四国遍路を正式に行おうとすると、納経帳、般若心経、白衣は必需品のようです。白衣を身につけ、本堂と大師堂で般若心経を唱え、納経帳に納経印をもらうというのがお決まりの作法のようになっています。これは、いつからそうなったのでしょうか。
今回は遍路スタイルの変遷について見ていきたいと思います。
テキストは「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣 四国遍路の世界」所収 ちくま新書」です
![四国遍路の世界(筑摩書房) [電子書籍]](https://image.yodobashi.com/product/100/000/086/601/054/491/100000086601054491_10204.jpg)
最初の四国遍路のガイドブックといわれる真念『四国辺路道指南(みちしるべ)』1687年刊の冒頭には、遍路者へのさまざまな注意書があり、納め札、笠、杖、脚絆などについては詳しく書かれています。しかし「納経帳、般若心経、白衣」のことは、どこにも触れられていません。当たり前なので触れなかったのではなかったようです。真念の時代の遍路者は、白衣を着ず、納経帳を持たず、般若心経も唱えていなかったようです。では、いつころからこれらは普及したのでしょうか。

今回は納経帳について見ていきたいと思います

天保8年の納経帳
今回は納経帳について見ていきたいと思います
寺社に経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状を納経状といい、それらを集めて帳面にしたものが納経帳と呼ばれます。ここで注意したいのは「経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状」が納経状であるということです。つまり、経典を納めない者には、出されることは元来はなかったのです。


この「納経帳」を最初に採用したのは「六十六部」のようです。
六十六部とは、日本全国六十六ヶ国を巡り、各国の有力寺社(決まってなくて随意の寺社)に法華経を本納するという巡礼者のことのようです。六十六部の納経状の最も古いものは12世紀のものが知られていますが、中世の六十六部の納経状は数も少ないようです。つまり中世に六十六部巡礼者の数も多くなかったのです。 それが世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部の活動が行われていたことが大量に残された納経帳からうかがえます。彼らの活動状況はからは次のようなことが分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700②一国当たり3~10ヶ寺を廻り③巡礼期間は3年~10年
と、長期間をかけて各国を回るようになり、その数も急増したことが分かります。

どんな経典が納められていたのでしょうか?納経帳に記された奉納経典についてみてみると
18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。そして1760年代以降になると、奉納経典は記載されなくなったようです。


六十六部の残した納経帳
納経帳の書かれた奉納経典の変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経寺社数が100以下の限られていた時期ならともかく、巡礼する寺社数が増えるにつれ、難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなったようです。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯を研究者は考えているようです。


文政8年の納経帳 讃岐観音寺
四国の札所の納経帳は、六十六部の納経帳のスタイルを真似たものとして登場するようです。
六十六部が四国を巡った際に、札所にもあわせて納経します。すると六十六部の巡礼者は四国札所の納経帳が出来上がることになります。そこには四国の札所の多くに納経したことが記されています。これはあくまで六十六部の納経帳であり、四国遍路の納経帳ではありませんでした。しかし、これを見た遍路の中に「あれええな、わしも作ろう、朱印を集めよう」と思う者が出てきたのでしょう。
四国八十八ヶ所の納経帳は、いつごろから登場するのでしょうか
四国遍路者の納経帳で、今のところ最も古いとされているのが1753(宝暦3年)のものです。18世紀後半になると四国遍路の巡礼者も納経帳を持って四国をを巡るようになったようです。

どうしてこの時期に納経帳が普及するのでしょうか?
第1の理由は、納経帳の持つ魅力だと研究者は考えているようです。
納経帳には各寺社の本尊や祭神が大書されてあり、単なる書類綴りとは異なって諸国の神仏を集めた「神名帳」としての意味を持っていました。納経帳は、各札所を廻った証であるとともに、神聖なもの、ご利益をもたらすものと人々は考えていたようです。
19世紀初期に大坂で、四国遍路の普及につとめた菱垣元道は、四国遍路の入門書と納経帳がセットになった『四国道中手引案内納経帳』を作り、五万冊以上を無料配布します。そこには、次のような事が記されています
①納経帳を持って遍路をすると、持たない場合に比べて功徳が七倍になる②納経帳を一枚ずつ水に人れて飲むと流行病にかからない③納経帳を死後棺桶に人れると極楽往生できる
などの効用が説かれています。ここまで言われると納経帳はありがいものに思えてきます。納経帳は、神聖でありがたく、効能があるものとされるようになったのです。
納経帳普及の理由の第2は、 18世紀後半になると経典を奉納しなくても納経印がもらえるようになったことです。
真念の時代の四国遍路では、八十八の寺社にお札は納めてはいたが、経典を納める慣習はなかったようです。先ほどの六十六部の所でも触れましたが、当時は、経典を奉納しないと納経印がもらえなかったのです。納経印をもらうために、大量の経典を写経したり、買ったり出来る人は限られています。そこまでして納経帳をつくる遍路者はいなかったでしょう。しかし、18世紀後半になると、納経料さえ払えば納経印がもらえるようになります。この変化が巡礼者の多くが納経帳を持つようになった背景ではないかと研究者は考えているようです。
真念の時代の四国遍路では、八十八の寺社にお札は納めてはいたが、経典を納める慣習はなかったようです。先ほどの六十六部の所でも触れましたが、当時は、経典を奉納しないと納経印がもらえなかったのです。納経印をもらうために、大量の経典を写経したり、買ったり出来る人は限られています。そこまでして納経帳をつくる遍路者はいなかったでしょう。しかし、18世紀後半になると、納経料さえ払えば納経印がもらえるようになります。この変化が巡礼者の多くが納経帳を持つようになった背景ではないかと研究者は考えているようです。
まとめておくと、
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこない。
②実際に納経を行っていた六十六部は「納経帳」を残している。
③四国遍路の四国遍路の納経帳は、六十六部の納経帳から生まれ、18世紀の後半から四国遍路者の間に普及した。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったこと
⑤納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこない。
②実際に納経を行っていた六十六部は「納経帳」を残している。
③四国遍路の四国遍路の納経帳は、六十六部の納経帳から生まれ、18世紀の後半から四国遍路者の間に普及した。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったこと
⑤納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣 四国遍路の世界所収 ちくま新書」です
コメント