中世末期に長尾寺は、戦乱に巻き込まれて衰退したようです。
『補陀落山長尾寺略縁起』には
「寺の縁起・記録等、天正年中の比、国家の擾乱によりて、皆ことごとく焼失、諸堂と同じく灰焼となるに本尊は不思議に残った」
と記されます。天正年間(1573~92)に兵火のため諸堂は焼失したと、讃岐の有力寺院と同じような記述が見えます。 また『讃岐国名勝図会』には「文明年中兵火にかかり」とあるので、それ以前の文明年間(1469~87)にも焼失した可能性もあります。しかし詳しいことは分かりません。
近世になっての長尾寺の復興は、どのように進められたのでしょうか
讃岐の名所の和歌や社寺由緒等をまとめた延宝5年(1677)の「玉藻集」には、次のように記されます。
「(略)本尊観音、立像、長三尺弐寸。弘法大師作。亦阿弥陀の像を作り、傍に安置し給ふ。鎮守天照太神。むかしは堂舎雲水彩翠かゝやき、石柱竜蛇供せしか共、時遠く事去て、荒蕪蓼蓼として、香燭しはしは乏し。慶長のはじめとかや、国守生駒氏、名区の廃れるをおしみ再興あり」
ここからは、当時の境内が、かつての壮麗な伽藍の姿を失い、「時遠く事去て、荒蕪蓼蓼」とた寂しい状況だった様子が分かります。それを惜しんだ生駒家が再興したと云いますが、その具体的な内容は記されていません。
元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』に描かれた長尾寺の挿絵です。
真念らの情報をもとに高野山の僧寂本がまとめたもので、天下泰平の元禄時代を迎えて、長尾寺の伽藍が次第に整備されている様子が読み取れます。観音堂(本堂)以外にも、鎮守である天照大神を祀る社殿や、高野の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は復興しています。また入口には仁王門らしき建物も見えますし、長尾街道には門前町も形成されています。そして、観音院と呼ばれる庫裡も姿を見せています。
元禄2年(1689)の時点で、長尾寺がここまで復興していたようです。
長尾寺の復興推進の力になったのは何だったのでしょうか。
長尾寺の復興推進の力になったのは何だったのでしょうか。
讃岐の近世の復興は、天正15年(1587)に讃岐へ入部してきた生駒氏によって始められます。宗教的には、流行神の一つとして生み出された金比羅神を保護し、330石もの寄進を行い金毘羅大権現へ発展の道を開いたのも生駒氏です。讃岐の近世を幕開けたのは、生駒氏ともいえます。
玉藻集には、荒廃していた長尾寺に再興の手を差し伸べたのは生駒家2代目一正だったとあります。また『讃岐国名勝図会』も
「慶長年中 生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ」
と記します。ここからは、慶長年間に、長尾寺を初めとする札所寺院の復興が生駒氏によって始められていたことが分かります。
「慶長年中 生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ」
と記します。ここからは、慶長年間に、長尾寺を初めとする札所寺院の復興が生駒氏によって始められていたことが分かります。
これは、阿波や土佐に比べると讃岐は、札所復興のスタートが早かったようです。
それでは生駒時代に長尾寺の復興は、どのレベルまで進んだのでしょうか。
天下泰平になり復興が進み、中世の修験者や六十六部のようなプロの参拝者に替わって、アマチュアの「四国遍路」が段々増えてくる中で、承応2年(1653)に、四国辺路に訪れたのが澄禅です。彼の「四国遍路日記」には、長尾寺が次のように記されています。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺。八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ 七ケ所ナリ」
彼は、当代一流の学僧でもあり、文章も要点をきちんと掴んでいます。ここからは、次のような事が分かります。
①本堂は南向きで、本尊が聖観音、②寺の名前は長尾寺ではなく観音寺と呼ばれていたこと③国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観音と呼ばれていた。
②③から、この時にはこの寺は観音寺と呼ばれ観音信仰の拠点だったようです。東讃の札所霊場では、讃岐七観音が組織されていたことが分かります。
①では伽藍については、本堂のみです。その他のお堂については何も触れていません。澄禅は、その他の霊場のお堂については全て触れています。書いていないのは、本堂以外にお堂がなかったと推測できます。生駒藩によって再興されたのは、この時点では本堂だけだったとしておきましょう。
寛永17(1640)の生駒騒動によって生駒藩が取りつぶされた後、東讃岐に入ってきたのが水戸の松平氏です。
高松藩初代藩主の松平頼重は、独自の宗教戦略を持っていたようです。彼の宗教政策のいくつかを挙げてみると
①藩主松平家菩提樹である仏生山法然寺の創設と高位階化②金毘羅大権現の朱印地化と全国展開③京都の真宗興正寺との連携と興正寺派の寺領内での保護
ただ保護するだけではなく、彼の寄進保護の背後には政策的な狙い隠されていたように思われます。
寛文9年(1669)に、松平頼重が領内寺院の由来等を報告させた「御領分中寺々由来」には長尾寺は「讃州宝蔵院末寺」の真言宗寺院として
「正保年中、松平讃岐守頼重被再興之事」
と記されています。これが事実ならば、頼重は入封して間もない正保年中(1640年代)に長尾寺を再興したと記します。しかし、具体的にどの建築物を寄進したのかは触れていません。「玉藻集」等の史料でも、頼重の再興については何も記されません。「歴史的な裏」がなかなか取れず、本堂を再興したのは生駒氏か松平氏か判断する信憑性のある史料がないようです。「四国遍路日記」で見たように1653年段階では、長尾寺には本堂しかないとすると、松平頼重が再興した建物は何だったのでしょうか。考えられることは、次の通りです。
①本堂は生駒氏が再興した。②生駒騒動で建設途上になっていた本堂を、松平頼重が完成させた。
私は、入国直後のこの時点では松平頼重が長尾寺を保護する理由がなかったとおもいます。長尾寺の優先順位は、低かったはずです。長尾寺が松平頼重の視野の中に入ってくるのは、もう少し後だったのでは内でしょうか。
『改訂 長尾町史(下巻)』には、天和3年(1683)から貞享2年(1685)にかけて、傷んでいた本堂の茅葺き屋根を修復したと記します。茅葺き屋根なら何年かに一度は、やり替えないといけません。これを修復というのでしょうか。どちらにしろ時期や内容、規模等は分からないにしても、1680年代には松平家の保護を受けるようになり、何らかの修理等が引き続いて行われたことはうかがえます。そこには、なんらかの思惑が松平頼重にはあったはずです。
それに続く記録は、貞享4年(1687)、真念が四国を歩いて書いた「四国辺路道指南」です。そこには長尾寺は、次のように短く記されています。
「平地、南むき。寒川郡なが尾(長尾)村。本尊正観音 立三尺六寸、大師御作」
ここには伽藍の様子は、ほとんど書かれていません。そして、最初に見た『四国偏礼霊場記』元禄2年(1689)ということになります。
松平頼重は長尾寺を天和3年(1683)に、真言宗から天台宗に改宗させて実相院門跡の末寺にしています。
それは長尾東村の本寺極楽寺の支配を離れるということです。中世から近世当初には「観音寺」と呼ばれ観音信仰の拠点であったこの寺は、この「改宗」を契機に「長尾寺」と名を改め、長尾村の有力寺院・長尾寺として本寺から自立し独自の道を歩み始めることになります。松平頼重によって、同じく真宗から天台宗に改修させられて札所寺院には根来寺があります。根来寺の改修にも松平頼重の思惑があったことは、以前にお話しした通りです。つまり、根来寺とともに長尾寺を天台宗に改宗し、高松藩における天台寺の拠点とする宗教方針が明確になってきたのでしょう。それは真言勢力への「牽制勢力養成」という戦略的な意図があったと私は考えています。
それは長尾東村の本寺極楽寺の支配を離れるということです。中世から近世当初には「観音寺」と呼ばれ観音信仰の拠点であったこの寺は、この「改宗」を契機に「長尾寺」と名を改め、長尾村の有力寺院・長尾寺として本寺から自立し独自の道を歩み始めることになります。松平頼重によって、同じく真宗から天台宗に改修させられて札所寺院には根来寺があります。根来寺の改修にも松平頼重の思惑があったことは、以前にお話しした通りです。つまり、根来寺とともに長尾寺を天台宗に改宗し、高松藩における天台寺の拠点とする宗教方針が明確になってきたのでしょう。それは真言勢力への「牽制勢力養成」という戦略的な意図があったと私は考えています。
天台宗に替わった天和3年頃には、それまで茅葺であった本堂を瓦葺きにする修復が進められたようで、貞事2年(1685)に落慶した記録があります。同時にお堂なども建立され始めたようです。それが四国偏礼霊場記に記されているようです
『四国偏礼霊場記』に描かれているのは、元禄期の造営が行われる以前の長尾寺の姿なのです。
松平頼重の長尾寺伽藍整備は、天台宗に改宗し長尾寺と「改名」してからがスタートでした。
松平頼重の長尾寺伽藍整備は、天台宗に改宗し長尾寺と「改名」してからがスタートでした。
長尾西村の庄屋であった蓮井家に伝わる「蓮井家文書」に次のような記事があります。元禄7(1694)
4月 観音堂(本堂)の普請が始まり、6月 棟上げ、8月「観音堂」「二王門」「阿弥陀堂」の普請終わり
と、本堂をはじめ仁王門と阿弥陀堂が同時進行で建てられていたことが分かります。これは「長尾寺略縁起」が「今の堂、二王門等は頼重建立で元禄7年に造営した」という記述と一致します。
松平頼重が本尊の前立像として寄進した聖観音立像
また元禄6年に松平頼重が本尊の前立像として聖観音立像(彫刻3)を寄進していることとも時期的に矛盾しません。こういうやり方は、金毘羅さんへの寄進や奉納と同じです。「短期間に集中して、しかも継続的」な寄進を行うのです。
松平頼重が本尊の前立像として寄進した聖観音立像
また元禄6年に松平頼重が本尊の前立像として聖観音立像(彫刻3)を寄進していることとも時期的に矛盾しません。こういうやり方は、金毘羅さんへの寄進や奉納と同じです。「短期間に集中して、しかも継続的」な寄進を行うのです。
長尾寺観音堂の再興棟札 元禄14年の年紀が見える
しかし、長尾寺が所蔵する観音堂と阿弥陀堂の再興棟札(棟札5・9)は、元禄14年(1701)9月のもので、2代藩主松平頼常の名が記されています。縁起は元禄9年、棟札は元禄14年となり、両者の普請時期は一致しません。
考えられるのは、つぎのようなことでしょうか。
①頼重の後で、頼常の代に再び改築が行われたのか、②元禄7年で終わらず手を加えながら後年完成した
頼重は元禄8(1695)年4月に亡くなっていますので、そんな事情もあったのかもしれません。
なお、この時に阿弥陀堂は再建されることはありませんでした。
阿弥陀堂本尊だった阿弥陀如来
中世の高野山系の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は再建されることなく姿を消します。中世に勧進聖として活躍した彼らの痕跡は消されていきました。
仁王門については、この時に建てられたものが修理を経ながら今日に至っているようです。そうすると、境内では最も古い建築物となります。
阿弥陀堂本尊だった阿弥陀如来
中世の高野山系の念仏聖の拠点であった阿弥陀堂は再建されることなく姿を消します。中世に勧進聖として活躍した彼らの痕跡は消されていきました。
仁王門については、この時に建てられたものが修理を経ながら今日に至っているようです。そうすると、境内では最も古い建築物となります。
元禄期(1688~1704)の松平頼重や頼常が進められた境内整備状況を年表化しておきましょう
元禄2年 頼常が長尾寺に殺生禁断の制札を与える、元禄6年 寺領5石寄進。頼重は前立像にあたる聖観音立像を寄進元禄7年 本堂・阿弥陀堂・仁王門・御成門再建。本堂内陣の厨子はこの本堂再建時のものと伝え、戸張に
「三ッ葉葵」の紋が施されている元禄14年 本堂及び阿弥陀堂が再建され、棟上げが行われた元禄期 釣鐘が当地の有志木戸広品によって造られた宝永7年(1710) 鎮守・天満宮の創建され(棟札10)、享保3年(1718)、元禄年間の釣鐘が壊れたので、本戸伊通が一族で釣鐘を新造享保年間初頭 護摩堂が「再建」
天台宗の拠点寺院にふさわしい伽藍造りが目指されたと私は考えています。仏生山の法然寺とある意味同じような宗教的・政治的威信が求められたのでしょう。元禄期に藩主によって進められた改修を受けて、その後は地域の人々の手によって境内整備等が行われたようです。
これを進めたのが当事の長尾寺住職・了意だったようです。
彼は元文4年(1739)に逝去し、その墓が住職墓域にありますが、こらが長尾寺に残る墓では一番古いようです。長尾寺の住持は隠居や逝去するまでその任を務めることよりも「栄転」することの方が多かったようです。その栄転先は、鶴林寺や金倉寺、実相院門跡など他の天台宗寺院だったようです。ある意味、長尾寺がそれらの転住先の寺院に次ぐ位置にあったことが分かります。ここからも新たに天台宗の有力寺院を作り出すという松平頼重の意図がうかがえます。
阿弥陀如来像
このような状況を伝えるのが、寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」です。本文には
「本堂本尊聖観世音立像〈御長三尺二寸、大師の御作〉、大師堂(本堂の裏に在〉、天神社(大師の前に在〉」
①境内北側中央にある宝形造の堂字が本堂、②右奥のやや小ぶりな建物が大師堂③本堂左横の入母屋造の堂字が護摩堂④大師堂の前方、境内右端奥にあるのが天満宮で、⑤その手前が宝筐印塔⑥仁王門は街道からやや奥に建ち、門前には2基の経幢⑦仁王門前には、境内南端に沿って水路をまたぐ橋⑧仁王門を入って左の建物は茶堂の可能性⑨その奥には格子のある小さな建物が見えるが不明⑩左奥には茅葺屋根の下方を瓦葺にした客殿・庫裏⑪客殿の土塀に設けられた二つの間のうち護摩堂側は御成門⑫門前には藁葺きの家屋が並ぶ門前町があり、遍路者や街道を通る人々のための宿等が営まれている。
この絵を見て気づくことは
A 現在の境内の中心的な建物であるる本堂、大師堂、護摩
堂の三棟が、この頃には整えられていたことB 今の境内から比べると大師堂がかなり後方にあったことC 阿弥陀堂が消え、代わりに鐘楼が描かれていること。
長尾寺の阿弥陀堂の本尊だった阿弥陀仏坐像
(3)19世紀前半頃の長尾寺
幕末から明治初期にかけて全国を遊歴した松浦武四郎は、天保7年(1836)に四国八十八ヶ所を参拝し、弘化元年(1844)に「四国遍路道由雑誌」としてまとめています。そこには長尾寺については、次のように記されています。
「(略)長尾村ニ至る。少しの町家、二王門並びに茶堂等有。八十七番補陀落山観音院長尾寺、従八十六番萱り、在道斗也。此寺は聖徳太子之開基なりと云博ふ。其後大師再興し給ひしとかや。本尊は御長三尺六寸。正観音。聖徳太子之御作なりとかや。境内大師堂=鎮守之社有。」
ここからは門前に「少しの町家」が並び、「二王門」や「茶堂等」のほか「大師堂」「鎮守社」があったことがわかります。さして初めて「茶堂」が明記されています。「二王門並二茶堂等」という記述から、仁王門近くに建っていたとがうかがえます。
遍路者等の供養記録「他檀家過去帳」にも「茶堂」のことが記されています。
遍路の息絶えた場所では「二王門」に次いで「茶堂」が多いようです。また、安政7年に没した金沢出身の「鏡心法師」よいう人物は、「当山茶堂居三年」とあり、茶堂で3年居住した後に亡くなっています。遍路としてやってきて、その後に参拝者への接待の場である「茶堂」の管理人を務めていたのかもしれません。
この頃の景観を描いたのが、嘉永7年(1854)刊行の『讃岐国名勝図会』です。
本文では境内については、次のように記します。
「本尊聖観音〈行基大士作)、大師堂、護摩堂、○鎮守社(天満宮)」、
「寺記曰く、当寺は天平十一年行基菩薩草創なり。天長二年この国の刺吏良峰安世諸堂を修造して、地名によりて今の寺号に改む。文明年中兵火にかかり、慶長年中生駒一正朝臣堂宇再興なしたまひ、天和年中国祖君源英公(松平頼重)この寺をもって国中七観音の一とす。その余、国分寺。白峰寺・根香寺・屋島寺・八栗寺・志度寺これなり。寺領を賜ひ度々御修造なしたまふ」
とあります。
①境内の中央奥に「本堂」が南面して建ち②右横に「大師堂」③左横に「護摩堂」④かつては奥まったところにあった大師堂が、本堂に並ぶ位置に出てきています
各堂の配置は、今と同じになりました。しかし、詳しく見ると
「本堂には千鳥破風がなく、大師堂と護摩堂も入母屋造であるなど、建物の姿は現在と異なる」
と研究者は指摘します。現存の本堂は、『讃岐国名勝図会』刊行と同じ年に再建されているので、描かれているのはそれ以前の姿のようです。

長尾寺大師堂
拡大すると境内の東端、大師堂の前方には台座に並ぶ3つの仏像らしきものが見えます。これが現在大師堂横にある石造の三世仏のようです。石仏の下方に手水舎が描かれ、右横の現薬師堂が建つ近辺には小さな建物が見えます。これが何なのかは分かりません。その横には「鐘楼」が建ち、長尾街道沿いの境内南端の土塀は、現在のように鈎型に窪んでいません。仁王門に真っ直ぐ連なるように描かれています。
門前には、2基の経幢と、水路にかかる橋が見えます。仁王門を入って左の建物は、先ほどの史料から茶堂でしょう。
境内奥を見ると、本堂と護摩堂、さらに左の「納経所」まで貫くように渡り廊下が真っ直ぐに続いています。納経所横の二層の建物には「鼓楼」とあり、隣接する「方丈」の土塀の角に建っていたようです。しかし、この絵図の他には、その存在を示す史料等はないようです。



方丈の土塀には御成門があり、その奥に庭を画する塀の一部が見える。御成門の手前に見える本殿と拝殿、鳥居の上には「鎮守」と記されいます。ここから18世紀には、境内の東側にあった鎮守社(天照大神)が、現在と同じ西側に移されたことが分かります。
さらに、鎮守社は本堂等のある境内との間を南北に延びる土塀で画され、境内中心部の外に位置するような配置となっています。現在はこの上塀がなくなり、鎮守堂を西端に配置することで、境内中央に広い空間が生まれました。大きな宗教的イヴェントを行うための空間が確保できたことになります。納経所や鼓楼、茶堂などは今はなくなっていますが、今から200年前には、主要な建造物が今日とほぼ同じ位置にあったことが分かります。
また、境内南の長尾街道を見ると、参詣者だけでなく往来する多くの人々の姿が描かれています。街道の賑わいと、そこに面して立地する長尾寺の「都市の寺院」としての性格を伝えているようです。
長尾寺 毘沙門天
19世紀後半頃の長尾寺
幕末のペリー来航の翌年嘉永7年(1854)9月に、本堂(観音堂)が再建されます。ところが、2ヶ月後の11月に安政の大地震が発生し、「鐘楼・客殿・釣屋・長屋・大師堂」などが大破します。すぐに修造が行われますが鐘楼は再建されずに、鐘は仁王門に吊されたと伝えられます。


長尾寺本堂
地震後の復興の様子を年表化してみましょう。
安政2年(1855) 天満宮拝殿の修理。灯籠(境内石造物8)が建立延元年(1860) 天満官の鳥居(境内石造物22)建立文久3年(1863) 灯籠一対(境内石造物7)が奉納明治元年(1868) 10月、護摩堂が再建。露盤宝珠は11代藩主松平頼聰寄進。これは藩主が藩知事となる前年のことで、高松藩主として長尾寺に遺した最後の足跡になる明治33年(1900) 天神社(「天満自在天社」)再建の上棟明治36年 天神社の「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」が完成
「青銅臥牛梅形手洗鉢」と「三角形水屋」は、菅原道真の没後一千年大祭紀念のため調えられた奉納物で、手洗鉢は高松工芸学校長であった黒木安雄の図案だったようですが、今は不明となっているようです。三角形水屋は、長尾寺客殿の中庭に今も遺されています。
明治維新後の長尾寺にとって大きな事件は、明治15(1882)に郡役所が長尾寺に置かれたことです。
長尾史に掲載されている当時の部役所職員の写真を見ると、御成門を背景に撮影され、門柱に看板らしきものも見えるようです。ここから御成門とその奥の客殿が仮庁舎として使用されたことがうかがえます。庁舎としての使用期間は、明治15年(1882)から大正6年(1917)に郡役所庁舎が新築され移転するまで30年以上続いたようです。
今から110年ほど前の写真になります。本堂と護摩堂は現在と同じ再建後の姿で、本堂前の線香立(境内石造物17)や、雨受一対(境内石造物20)も見えるようです。本堂前の一対の灯籠は、文久3年銘灯籠(境内石造物7)のようですが、現在はこの場所にはありません。注目したいのは、燈籠の手前にある2つの石造物です。
これは、前回に紹介したの経幢のようです。近世には仁王門前にありましたが、明治には本堂前に移されていたようです。「改訂 長尾町史1上巻)』には、
これは、前回に紹介したの経幢のようです。近世には仁王門前にありましたが、明治には本堂前に移されていたようです。「改訂 長尾町史1上巻)』には、
「明治26年(1893)に門内に移し、同45年(1912)に元の位置に戻した」
と記されています。経幢が本堂前にあった時の姿をを記録した貴重な写真かもしれません。
境内全体が写されていないのでよく分かりませんが、本堂、護摩堂、大師堂をつなぐ渡り廊下は、現在のものとは形が違うようです。また、地面を見ると参道の石敷がなく、本堂前には今よりも多くの松の木が生えていたことが分かります。
20世紀以降の長尾寺
20世紀になると、境内の造営のことが「[過]去霊簿」に次のように記されています
「参道敷石仁工門筋塀墓地移転 大仏(注:師ヵ)堂再建」
棟札からも
明治44年(1911) 筋塀18間の新造(棟札13)大正2年(1913) 栗林公園の北の「雌ノロ御門」を、払い下げを受け、移築して新たに東門設置大正7年(1918) 郡役所が境内から転出大正10年(1921) 大師堂上棟と完成
郡役所の転出を受けて大師堂再建をはじめ、改めて境内全体の整備が行われたようです。
当時の写真が、大正10年(1921)発行の『四国人十八ヶ所写真帖 完』にあります
本堂右横に僅かに見える大師堂の屋根形状から、大師堂専建以前に撮影されたと研究者は指摘します。画面中央にあるのは安政2年(1855)奉納の灯籠(境内石造物8)で、今はやや東側に移されています。地面を見ると、仁王門の方向から玉堂、大師堂をつなぐように参道が敷石で敷かれているのが分かります。参道整備に伴って、灯籠などの移動が行われたようです。
この後、大正15年に現在の太子堂が完成します。
そして、渡り廊下で本堂と結ばれていきます。こうしてみると長尾寺の現在の姿は、約百年前に整えられたものであることが分かります。その間に何度かの大修理を重ねているのはもちろんですが・・
そして、渡り廊下で本堂と結ばれていきます。こうしてみると長尾寺の現在の姿は、約百年前に整えられたものであることが分かります。その間に何度かの大修理を重ねているのはもちろんですが・・
長尾寺 旧護摩堂本尊の不動明王
以上をまとめておきます
①境内出土の古瓦から、奈良時代には仏堂があったと考えられる
②縁起によれば天正年中に境内諸堂を焼失し、17世紀前半に生駒家により再興されたという。
③『四国偏礼霊場記』からは、17世紀後半には現在と同じ場所に境内があり、南向きの本堂のほか、観音院(客殿等)や街道に開かれた仁王門が建ち、町家が並ぶ門前の街道に茶屋などがあった
④阿弥陀堂など失われたものもあるが、境内の立地や建物構成は現在と同じで、遍路道も確認できる。
⑤元禄期に松平家による造営等により諸堂が整えられた
⑥寛政12年(1800年)の「四国遍礼名所図会」には、中心となる本堂、大師堂、護摩堂と思われる三棟の堂宇が建ち、仁王門や客殿、御成門なども現在とほぼ同じ場に描かれている。
⑦19世紀前半には、大師堂・本堂・護摩堂が横一列に並ぶレイアウトとになり、鎮守社も境内西側に移され、祭礼空間として広いスペースが生み出された。
⑧幕末に本堂が再建されたが、地震で複数の建造物が大破したが、鐘楼など一部を除いて復旧した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年
関連記事
関連記事
コメント