 徳三郎 十八歳長女同 喜 志 八歳次女同 安 佐 五歳次男同 多 平 一歳
と続きます。松岡調は、すでに何回も登場していますが、讃岐の神仏分離政策の中心人物で辣腕を振るい、それが認められて、当時は金刀比羅宮の禰宜職についていた人物です。
ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
金刀比羅宮の崇敬講が、家族ぐるみで講員を把握しようとしていた狙いはなんなのでしょうか。
この内容であれば、世代が変わっても講員を追いかけることができます。永続的に利用できる台帳の作成を狙っていたようです。ここまで見てくると、これはどこかで見たことのあるシステムに似ています。そうです。中世の熊野信仰の熊野行者の先達と檀那の関係に、よく似ているようです。熊野行者の歴史に学んでいる様子がうかがえます。
調査対象になった7277冊の「崇敬講社台帳」は、全体の半分に当たります
帳簿の形態は美濃紙ニッ折 版の袋綴で、用紙は有罫の美濃紙に書かれているものを、1冊約50枚毎に綴じ込んでいるようです。7277冊の冊数を地域別にみると、
第1位四国2832冊(38・8%)
第2位中国2457冊(33・7%)
第3位近畿620冊、第4位中部502冊、第5位九州391冊、
第6位関東203冊
第7位北陸163冊第8位北海道・東北113冊
とで、中四国で全体の3/4を占めます。
旧国別ベスト10を挙げてみると
1 土佐842冊2 伊予8143 阿波5244 備中4845 出雲4666 備前2977 伯耆3088 丹波2769 美作266
年代的に、いつごろからこの帳簿が作成されたかをみてみると、
金刀比羅宮が「金刀比羅宮崇敬講社」の設立を教部省に願い出でのが
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。
講元(取次定宿)は、江戸時代の金毘羅講の御師の系譜を引く家柄と研究者は考えているようです。
彼らが講を組織化し、お札やお守りを全国各地へ定期的に配布します。それだけでなく彼らは、会員名簿を作成し、組織強化の原動力になったようです。同時に、この名簿は熊野行者の「檀那」名簿とおなじで「金のなる木(名簿)」でもありました。金毘羅さん指定の「定宿」の「金看板」と共に、売買の対象となったことは、先ほど見たとおりです。このような経済的な利益が背後にあったことも、「定宿」が熱心に講員獲得に動いた背景なのでしょう。
江戸時代に象頭山で修行した「金毘羅行者」たちが、全国に散らばり金毘羅信仰を広め、先達として、金毘羅さんに誘引するとスタイルの近代バージョンとも思えてきます。
「金刀比羅宮崇敬講社規則」には「講員は少なくとも年に一度は、事比羅宮に参拝すること」と定められています。
講員は、これにに従わなければなりません。香川県内の講員は「総参り」と称して講員全員が揃って参拝したようです。遠隔地の講員の場合には、江戸時代と同じように交代で「代参」するスタイルがとられました。
講員の参拝には、一般の参拝者とは異なる取扱いが行われたようです。特別扱いということでしょうか。例えば、一般の参拝者には許されていなかった「内陣入り」という拝殿に上がって参拝祈祷することが許されました。また、「講社守」(「一代守」とも称した)といわれる講員だけが手にできる特別の守札もありました。さらに、講員や講社からの奉納物の取次などについても便宜が計られるなど、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員に対しては、一般の参拝者とは異なった特別接遇が行われていたようです。これは、ありがたみが増すと共に、自尊心が擽られます。悪い気にはなりません。「講員になっていてよかった」と、思ったとしておきましょう。
こうして、講員はうなぎ登りに増え、明治22年(1889)5月頃には講社員300万人を越えるまでになります。
図11からは、太平洋戦争に突入する昭和16年の各県の新規会員数が分かります。
①東京・大坂・愛知・兵庫などの都市圏で新規講員の数が多いこと②四国の愛媛・高知も新規加入者が多い③それに対して、香川・徳島の伸びが鈍化しています。飽和状態に近づいてきたのでしょうか。④領土的拡大や膨張とともに台湾。朝鮮・樺太・関東州・満州などからの加入者も増えている
実際に金毘羅詣は、どのような形で行われていたのでしょうか。
丸亀市通町の崇敬講社の金毘羅参拝の様子を見てみましょう。
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
これも母から聞いた話である。①通町には年三回、二五銭ずつを積み立てて、金ぴらまいりをする敬神講があった。②毎年五月十日に、大体百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。③休憩所は登茂屋久兵衛(現在舟々せんべいを売っているあたりだった)、ここは間口も広く奥行き深く、山を形どった庭、それに座敷も広かった。九時頃宿屋へ着くと、まず風呂にはいり、浴衣に着かえるとお茶漬がでる。鰭の煮付けにフキをあしらった皿物、かし椀(香味、カマボコ、麹など)、漬け物といった膳立てである。茶漬けが終わると、④一同勢揃いしてお山にのぼり、本社拝殿に詣でて、お祓いを受ける。そして、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。囃子(ハヤシ)方は、男四人宛両側に並び、せき鉦(ショウ)、笛などの楽器を奏し、紫の袴の巫女(ミコ)が琴を弾ずる。舞が終ると内陣にはいって今度は金の御幣でまたお祓いを受ける。これで約一時間かかる。お山を降りて、⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。簡単なものであるが、これがなかなか有り難いのである。背の高い、丸型に押し抜いた赤飯が、白紙を敷いた高坏(タカツキ)に盛られ、木皿にはスルメと昆布、盃には宮司が御神酒を注いでくれる。その上に紅白の折り物が出る。
それからいよいよ最後の行事である⑥神籤(カミクジ)を各人がひくのである。これが当日の第一の楽しみであり、またこれが金比羅敬神講の山場でもある。三等まで賞品がつく。籤引きが終われば、⑧一同宿屋に帰って会席膳について寛ぎ、おまいりもここに終了となるのである。⑨全予算七五円のうち、二五円はお山に奉納、五〇円が宿屋の支払いだったという。
ここからは次のような事が分かります。
①年三回、25銭ずつを積み立てて、金毘羅詣りを敬神講があった②毎年5月10日に、百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。③崇敬講社指定の休憩所(定休み)は登茂屋久兵衛で、九時頃宿屋へ着くと、風呂に茶漬を食べた。④一同勢揃いして、本社拝殿に詣でて、お祓いを受け、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。⑥最後の行事である神籤(カミクジ)をひく。これが当日の第一の楽しみであった。⑦籤引きが終わると、宿屋で会席膳で寛ぎ終了となる。⑧全体の予算七五円のうち、25円はお山に奉納、50円が宿屋の支払いだった
街毎に金毘羅講があり、会費を徴収して、5月に100人の団体で金比羅にお参りしていたようです。汽車で琴平駅について、すぐにお参りするのかと思えばそうではありません。まずは、崇敬講社の指定する宿屋(定休)で、お風呂に入り身を清めて、浴衣に着替えて茶漬けを食べてからです。
江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
講員の参拝ですから次のような「特別扱い」を受けています
④拝殿に上がってお祓いを受け、八乙女の神楽舞を拝観⑤社務所書院の千畳敷の拝観とお膳
講員をお客様として、神社側も接待していた様子がうかがえます。
このような講員組織を、近代日本の国家は、国家神道の一部に組み込んでいきます。日中戦争が激化すると、地域での金刀比羅宮への参拝を半強制化するようになります。太平洋戦争に突入すると、順番を決めて地域代表の日参化を強制するようになります。それが、可能であったのも明治の時代から金比羅講が組織化され、地元の人たちが金毘羅詣でを日常生活の中に取り入れていたから出来たことかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常 国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常 国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
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