1志度復元イラスト カラー

中世の港町の地形復元作業が香川県でも進んでいるようです。今回は志度を取り上げてみます。テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」です。
1志度復元イラスト 白黒
中世志度の港の位置を確認しておきましょう。港の中心は、志度寺が所在する志度浦(王の浦)と研究者は考えているようです。中世の港は宇多津や野原(高松)の発掘から分かるように、長い砂浜にいくつかの泊が並んで全体として港として機能していました。志度では
①志度浦の北西にあたる房前
②志度浦の東北にあたる小方・泊
までの範囲一帯で港湾機能を果たしていたと研究者は考えているようです。志度浦は、近世後期の『讃岐国名勝図会』に
「工の浦また房崎のうらともいへり」

と記され、近世になっても、北西の房前浦と一体的に捉えられていたことがうかがえます。

1中世志度港の復元図1

小方は、嘉慶二年(1388)に「小方浦之岡坊」で大般若経が書写されています。

ここからは、この浦に大般若経を所蔵する古寺(岡坊)があったことがわかります。中世の港の管理センターは、寺院が果たしていました。それは、
野原(現高松港)の無量寿院
宇多津の本妙寺
多度津堀江の道隆寺
仁尾の覚城寺
観音寺の観音寺
など、港と寺院の関係を見ると納得がいきます。この付近にあった岡坊も港の管理センターとしての機能を果たし、周辺には町場が形成されていたようです。
3 堀江
多度津の堀江津と道隆寺の関係を中世復元図見て見ると

瀬戸の港町形成に共通する立地条件としては、砂州が発達し、それが防波堤の役割を果たし、その背後の潟湖の砂浜に中世の港はあったようです。志度もその条件が当てはまります。志度浦の東北に位置するは、北西風をさける地の利を得た天然の良港だったでしょう。古くから停泊し宿る機能があったことから「泊」と名がつけられたとしておきましょう。
 鎌倉時代後期~南北朝時代に成立した「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」を見てみましょう。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」
「御衣木之縁起」
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

この絵からは次のようなことが分かります。
①西の房前や小方・泊には家々が集まって町屋が形成されている
②房前は、舟も描かれ、寄港場所であった。
③志度寺の南には潟湖が大きく広がっている。
④志度寺は砂堆の上に建っている
⑤潟湖の入口には、木の橋が架かっていて塩田と結ばれている。
⑥真珠島は、陸とつながっていない。
⑦志度寺周辺に町場集落があった。
1「志度寺縁起絵」の「阿一蘇生之縁起」

1「阿一蘇生之縁起」
阿一蘇生之縁起
「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」と「阿一蘇生之縁起」に描かれた地形と現在の地形を比較して見てみましょう。志度の町場は、志度湾の砂堆の上にあり、砂堆の東側・南側は大きな潟(潟湖、ラグーン)跡と研究者は考えているようです。低地が広がる志度寺とその東側との間にはあきらかな段差があります。志度寺は、この安定した砂堆の上に建っています。
 それを証明するように「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも志度寺が砂堆上に描かれています。また志度寺の由来を記した「志度寺縁起」にも、志度寺の前身となる小堂について
「彼ノ島(=真珠島)ノ坤方二当り、海浜ノ沙(いさご)高洲ノ上二一小堂アり」
と記されています。これも、志度寺がやや高い砂堆の上にあったことを裏付ける史料です。
  砂堆の東側には、近世初期に塩田となり、明治40年頃まで製塩が続けられたようです。
現在も塩屋の地名が残り、塩釜神社があります。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも真珠島の南側に塩田が見えます。中世の早い時期から小規模な塩田があったことが分かります。塩釜神社の北側には、砂洲斜面と見られる段差があります。この付近に、潟出口に面して砂洲があったようです。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも、砂堆から東側の真珠島へ延びた砂洲が描かれていて、縁起絵の内容とあいます。
砂堆の南側については、中浜・田淵・淵田尻など海浜や淵に関連する地名が残ります。
とくにJR志度駅の南側一帯には低地が広がり、さらにその南方の政池団地付近は直池とよばれ、葦が繁茂する沼地だったようです。それが大正初年の耕地整理事業で埋め立てられます。このあたりまで潟湖だったのでしょう。
志度浦東北の小方は、近世には鴨部下庄村に属し、かつえは「小潟」と表記されていたようです。
その名の通りに後背地が潟跡跡で、今は低地となっています。古文書に
「鴨部下の庄はもと入江なりしも、上砂流出し陸地となれり」

とあるようです。微地形の起伏などに注意しながらこの辺りを歩いてみると、海岸沿いの街道はやや高い所にあり、潟跡跡の低地とは明らかな段差があるのが分かります。
 かつての真珠島

  真珠島は、志度と小方との間にある島でした。
海女の玉取り伝説にちなんで名づけられた島で、志度寺の由来を記した「志度寺縁起」に
「玉ヲ得タル之処、小嶋之故真珠嶋と号名ス」

と記されます。大正時代のはじめに陸続きとなり、戦後に周りが埋め立てが進み、今はは完全に陸地になってしまいました。しかし、周りを歩いてみると島の面影をとどめています。ここは志度寺の鬼門になるので、山頂(標高7,6m)に弁財天を祀るようになったので、江戸時代には「弁天」とよばれて崇敬されてきたようです。また、海にやや突き出した小高い山として、海側から近づく舟にとってはランドマークの役割を果たしていたとのでしょう。
蘇る聖地/香川県さぬき市志度町/真珠島/瀬織津姫/青龍/竜宮城/2019/10/18 |  剣山の麓よりシリウスの女神いくえと龍神・空が愛のあふれる世界を取り戻すため活動中

次に、志度の町場と道についてみてみましょう。

1志度寺 海岸線復元 街道

  町場は、東端の志度寺を起点に、海沿いに西へ向かう志度街道を軸に展開します。地図を見ると志度街道(点線)は、砂堆の頂部に作られていることが分かります。街道沿いの町場が中世前期まで遡るかは分かりませんが、守護細川氏による料所化との関連も考えられます。
しかし、戦国期以降に整備された可能性もあります。町場の起源は、発掘してみないと分からないということでしょう。
 江戸時代には、高松藩はここに、志度浦船番所や米蔵を置いていました。平賀源内の生家もこの街道沿いにあります。『讃岐国名勝図会』には真覚寺・地蔵寺など寺院や家々が志度街道に沿って密集して描かれています。
 志度寺から南の造田を経て長尾に至る阿波街道があり、志度は陸路によって後背地の長尾につながっていました。志度寺の後背地にあたる長尾には、八世紀後半に成立したといわれる長尾寺があります。志度寺と長尾寺はともに「補陀落山」という海にちなむ山号を持ちます。長尾寺が志度寺の「奥の院」であったと考える研究者もいるようで、ふたつのお寺には親密な交流があったようです。長尾寺にとって志度は、沿海岸地域に対する海の窓口の役割を果たしていたのでしょう。いまも歩き遍路は、志度寺から長尾寺、そして結願の大窪寺へと阿波街道を歩んで生きます。

中世の志度寺周辺の交通体系は、志度寺門前から海沿いの東西の道とともに、志度寺から南へ延びる道が整備されて行ったようです。志度寺は、東西・南北の道をつなぐ交通の要衝に位置し、人やモノの集散地となっていきます。中世の志度は海と陸の結節点に位置していたといえます。
 地名と地割を見ておきましょう。
砂堆にある町場は、寺町・田淵・金屋・江ノロ・新町などから構成されていたようです。その周囲に塩屋・大橋・中浜などの地名が残ります。町域の西側に新町・今新町の地名があります。ここから江戸時代の町域拡大は、志度街道沿いに西側へと進んだことが考えられます。町割は志度寺門前の空間が「本町」であったとしておきましょう。

町域は標高3mの安定した砂堆上にあり、町場周辺では塩屋~大橋が(0,6m)、中浜(1,8m)で他より低くいので、この付近に低地(潟)が広がっていたことがうかがえます。
 また、寺町と金屋の間に「城」の地名が残ります。
中世の志度城館跡(中津城跡・中州城跡)があったと伝えられますが遺構は確認されていないようです。ただ、この付近が中世領主の拠点となった可能性はあります。志度城城主は、安富山城守盛長とも、多田和泉守恒真であったともいわれているようです。
 志度街道の両側には短冊形地割が残り、明治~昭和初期の町家が散在します。街道の南北両側にも街路がありますが、町域全体を貫くものではありません。これは近代以降に、断続的に低地へ町域が拡大したことを示すようです。本来的な町割は、 一本の街路(志度街道)の両側に設定されていたと研究者は考えているようです。
志度の古い町並み

では、志度はどんな地形環境の変化を受けてきたのでしょうか?
幅広く安定した地形は、志度寺から西へ続く砂堆が古くから形成されていたことによると研究者は考えているようです。砂堆の東側・南側に入り組んで広がる潟は、その内岸が古代から寄港場所となっていた可能性があります。しかし、早くから潟湖は埋まり湿地状になっていきます。そして中世になると潟の内岸は、港湾としては使用できなくなります。一部は塩田となったようです。
 「志度寺縁起絵」のうち「御衣木之縁起」や「阿一蘇生之縁起」をもう一度見てみましょう。
潟の出口に簡単な橋が架けられ、潟の沿岸では塩田が造られています。また内陸部に広がる潟の内岸には舟がないのに、海に面した砂堆北側には舟があります。ここからは砂堆北半部が着岸可能で港機能があったようです。とくに「阿一蘇生之縁起」では、海に面した砂堆北半部の西側に舟が着岸しています。古代は、潟湖の内側が港だったのが、中世には潟が埋まって寄港場所が変化したようです。

中世志度の景観について、研究者は次のようにその特徴をまとめています。
①港町としての志度は、海浜部の砂堆の上にあった。
砂堆の東・南側には潟(入江)があって、砂丘の東側には真珠島に向かって砂洲があった。海に突き出した小高い真珠島は、海側からはランドマークとして機能した。「志度寺縁起絵」に描かれた志度の景観は、基本的に鎌倉時代末期~南北朝時代の現地の実態を踏まえて描かれている。
②中世の志度の港湾機能は、海に面した砂堆の北側にあった。
「志度寺縁起絵」には砂堆の北西に舟が着岸している。もともとは、潟の内岸の方が船着場として適地だが埋没が進んで、寄港場所を潟の内岸から海岸沿いに変化させていった。近世の『讃岐国名勝図会』には、砂堆西側の玉浦川の河日周辺に舟がつながれている様子が描かれいる。玉浦川は、砂堆背後の潟の排水を目的として近世に開削された可能性がある。
③志度湾岸には孤立した条里梨地割群が残る。志度南側は早くから耕地化されていた可能性がある。
④砂堆東側に志度寺が位置し、その門前から西側に延びる志度街道沿いに町場集落が広がる。志度寺は交通の起点であり、長尾など後背地にとっては沿海岸地域への窓口となった。志度寺は港湾の管理センターでもあった。
⑤志度湾には志度寺を中心とした志度のほか、房前・小方・泊など複数の浦があった。中世の志度はこれらの複合的な港湾から構成されていて、それぞれに町場があった。「志度寺縁起絵」には房前・小方・泊には家々が密集して描かれている。


以上から次の課題として見えてくることは
①中世讃岐の港湾には、国府の港であつた松山津をはじめ、志度や宇多津、仁尾、観音寺などがあります。これらは砂堆の背後の潟湖に船着場がありました。ところが中世には堆積作用で埋没が進み、港湾機能が果たせなくなり衰退する港もでてきます。松山津や多度津の堀江は、そうして衰退した港かもしれません。でも、潟が埋まって浅くなり、船着場・船溜りとしての機能が失われても、志度は港湾機能を維持し繁栄しています。その要因はどこにあったのでしょうか。志度の場合は、港湾の管理センターの役割を果たしていた志度寺の存在が大きかったのではないかと研究者は考えているようです。
この世とあの世の境「志度寺」 : おかやま街歩きノオト(雑記帳)

 もうひとつは、砂堆上に志度寺や多度津の道隆寺、野原(現高松)の無量寿院は建てられています。
なぜ、地盤が弱く建設適地とは思えない砂堆や砂洲に寺社がつくられたのでしょうか?
「洲浜」は絵画等のモティーフとされることが多かったようです。それは神仏の宿る聖域としての意味があったからだと研究者は指摘します。志度寺が砂堆・砂洲に位置した要因についても、聖なる場所というイメージがあったのかもしれません。
 島根県の出雲大社がわざわざ斐伊川の悪水の排水点に建てられたのも、そのコントロールを神に祈る場所であったとする指摘もあるようです。水をつかさどる寺社と潟の排水等との関係もあったのではないかと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」でした。