仁王門から真っ直ぐに本堂に近づいていくと違和感を持つのは屋根の形です。天守閣に見られる入母屋の千鳥破風が正面に出ています。それを下の唐破風が受け止めている印象です。なぜわざわざこんな荘厳(デザイン)にしたのだろうかという疑問がわいてきます。その疑問を抱きながら調査報告書で本堂の項目を読んでいきます。本堂については次のように記されます。
[柱間装置]
正面中央間は諸折の桟唐戸、正面両脇間と両側面第1間。第2間は横舞良戸を引違とし室内側に明り障子1枚が立つ。その他各間は白壁とする。内部の内外陣境は透かし格子戸引違。
[床 組]
切石の束石に床束立ち、大引に根太組。外陣は板敷、内陣は板敷で手前側に畳3枚を敷く。脇陣は各々9畳の畳敷とする。
本堂の歴史について見ておきましょう。
①8世紀後半の瓦が出土しているので周辺有力豪族の氏寺として、建立された。②中世の本堂は不明だが戦国時代末期に本堂以外は兵火により灰焼に帰したと伝える。③江戸時代に入り、生駒氏によって再興されたと伝わる④初代高松藩主松平頼重が天和3年(1683)11月、真言宗から天台宗への改修を命じ、以後伽藍の整備が集中的に進められた。
松平頼重によって改修された本堂については、蓮井家文書(156-201「覚」)に記述があるようです。
それによると、元禄7年初頭、「長尾寺観音堂御再興奉行」に郡奉行矢野孫八郎組の永井孫吉が命じられています。
4月6日には「観音堂御普請、大工頭領多兵衛・甚左衛門てうな始」とあります。この日から観音堂の普請が始まったようです。
2ヶ月後の6月6日には「観音新堂棟上ヶ」とあり、6月初旬には棟上げが行われています。さらに、
4月6日には「観音堂御普請、大工頭領多兵衛・甚左衛門てうな始」とあります。この日から観音堂の普請が始まったようです。
2ヶ月後の6月6日には「観音新堂棟上ヶ」とあり、6月初旬には棟上げが行われています。さらに、
「八月十三日迄二観音本堂・二王(仁王)堂・阿ミた(阿弥陀)堂迄普請相済、同日より長尾寺寺(ママ)諸材木てうな始」
しかし、長尾寺に残る観音堂(本堂)や阿弥陀堂再興の棟札(棟札5・9)の年代は、元禄14年(1701)9月18日です。蓮井家文書の記録とは一致しません。
普請が終わった後も手が加えられ、元禄14年になって落成したと研究者は考えているようです。このときの本堂(観音堂)の大きさは棟札(棟札5・8)から三間半四方の規模だったことが分かります。
松平頼重によって建立された本堂は、幕末の嘉永7年(1854)には拡張され「五間半四面」で建て直されています。それが現在の本堂です。幕末にはそれだけの「需要」があり大型化が必要とされたようです。その背景は何だったのでしょうか。それは後で考えることにして、幕末に大型化し再建されたことを押さえておきます。建設後百年以上経った昭和35年(1960)と平成19年(2007)に、屋根の雨懸り部材や、内部の建具などの改修が行われたようです。このように長尾寺の本堂は、棟札や記録等から近世以降の沿革がはっきりしていて貴重です。
専門家の本堂の評価を聞いてみましょう。
「来迎柱が本屋背面柱筋まで後退し、内陣脇陣境が開放的な平面形式に特徴があるほか、向拝をはじめ各所に用いられた彫刻の豊かさも特筆される。また、千鳥破風の桟唐戸の構えは、年に一回、一月七日に行われる大会陽(だいえよう)の際に開かれ、その前に櫓を組んで住職が宝木を投下する(現在は餅を撒く)ために使われるもので、当堂における最大の特徴といえる。入母屋屋根の垂木は、向拝部の平行垂本を除き、すべて扇垂木として雄大な外観を呈する。妻飾り、二重虹梁など、新材に補修の痕跡が認められるものの、江戸時代末の大型三間堂として貴重である。」
ここからは、「千鳥破風の桟唐戸の構え」が大会陽の時に、住職が宝木を投下するための舞台に変身することが分かります。確かにこの本堂を見ながら変わっているなあと思っていたのですが、宗教イヴェントの晴れ舞台になるのです。
大祭や開帳などの宗教イヴェントが大衆化し、19世紀になって大型化するといままでにないような参拝者が集まるようになります。そのため大衆的な人気や祭礼イヴェントを持つ寺院では本堂が大型化していきます。金比羅さんの金堂(現旭社)や善通寺の誕生院の本堂が大型化するのもこの時期です。同時に、本堂前の空間をできるだけ広く取るようなレイアウトが伽藍配置にされるようになります。これもそこで繰り広げられるイヴェントを意識したもののようです。
長尾寺でも大会陽のための本堂が幕末に登場し、それが現在まで大切に維持されてきたようです。長尾地区だけでなく周辺のイヴェントセンターの場としての役割を求められ、それに応えるための宗教空間が出現したとしておきましょう。そして、その公的役割を果たしていたからこそ、明治に30年間も仮郡庁として機能を果たしたのででしょう。
長尾寺でも大会陽のための本堂が幕末に登場し、それが現在まで大切に維持されてきたようです。長尾地区だけでなく周辺のイヴェントセンターの場としての役割を求められ、それに応えるための宗教空間が出現したとしておきましょう。そして、その公的役割を果たしていたからこそ、明治に30年間も仮郡庁として機能を果たしたのででしょう。
それでは、「大会陽」とは何なのでしょうか?
この行事を今でも行っているのは、岡山県西大寺です。昔は、長尾寺と西大寺は会陽の音が響きあっていると云われたようです。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、その響き聞いた人には幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記には書いてあるようです。海を挟んで志度寺に伝わっていたものを、長尾寺が継承していたと研究者は考えているようです。
西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。


西大寺の寛政9年の牛玉宝木(神木)
所によっては、1つの寶木を割って『陰』『陽』の2本にわかれるようにしたところもあるようです。その場合は福男は2人出ることになります。これに香を塗り込み、牛玉宝印(ごおうほういん)で包みます。包み方はそれぞれの寺、神社で異なるようで、何重にも包んだり、お札や小枝とともに包んだりしたようです。

この上に牛玉宝印を何枚も糊で貼って離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込みます。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。時には、割れずに一人が手中にすると、モロシソギといって二倍の賞品がもらえたようです。

この神木の中にある牛王宝印とは、神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のことです。神社では牛王神符ということもあります。略して牛王(ごおう)・牛玉とも書かれて、中世文書には良く登場してきます。もともとはカラス文字とも呼ばれ、熊野神社で用いられていたもののようです。それが熊野行者の全国展開と共に各地の神社仏閣に広がっていきました。
そして牛王宝印は、厄除けのお札としてだけでなく、その裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われるようになります。牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされました。

牛王宝印を熊野ではカラス文字を使ってデザインしています。
ひとつひとつの文字が数羽のカラス(と宝珠)で表されているのです。そのため、熊野の牛王宝印は俗に「おカラスさん」とも呼ばれます。
ひとつひとつの文字が数羽のカラス(と宝珠)で表されているのです。そのため、熊野の牛王宝印は俗に「おカラスさん」とも呼ばれます。
牛王宝印のカラスの数は増減しますが、現在の牛王では、本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽のカラス文字で五つの文字が表わされています(右の写真は本宮の牛王宝印)。
本宮の烏の数が88羽なのと、中世の熊野行者が四国辺路の原型を形作ったとされることから「四国88ヶ寺」の88もここから来ているのではないかという新説も最近は出されています。


牛王のなかで最も神聖視されていたのは熊野の牛王でした。
とくに武将の盟約には必ずといっていいほど、熊野牛王が使われいます。『吾妻鏡』には、源義経が兄・頼朝に自らの誠実を示すための誓約文を熊野牛王に書いたことが記されています。熊野の神への誓約を破ると、熊野の神のお使いであるカラスが三羽亡くなり、誓約を破った本人は血を吐いて地獄に堕ちるとされていました。
また、熊野牛王を焼いて灰にして水で飲むという誓約の仕方もありました。熊野牛王を焼くと熊野の社にいるカラスが焼いた数だけ死ぬといわれます。その罰が誓約を破った人に当たって即座に血を吐くと信じられ、血を吐くのが恐くて、牛王を飲ますぞといわれると、心にやましいものがある者はたいがい飲む以前に自白をしたと云います。元禄赤穂事件では、赤穂浪士が討ち入り前の連判状に熊野牛王を使ったようです。
このように熊野牛王は誓約に用いられた他にも、家の中や玄関に貼れば、盗難除けや厄除け、家内安全のお札にも霊験あらたかとされました。こうしてこのカラス文字で書かれた札自体が信仰の対象となっていきます。仏前でみんなで奪い合うのにふさわしいお札だったようです。
同時に、ここには熊野信仰と熊野行者の活動がうかがえることに注意しておきたいと思います。志度寺には熊野行者の影響も多かったようです。そして、志度寺を通じて長尾寺にもその影響は及んでいたことがうかがえます。
長尾寺の絵巻物で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、神木だけでなく串牛玉をたくさん上から投げています。そうすると、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。当事の人たちにとって牛王宝印というのは本尊さんの分霊と考えられていたようです。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださる、そんな思いで参加していたようです。
餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。
撒かなくても手渡しでいいのではないかと思うのですが、それでは「福」は来ないのだそうです。投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神のようです。
どうして会陽とよぶのでしょうか。
それも西大寺を見れば分かります。西大寺の場合はシソギ(宝木・神木)を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと伝えます。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことだと民俗学者は云います。立ち会いの前に、力士が鉄砲を踏むのと同じのようです。起源は相撲と同じようです。
四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みを「ダダ」と呼ぶそうです。東大寺のお水取には「ダッタソ」があります。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となるようです。
以上をまとめておくと
①古くから寺社では神木を奪い合う行事が行われていた
②その際に悪魔払いに「エイヨウ」とうかけ声と共に地面を踏んだ。
③これが漢字表記されて「会陽」となった。
④この行事は、熊野行者の瀬戸内海進出とともに、各地の神社仏閣に広げられた。
⑤その際に、熊野行者は神木に「牛玉宝印(ごおうほういん)」を入れて、熊野信仰とリンクさせた。
⑥会陽は西大寺や善通寺・長尾寺には近世には伝わり、大イヴェントになった。
⑦この行事を行うためには大きな空間が必要なため伽藍の再レイアウトが求められるようになった。
⑧長尾寺では、護摩堂・本堂・大師堂を一直線にして、会陽の展開スペースを確保した
⑨同時に、幕末に本堂を大型化する際に、宝木を投げるための舞台装置として千鳥破風妻造りの屋根が登場した。この前に櫓が組まれ、そこから宝木が投げられるようになった。
⑩長尾寺の本堂は会陽の会場として、地域のシンボルタワーの役割も果たすようになる。
⑪また長尾寺は長尾街道と志度・大窪街道の交差する要衝にあるため、明治には郡役場が30年近くに渡って置かれた。
長尾寺は、四国霊場の札所であると同時に、地域の文化センターや祭礼センターとしても機能してきた歴史を持つようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年
コメント
コメント一覧 (3)
長尾寺会陽の調査のために訪問しましたが、シンギの写真撮影はできませんでした。
平成20年に岡山県立図書館の依頼により講演しました。
西大寺観音院会陽の起源は、密教の楊枝加持です。
ですから語源は、供養会です。
漢文として読んでください。会養です。
岡山民俗学会で平成22年に発表しました。
指導をうけていたのは、稲谷裕宣先生です。若い時から高野山三羽烏と言われた先生です。
お暇なときに、ご訪問ください。
会陽を密教の秘儀と考えて調査しました。
参考文献は、密教大辞典です。
http://kiwarabi.html.xdomain.jp/eyounokigen.pdf
『会陽の起源への挑戦』
2008/02/13 ... 陽の習俗』総合調査報告書に参考文献として、私の2つの. HPが採用されました。 ① 『会陽って何だろう』 デジタル岡山大百科. ② 『宝木伝説』. Page 3 ...
tono202
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