志度寺には「讃岐国志度道場縁起(海女玉取伝説)」とよばれる、14世紀前半につくられた縁起があることを前回はお話ししました。この「縁起」は、能にとり入れられて「海人」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となったといわれます。「讃岐国志度道場縁起」は中世芸能の担い手達からも注目されていたことがうかがえます。
 志度道場縁起は漢文で書かれているので、簡単に現代語に意訳して見ます。
 藤原鎌足がなくなって後、その子である不比等は父の菩提を弔うために、奈良に興福寺を建立してその本尊として丈六の釈迦仏を安置しようとした。その時鎌足の妹は美人の誉れが高く、そのうわさは唐にまできこえ、唐の高宗皇帝の切なる願いにより、唐にわたって皇后となっていた。
 この妹が兄の寺院建築のことを聞いて、たくさんの珍宝を送ってきた。その中に不向背の珠という天下無双の宝玉があった。これらの珍宝を積んだ船が、瀬戸内海の讃岐房前の浦(志度)にさしかかると、にわかに暴風が吹き波は荒れ狂い、船は転覆しそうになった。そこで珠を守るため珠を入れた箱を海中に沈めようとしたところ、海底から爪が長く伸び毛に蔽われた手が出てきて、その箱をうばいとってしまった。唐の使いは都に着いてその仔細を不比等に報告すると、非常に残念に思った不比等は珠がうばわれた房前の浦までやってきた。
 不比等はその地で、海底でも息の長く続く海人の娘と結婚し、三年が過ぎると二人の間に、一人の男の子が生まれた。この時になって初めて不比等は自分の素姓を明かし、唐から送られた宝玉がこの海で龍神にうばわれたことを話した。そして、その宝玉を何とかして取り返したい旨を妻に告げると、彼女は死を覚悟で珠を取って来ようとする。
その際、気にかかるのは残される子のことである。海人は自分がもし命をおとすようなことになれば自分の子を嫡子としてとり立ててくれるよう約束して、龍宮を偵察するために海にもぐって行く。
 海人は一旦海底を偵察した後で、自分が死んだら後世を弔ってほしいと遺言して多くの龍女たちに守られた玉を取り返そうとして腰に長い縄を結び付けて玉を得ることができたら、合図に縄を引くから引き上げてくれるように頼んで再び海中の人となった。舟の上では合図を今か今かと待っていると、かなりの時聞か過ぎて縄が引かれたので、急いで引き上げると海人は、玉をとられたと知った龍王が怒って追いかけ、四肢を食いちぎった無残な死体となっていた。
志度寺 玉取伝説浮世絵
海女玉取伝説の浮世絵

 海人の死体は近くの小島に安置され、人々が嘆き悲しみながらよく見ると、乳の下に深く広い疵がありその中に求める玉が押し込められていた。そこでその小島を真珠島と名づけ、島の南西の浜の小高いところにある小堂に海人の遺体を安置し、寺を建てて志度道場と名づけ、なくなった海人のために仏事供養を行なった。
 玉は不比等が都に持って帰り、興福寺の釈迦仏の眉間に納められた。海人と不比等の間に生まれた子は房前と名づけられ、十三才の時に母のなくなった房前の浦に行き、母の墓を訪れると地底より母の吟詠の声が聞こえてきたという。

 以上が縁起の、大体のあらすじです。この話については前回にもお話ししましたので、今回は、この縁起は何をよりどころに生まれてきたかに焦点を絞って見ていくことにします。

  二、書紀の玉取り伝説
 志度道場縁起のタネ本と目されるのが『日本書紀』允恭天皇十四年九月条にある次のような記述だと研究者は考えているようです。
 天皇、淡路島に猟したまふ。時に大鹿・猿・猪、莫々紛々に、山谷に満てり。炎のごと起ち蝿のごと散ぐ。然れども終日に、一の獣をだに獲たまはず。是に、猟止めて更に卜ふ。島の神、崇りて日はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に、真珠有り。其の珠を我に祠らば、悉。に獣を得しめむ」とのたまふ。
  爰に更に処々の白水郎を集へて、赤石の海の底を探かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人有り。男狭磯と日ふ。是、阿波国の長邑の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋けて海の底に入る。差須曳かりて出でて日さく、「海の底に大蝶有り。其の処光れり」とまうす。諸人。皆日はく、「島の神の請する珠、殆に是の腹の腹に有るか」といふ。亦人りて探く。爰に男狭磯、大腹を抱きて認び出でたり。
 乃ち息絶えて、浪の上に死りぬ。既にして縄を下して海の深さを測るに、六十尋なり。則ち腹を割く。実に真珠、腹の中に有り。其の大きさ、桃子の如し。乃ち島の神を祠りて猟したまふ。多に獣を獲たまひつ。唯男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬りぬ。其の墓、猶今まで在。とある、

これが男狭磯の玉取り伝説で す。意訳しておきましょう。

 天皇が淡路島に猟に行ったときに大鹿・猿・猪、などが山谷に満ちて炎のようにたち、蝿のように散る。しかし、一日が終わっても、1頭の獣さえ捕らえることはできない。そこで、猟を止めて占った。島の神が云うには、「獣が獲れないのは、私の仕業である。赤石(明石)の海の底に、真珠がある。それを我に奉ずれば、たちまち獲物は得ることができるようにしよう」と云う。
 そこで処々の白水郎(海に潜るのが上手な漁師)を集めて、赤石の海の底を探がした。海は深くて底まで潜れるものがいない。唯一、海人の男狭磯が潜れるという。彼は阿波国の長邑の人で、どこの白水郎よりも潜ることにすぐれていた。腰に縄を繋けて、海の底に入って行った。海から出てきて云うには「海の底に大きな蝶々貝があります。その中から光がしますと云う。人々が口をそろえて言うには、「それこそが島の神が求めている珠にちがいない」いいます。そこで男狭磯は、また海に探く潜り、大腹を抱いて上がってきましたがすでに息絶えていました。縄を下して海の深さを測ってみると六十尋あった。貝の腹を割ると、まさに真珠が中にあった。その大きさは桃の実ほどもある。これを島の神に捧げて猟をしたところ、たちまちにして多くの獣を得ることができた。男狭磯が海に入って、亡くなったことを悲しみ、墓を作り厚く葬むった。其の墓は今もあると云う。

これが、男狭磯の玉取り伝説です。
物語のポイントは、志度道場縁起も書紀の允恭紀・男狭磯も、息の長く続く秀れた海女がいて、海中深く潜って珠を得た後に、亡くなるという点では全く一緒です。
 幕末から維新にかけて書かれた「日本書紀通釈」によると、
「或人云、阿波国人宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村鰯山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り、是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそと云り、聞正すへし」
これも意訳すると
「伝承では、阿波の人・宮崎五十羽が伝えるには、板野郡里浦村鰯山の麓に古蹟がある。。里人は「尼塚」と呼ぶ。これが海人・男狭磯の墓であると地元の人たちは伝る」

ここからは江戸末期から明治の初め頃にかけて、阿波の板野郡には男狭磯の墓と伝承される古蹟があったことが分かります。この古蹟は今もあり、鳴門市里浦には尼塚と呼ばれる宝飯印塔があるようです。
 この古蹟の伝承書紀に載せられているのですから、それよりも古いことは明らかです。
『延喜式』巻七、神祗の大嘗祭の条には、
 阿波国、一漱並布一端、木綿六斤、年色十五缶し瓢根合漬十五缶、乾羊蹄、躊鴉、橘子各十五簸皿剋・鰻鮨十五増、細螺、輯甲羅、石花等廿増特認四・其幣五色薄絢各六尺、倭文六尺、木綿、麻各二尺、葉薦一枚、作具鏝、斧、小斧各四具、鎌四張、刀子四枚、範二枚、火讃三枚、並壇濁、及潜女心曜造酒

とあって、天皇即位の大嘗祭には、阿波忌部と那賀郡の海女たちによって、いろいろの神饌が差し出されていたことが分かります。
 允恭紀に出てくる海人・男狭磯も那賀郡(長邑)の人で、『延喜式』でも那賀郡に海女の集団がいたことがわかるので、男狭磯の物語は那賀郡の海女集団によってつくられ伝承されたと研究者は考えているようです。
 そして、この海女集団は大嘗祭の神饌の献上を通して、阿波忌部とも密接な関係にあったようです。男狭磯の物語は、那賀の海女と阿波忌部氏の間に、伝承されてきた物語であるという仮説が出来そうです。
 阿波忌部は麻殖・名方・板野の三郡に分布していたといわれ、板野郡に男狭磯の墓と伝えられる古蹟があるのは自然です。それでは、この阿波忌部と那賀郡の海女の間で伝承された物語が、どのようにして中央に伝えられ、『日本書紀』に採録されるようになったのでしょうか。
 男狭磯の物語は書紀にあって、古事記にはありません。
そこで、『阿波国風土記』は720年以前に成立し、紀の編者はこれを見て書紀の中にとり入れたということも考えられます。そうすると『阿波国風土記』は、諸国の『風土記』の中でも、成立年代の早い方の一つであったことになります。

以上を時代順に並べると次のようになるようです。
①阿波には古くから那賀郡の海女の集団と忌部によって伝承される男狭磯の物語があった。
②この説話は板野郡の尼塚を中心にして伝承され、中世になって志度道場縁起の中にとり入れられた
③それが、さらに能「海人」や幸若舞にもとりいれられ、中世芸能として発展した
  
 以上をまとめておきましょう
①阿波の那賀郡には古くから、那賀の潜女とよばれる海女の集団がいて、男狭磯の物語を伝承していた
②この海女の集団は、大嘗祭の神饌を通して阿波忌部と密接な関係を持ち、そのため男狭磯の物語は忌部にも伝えられた
③それが板野郡に尼塚という伝承地となって伝えられるようになった
④この男狭磯の物語は、『阿波風土記』の中にとり入れられ、さらに『日本書紀』の中にとり入れられることになった。
⑤男狭磯の物語は、今は伝わっていない『阿波国風土記』の一つの物語であった可能性がある。
⑥中世になって阿波の男狭磯の物語が隣国の讃岐・志度寺の縁起の中にとり込まれた。
 それが志度道場縁起である
⑦志度道場縁起は、能にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となった。「海士」は世阿弥の頃からあった古曲であると云われます。中世には讃岐も阿波も管領となった細川氏の支配地でしたから、志度道場縁起が能にとり入れられる素地があったのかもしれません。このように、海人の玉取り伝説は、古代に遡る可能性のある古い物語のようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 海人の玉取伝説と志度寺縁起    ことひら
    -古代伝承の継受を中心に1