前回に「志度寺縁起絵」の中に描かれた中世の志度の「港」をみてみまた。そしたら「志度寺縁起って、なーにー?」と問われました。志度寺縁起が何者かであるのを答えるのは私の力の及ぶところではありません。私の考える「志度寺縁起」を備忘録代わりに残しておくということにします。
志度寺縁起 6掲示分

6篇からなる壮大な縁起で、全体が一つの物語。
 縁起絵自体は6本の大きな絵図です。日本に現在残っている縁起絵の中でいちばん大きなものと云われているようです。一幅が巻物の二・三巻に相当する大きさなので、絵巻物にすれば二十巻ぐらいのボリュームがあります。
 そこに物語が順序を追って描かれていて、上から下に、下から上に進む大胆な構成の絵を幅物にしてあります。それに長い漢文の詞書が付いています。縁起物語をかたる絵解き材料だと云われています。つまり、行事の時に多くの信者に、これを見せながら絵解物語を語ったのでしょう。ある意味、大きな大きな6篇の紙芝居と云えるかもしれません。編名は
「御衣木之縁起」
「讃州志度道場縁起」
「白杖童子縁起」
「当願暮当之縁起」
「松竹童子縁起」
「千歳童子蘇生記」
「同一蘇生之縁起」
絵は6つですが、その絵を見ながら語られるのは7つの縁起です。
それでは、順番に見ていくことにします。ご開帳・・・・!

志度寺縁起 御衣木縁起
「御衣木之縁起」クリックで拡大します
「御衣木之縁起」のあらすじ
 近江の国に白蓮華という大きな大きな木がありました。雷が落ちて琵琶湖に流れ出しますが、その木は霊木で行さきざきで災いを引き起こします。瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流されます。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄ります。それで志度では、霊木で十一面観音を刻みました。
というのが「御衣木之縁起」です。これは、どこかで聞いたことのある話です。それもそのはず「長谷寺縁起」そのものです。本来は志度ではなくて、大和の当麻の村に留まって、百年間、疫病をはやらせていたのが、徳道上人が仏像に刻んで当麻寺ができたという話を、あちこちにつなぎ合わせた「パクリ」で、地方の寺院にはよくあることです。それも文化伝達のひとつの形としておきましょう。「商品登録」「著作権」もない時代のことです。
 この絵には、上から下へに霊木が流れ着く所で起きる禍が描かれています。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
志度寺に現れた十一面観音と当時の志度寺周辺

最後に流れ着いたのが一番下に描かれる志度寺です。そこで禍を与えていた霊木が十一観音に生まれ変わっていく場面になります。志度寺が砂堆の東端にあり、南側は潟湖が広がっていたことが分かります。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

また、製作年代が文保二年(1318)、発願者が「薗の尼」という比丘尼の名前と「一幅二図シテ」と書かれていますので鎌倉時代末には出来上がっていたことが分かります。
志度道場縁起

志度寺縁起の中で、最も有名なのが「讃岐志度道場縁起」の「海女の玉取り」話です。
この絵は、志度寺の本堂にレプリカが置いてあります。この物語の主人公は、なんと藤原不比等なのです。物語は、一人の海女の悲しい伝説として伝えられています。 
 時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた不比等の娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
 しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。
 海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と竜宮に潜っていった。
 龍神との死闘の末、海女は自分の胸を切り裂いて、乳房に宝玉を隠します。
志度寺 玉取伝説浮世絵
浮世絵絵の玉取伝説 左端が玉を胸に隠した海女

腰に命綱をつけた海女の合図があり、不比等が綱をたぐると、海女の手足は竜に食いちぎられていました。しかし、十文字に切った乳房の下には、玉が隠されていたのです。
海女の玉取り物語 « 一般社団法人さぬき市観光協会

不比等は約束通り海女の生んだ房前を藤原家の嫡子とします。
若干13歳で大臣となっていた房前は、東大寺建立のため全国を行脚していた行基について志度に訪れます。その時に母の死の理由を知ります。房前は、母を偲んで志度寺の堂を広く立て直し、そこに千基の石塔を建て菩提を弔むりました。
 母を供養した房前はその後も活躍し、藤原家の栄華へとつながったとさ。
これが『海女の玉取り物語』です。ストーリーとしては「子の出世へ、命を投じる海女(母)」の物語です。しかし、登場してくる相手役が藤原不比等なのです。この絵を見ながら絵解きを聞いた人々には「志度寺=藤原家の菩提寺」ということを自然に信じるようになったでしょう。 同時に
「藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。この海辺は極楽浄土へ続いている」と人々は信じるようになります。後世に「死渡が変化して志度」になった。その名は町の名称にもなった

と、近世の歴史書には書かれるようになります。
 いつ、どこの、だれが物語を創作したのかは分かりませんが、平安末期のプリンス、後白河天皇が今様の和歌を記した「梁塵秘抄」に「志度」という地名が登場する程、朝廷では志度は名の通った土地だったようです。その後も、この物語は語り続けられます。そして能にも取り入れられて能「海士」が作られます。
志度寺 玉取伝説能

 この能の成立背景には、興福寺と志度寺(香川県)を結んで瀬戸内海に教線を拡大する西大寺流律宗の活動があったようです。律宗が中世絵画の傑作『志度寺縁起絵』を生み出した要因だというのですが、それは又の機会にすることにします。

1志度復元イラスト 白黒
 海女が息を引き取った真珠島は、今は埋め立て地の丘になっていてます。
後世は弁天様が祀られているので「弁天」の方が地元では通りがいいようです。現在でも10月の多和の秋祭りの次の週末には、志度寺にてお経があげられていると云います。志度寺の境内には、こけむした海女の墓があります。

 志度寺縁起の3つ目は「白杖童子縁起」です。
 
志度寺縁起 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

主人公は貧しい馬借の白杖童子です。馬借は「馬借一揆」に登場する流通業者です。白杖童子が一つのお堂を建てたいという願を立てていましたが、完成しないうちに死んでしまいました。しかし願を立てたという功徳だけで、閻魔の庁で
「お前を帰すが、志度の道場にかならずお堂を建てよ」
といわれて帰ってきます。
 白杖童子が地獄にいるとき、一人の女が鬼に道いかけられていました。白分が蘇生させてもらえるよりも、哀れな女を先に蘇生させてやってほしいと頼んだところ、お前は感心だというので、若い女も共に放免されて、この世に蘇生します。その女は讃岐守をしているたいへんな金持ちの娘だったので、夫婦になって三年間でこの寺を建てた、めでたし、めでたしという話になっています。
  この絵から読み取れるのは

志度寺 白杖童子縁起・当願暮当之縁起

①閻魔大王が登場すること。上の絵図の右半分が閻魔庁で、門外には赤鬼に死者が伴われて連行されています。中には正面に閻魔大王はじめとする「十王」のメンバーが待ち構えています。十王とは、冥土で亡者の罪を裁く十人の判官です。
 この縁起を見に集まった人たちは、説教法師の話を身を乗り出して聞いたことでしょう。同時に「十王信仰」がこのようにして絵解きを通じて広められていったうかがえます。この時代に地方の真言有力寺院は競うように「十王堂」を、建立することになります。
②もうひとつは、このお話の「落ち」はどこにあるのでしょうか
それは「寄進するものは、救われる」という善行の教えでしょう。このような教えが人々の間に広まっていたからこそ、有力寺院は大規模な造営・改築事業ができたのです。
4番目の縁起は「当願暮当之縁起」で、満濃池の龍の話です。
前編に登場した白杖童子がこの寺を三年かかって建てて供養した場所に、当願と暮当という二人の猟師が結縁のためにお参りにやってきたという所から話は始まります。二つの物語をつなげる手法としては、なかなかうまく作られています。
 当願が堂の前に座っているうちに心身朦朧として、立とうとおもっても立てなくなってしまいます。暮当は当願が帰らないので、探して道場に来てみたら、顔だけは当願で、からだは蛇になっています。当願が
「白分は蛇になってしまった。弘法大師の造った満濃地に沈めてほしい。そこに住みたい」

と云います。そこで、暮当は蛇になった当願を背負って満濃に放した。三日目に当願はどうなっているだろうと見にいったら、当願が「お前にこれをあげる」といって一眼をくり抜いて差し出したと書かれています。
 大蛇や龍の眼をもらうと、すべての願いがかなうという話はいたるところにあります。暮当が酒壷の底に沈めると、美酒になった、汲めども汲めども尽きなかったという話も、よくある果てなし話をうまく取り入れています。不思議におもった妻がそれを発見して、みんなに吹聴してしまいます。
 国司がそれを聞きつけて献上せよというので、暮当はしかたなく差し出します。その評判が朝廷にも聞こえて、朝廷に差し出せというので、朝廷に差し出したところ、こんどは宇佐八幡がそれを欲しいといいだした。その玉を宇佐に運ぶ途中で、遊女となじんだ船頭が龍神に取り返されたのを、遊女の自己犠牲によって取り返したというたいへん紆余曲折のある物話になっています。昔話の手法を縁起の中にうまく取り入れているようです。
 5・6番目の「松竹童子縁起」「千歳童子蘇生話」です。、

志度寺縁起 阿一蘇生

松竹童子が25歳で早死にしていまいます。すると観音の使いがやってきて「葬式は三曰待て」と云います。そのまま置いておいたところ、3日目に松竹童子が生き返っていうには、閻魔の庁で志度寺再興の命令を受けたというのです。その閻魔の庁の描写も非常に細かく、絵そのものもなかなかのできばえです。志度寺修造を条件にして帰されたので、松竹童子は母親と共に出家して、洛中を勧進して廻ります。勧進して集めたお金は、多くはありませんが、それを志度寺に献上します。二人は寺のわきに庵室を追って住み、お参りに来る人々の助勢を願って、ついには五間四面の礼堂を建てた。母親は六十歳で亡くなり、松竹童子は蓮華寿という法名を得て、七十二歳で亡くなったという話がドキメンタリー風に書かれているようです。

志度寺縁起 阿一蘇生部分

 最後が「同一蘇生之縁起」になります。
 阿一なる者が死からよみがえって、志度寺再興のために勧進を行います。ところが、この時代は勧進したお金をごまかす輩も現れたようです。それを防ぐためにいろいろな誓いを立てさせられる話が出てきます。
 絵巻物の最後は
「もし嘘をいったならば血を吐いて死ぬ。梵天、帝釈天、曰本国中大小の神祇は罰をくだすであろう」

となっています。絵解きは、たんに寺の縁起を話るにとどまらず、寺の寄進(募金)のために使われました。最後の一巻で、集められたお金は、このように確実に志度寺再興のために使うということを物語として語ります。今で云う「説明責任」を果たしていいるのでしょうか。勧進に応じた人々を安心させる工夫が感じられます。
 志度寺縁起は志度寺の宝物館に保管されているようです。いちどに全部は、出ていませんが、一巻か二巻ずつ出しているようです。

この志度寺縁起を知ると
藤原不比等が亡き妻の墓を建立し「死渡道場」と名付けた。
この海辺は極楽浄土へ続いている」
死渡が変化して志度になった。その名は町の名称にもなった。
という由緒が、素直にすとんと受け止められるから不思議です。これが縁起絵図や物語の魅力であり魔力なのでしょうか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。