現代の四国遍路では、札所の本堂・大師堂の前で読経を行うのが霊場会の作法となっているようです。そして、
開経、懺悔文、三帰、三境、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、般若心経、本尊真言、光明真言、大師宝号、回向(えこう)文

の順で唱えていきます。この中で般若心経は外すことができないものとされます。私も巡礼の際には、にわか信者になって般若心経をお勤めしてきました。しかし、般若心経は江戸時代初めには、唱えられていなかったようです。
おきらく道場 続・お遍路本

1687年(貞享四)の真念『四国辺路道指南」には、仏前勤行について
「本尊・大師・太神官・鎮守、惣じて日本大小神祗・天子・将軍・国主・主君。父母・師長・六親眷属」などに礼拝し、「男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

とあります。ここには光明真言や大師宝号を唱え、御詠歌を詠むとはありますが、般若心経には全く触れられていません。
これに変化が現れるのは19世紀になってからです。1814年(文化11)に刊行された『四国編路御詠歌道中記全』は、札所の本尊図と御詠歌を中心とした簡単な案内書です。そこには、遍路の効能を書いた序文の次に、「紙札打やうの事」とあり、その後に十三仏真言、般若心経、十句観音経、懺悔文が載せられています。今のところこれが般若心経を載せる最も古い案内書のようです。しかし、一般には広がっていなかったようです。般若心経を唱える人はわずかだったのです。 
明治時代の仏前勤行
明治になると1868(明治元)に神仏分離令が発布され、 各国の一宮などの神社が札所から排除されて、八十八の札所はすべて寺院となります。 一方で、廃仏毀釈運動の高まりの中で住職が還元していなくなり廃寺になった札所も少なくなかったようです。さらに3年後には、寺社領上知令が出されて、今まで持っていた寺領が新政府に没収されます。明治初年は、四国遍路だけでなく日本の仏教界にとって経済的な打撃も与えました。
 このような中で仏教側からの建直しと「反攻」機運も出てきます。
札所の多くが属する真言宗では檀信徒への布教・教化を積極的に進めていくために、在家勤行法則を制定します。これまで真言宗では布教や教化はあまり重要視されていませんでした。しかし、神仏分離・廃仏毀釈という今までにない危機のなかで、檀信徒に対して真言宗の教えをわかりやすく説く必要が認識されたようです。こうして1880年に真言宗各派が東京に集まって第一回布教会議が開かれます。、そこで作成されたのが「在家勤行法則」(著述人・三条両乗禅)のようです。
東寺 真言宗 在家勤行法則』京都みやげ経本 - 川辺秀美の「流行らない読書」

この「在家勤行法則」は、次のようなもので構成されています。
懺悔文、三帰、三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、光明真言、大師宝号・真言安心和讃・光明真言和讃・回向文」
からなっています。見れば分かるように、これから2つの和讃を除くと、現在の四国遍路の仏前勤行になります。どうやら明治の「在家勤行法則」が原型になっているようです。しかし、ここにはまだ般若心経はありません。
明治になると、江戸時代までのものとはちがった新しい四国遍路案内書が次々に登場してくるようになります。
1四国遍路案内一覧

この表は一番左が出版された年で、明治以降に刊行された案内書の仏前近郊主なものを並べたものです。右のページの二番目が般若心経の列ですが、その数はそれほど多くありません。昭和の戦後になってからのものには、般若心経が入っているようです。

1四国遍路 勤行法則pg

明治の遍路者は実際には、どのような仏前勤行を行っていたのでしょうか。
1902年(明治35)に遍路に出た菅菊太郎の巡拝記を紹介した「佐藤久光『四国猿と蟹蜘蛛の明治大正四国霊場巡拝記』岩田書院、2018」には、
「遍路者は、祈念文、懺悔文、三竟、三党、十善戒、光明真言、大師宝号、十三仏真言によって「一通りお勤が済む」が、丁寧な者は般若心経、観音経、真言安心和讃、光明真言和讃、弘法大師和讃などを唱える」

と書かれているようです。ここからは祈念文から十三仏真言までが「標準」で、般若心経を唱えるのは丁寧な遍路者に限られていたことが分かります。
お経をよむ|遍路道(歩き遍路ブログ)

十大正時代以降の仏前勤行は?
明治の仏前勤行は、般若心経が唱えられることはあっても一般的ではなかったようです。大正時代になっても状況は変わりませんが、研究者が注目するのが1910(大正9)に出された丹生屋隆道編『四国八十八ヶ所』です。この本の著作兼発行人は50番札所繁多寺の住職さんです。そして発行所は、四国霊場連合会となっています。ここにも「勤行法則」の中に、般若心経はありません。序文には、1918年の第6回四国霊場連合大会の決議によって、この案内書を作成したとあります。四国霊場連合会は、明治末年の1911年(明治44)に第一回大会を善通寺で開催して、活動を開始していたようです。そして、第一次世界大戦後の大正時代には、まだ般若心経は入っていないことが分かります。

昭和になると、安田寛明『四国遍路のすゝめ』のように仏前勤行に般若心経を含める案もありますが少数派です。そう言えば、山頭火などの巡礼記録を見ても般若心経は出てこない気がします。
それでは、いつから今のように般若心経が唱えられるようになったのでしょうか。それは、どうやら戦後になってからのようです。

白衣姿の遍路が登場するのはいつ頃から?
般若心経とならんで遍路の必需品とさえるようになった白衣は、いつ頃からのものなのでしょうか。真念の『四国辺路道指南』には、やはり白衣は登場しません。
1四国遍路 江戸時代の遍路姿

江戸時代後期の『四国遍礼名所図会』や『中国四国名所旧跡図』(上図)に描かれた遍路者も紺、縞、格子の着物を着ているようです。
88箇所遍路

幕末に書かれた喜多川守貞の『近世風俗志』(『守貞漫稿』)には、四国遍路について、次のように記されています。
「阿州以下四国八十八ヶ所の弘法人師に詣すを云ふ。京坂往々これあり。江戸にこれなし。もつとも病人等多し。扮定まりなし。また僧者これなし」

 「扮定まりなし」とあるおで、決まった装束はなかったことが分かります。それは、明治に入っても変わりません。
愛媛県松山市野忽那(のぐつな)島の宇佐八幡神社に1884年(明治17)に奉納された絵馬には四国遍路の道中の様子が描かれています。男性が5名、女性が12名(うち子供2名)みえます。着物は、全員が縞模様や格子など柄物です。
1四国遍路 meizino 遍路姿

上の写真は、愛媛県西予市宇和町の山田大師堂に奉納された明治時代の四国遍路の記念写真です。これも全員が着物姿で白衣ではありません。このように、明治になっても遍路者は白衣を身につけていません。
白衣がみられるようになるのは昭和になってからのようです。
旧制松山高等学校教授の三並良は、
「青々した畑の間を巡礼が白衣でゆく姿がチラ/ヽと見え、鈴の音が聞える」
(三並良「巡拝を読む」『遍路』1932一九三二)
旅行作家の島浪男も
「お遍路さんに二組三組出会ふ。白い脚絆に白い手甲、着物はもとより白く、荷物を負ふた肩緒も白い」
(島浪男『四国遍路』宝文館、1930)と書いています。1936年(昭和11)に遍路に出た女性は、
「当時は先達以外に、白衣を着る人はいなかった」
(印南敏秀「戦前の女四国遍路」『技と形と心の伝承文化』慶友社、2003)と述べています。
「四国巡拝の手引」(1932年)に
「服装は平常着の儘にて、特に白衣などを新調する必要なし、但し白衣の清浄で巡る御希望ならばそれも結構です」

とあります。ここからは戦前は先達は別として、普通の遍路が白衣を着るのは珍しいものだったようです。




 戦後に社会が落ち着いてくる昭和20年代後半になると遍路に出る者が再び、増えてきます。
1953年(昭和28)に出された案内書『四国順礼 南無大師』(四国霊場参拝奉賛会)の「巡拝用品」にはまだ白衣はみえません。
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1956年の岩波写真文庫『四国遍路』(岩波書店)には札所や遍路者の写真が数多く収められていますが、遍路者の約半分が白衣姿のようです。
1四国遍路姿 岩波

そして高度経済成長が始まる1960年代始めに出された案内書『巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店)には、
「四国は今に白衣姿が一番多く、次いでハイキング姿です」

と紹介されます。いよいよ白衣の流行の時代がやって来たようです。こうしてみると、白衣が普及するのは思っていたよりも新しいようです。昭和の高度経済成長時代に、貸切バスで先達さんに連れられた遍路の団体から流行が始まったのかもしれません。先達さんだけが着ていた白衣が、かっこよかったのかもしれません。あるいは、先達さんの勧めがあったのかもしれません。どちらにしても白衣も般若心経も案外新しく戦後になって定着したもののようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界 ちくま新書