瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

調査書に載せられている仏達を見ていくことにします。
近世に伽藍復興の際のお堂再建の順番は、
A観音堂(本堂)→ B阿弥陀堂 → C護摩堂 → D大師堂

のようです。それぞれのお堂を成り立ちを考えると
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点として
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立されもの。
   各お堂の成り立ちを見ても、熊野行者と高野山の念仏系聖たちの果たした役割は大きかったことが分かります。近世に再建された宗教施設は、この寺の宗教的重層性を反映したものなのでしょう。それでは、それぞれのお堂に、どんな仏達が安置されていたのか見ていくことにしましょう。

本堂に安置されている本尊・聖観音立像は秘仏
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。その観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。秘仏とされる聖観音の制作者とされる人たちを見ておきましょう。
聖徳太子(「御領分中寺々由来」)
行基(「補陀落山長尾寺略縁起」)
弘法大師(『四国辺路道指南』、『四国遍礼霊場記』)
など諸説あるようです。創建の由来と同じく分からないということのようです。ただ、近世まで長尾寺の本山だった宝蔵院の記録「古暦記」には、文永元年(1264)と永仁6年(1298)に開帳されたという記録はあるようです。また、天正年中に諸堂が焼失した際も本尊だけは遺されたこと(前出「略縁起」)などが伝えられています。
 過去に撮影された写真もあり、そこからは右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像であるようで、香川県教育委員会が実施した調査では、檜材寄木造、平安時代の作と報告されています。(『文化財地区別総合調査報告 第一集_香川県教育委員会、1972年)。
  しかし、これ以上は分かりません。

長尾寺 聖観音立像

秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風です。しかし、研究者は次のように指摘します。
 「窮屈そうな上半身や動きの少ない下半身、直線的な側面観や簡略化された背面の作風から、台座裏の墨書銘にみえる元禄6年(1693)正月頃の作とみて大過ないであろう。作者は地方仏師と思われる。」

台座裏に墨書名があるようです。見てみましょう。
長尾寺 聖観音墨書

奉寄進 元禄六
聖観音正月一八日 源英
讃岐高松藩初代藩主松平頼重の号は「龍雲軒源英」ですので、松平頼重によって寄進されたことが分かります。前々回にお話ししましたように、松平頼重はこの寺を天台宗の拠点寺院に仕立てていくために、元禄期に本堂や仁王門などを寄進しています。新しくなった本堂へ秘仏の前立像として寄進したのがこの観音さまだったようです。
松平頼重が保護した天台宗の寺としては、金倉寺と根来寺があります。
根来寺には、彼が京都の仏師に発注して造らせた見事な四天王像があります。もともとは、彼の隠居屋敷の護摩堂用のものだったのが、後に根来寺に移されたもののようです。このような仏像発注を見ても、松平頼重には宗教的なブレーンがいたことがうかがえます。思いつきや一時的な宗教心で行っているものではないようです。
 自分が日常的に祈る四天王は京都の仏師へ発注し、長尾寺の前立・世観音像は地方仏師というような「格差」も興味深いものがあります。
長尾寺 阿弥陀如来坐像11
 阿弥陀如来坐像

 最初に見たとき「ニッコリと微笑んでいるお地蔵さんみたいな阿弥陀さま」という印象でした。材質は何なの?という疑問も涌いてきました。報告書を見てみましょう
「肩上から顔面および背面上部は銅造で、頭部前面の地髪・肉醤部、体部および後頭部は鉄造。印相は阿弥陀定印(上品上生印)とみられる。鋳型は頭部の耳後ろから、体側部は両肘手に沿って膝に至る前後に分けて作られ、一鋳で造られているようにみえる(あるいは頭・体部別鋳かもしれない)。
また後頭部の形状からみて、元の肉醤部は現状より高かったように見える。背面から両肘にかけて鋳上がりの悪いところがあり、割れが入っている部分がみられる。」
つまり「肩から上は銅、躰と頭は鉄」でできているということのようです。銅と鉄との耐久性の問題もあるのでしょうが、銅で造られたお顔周辺部分はきちんと残っているが、躰の部分は腐食して錆落ちた状態のようです。しかし、それが「景色となり、味わい」を出しているようにも見えてきます。
 いつ頃のものなのでしょうか。調査書には、次のように記されています。
「頭部は大きな肉善や地髪に小粒の螺髪が整然と並んでいて平安時代後期の様式を示しているが、面貌表現には白鳳仏を想わせる微笑をたたえるなど違和感もみられるので、鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。体部は左胸から腹前にかかる平行線状の衣文線の表現や堂々とした側面観・背面観からみて平安時代後期の定朝様を踏襲した作と推定される。像底からみた形状にも安定感がある。

この仏像は
頭部の螺髪は平安時代後期
表情は白鳳仏の微笑み
体部は平安後期の定朝様
と時代が異なる要素が混じり込んでいるようです。そのために銅製の頭部は
「鉄造の体部とは同時に造られたのではなく、後世に体部に合わせて造られたのではなかろうか。」
と研究者は考えているようです。  整理すると
①白鳳時代に銅製で全体が造られた。
②その後、体部と頭部の螺髪が破損した
③それを平安後期に鉄製で補修した。
ということでしょうか。
  「ニッコリと微笑んでいる」という最初の印象は「白鳳仏の微笑み」からきているものだったようです。びっくりしました。
長尾寺 阿弥陀如来坐像

平安時代後期になると木彫仏が主流になりますが、それでも少数は木彫風の金銅仏が造られていたようです。それは飛鳥・奈良時代の様式と少しちがうものでした。また、鉄で造られた仏も、朝鮮半島の新羅では多く造られています。しかし、日本では少数派で鎌倉時代にわずかに造られているに過ぎないようです。そうした状況からすると本像も鎌倉時代に作られた可能性もでてきます。しかし、研究者は

「後頭部の立ち上がりや胸から腹に至る衣紋線、膝前の衣の処理などには平安時代の様式が認められるので、ここでは平安時代後期の造像とみておきたい。また、数少ない鉄造仏として注目したい」

と結論づけています。

 平安時代後期に修復されたこの阿弥陀さまを、長尾寺にもたらしたのはどんな人たちだったのでしょうか。
 中世のこの寺を考える場合には、志度寺を抜きにしては考えられません。志度は瀬戸内海の熊野水軍の寄港地として発展し、その港の管理センターとして志度寺が発展します。その管理は、熊野行者達が担うようになります。そして、熊野行者は補陀洛渡海の行場としての志度寺と山岳宗教の拠点となる女体山の大窪寺を「辺路」するようになります。
 さらに、室町時代になると高野山の念仏系聖たちがやってきて周辺農村部への勧進と布教活動を進めます。
彼らは次第に村々に迎えられ、そこに庵を結び定住していくようになります。長尾は志度寺のヒンターランドで、その寺域の中に入っていました。長尾寺は、そのような志度寺の子院のひとつとして生まれたと研究者は考えているようです。
 阿弥陀信仰や念仏信仰をもたらしたのは高野聖たちであり、彼らの登場が阿弥陀仏の出現と阿弥陀堂建立につながるというのが私の仮説です。長尾寺の本堂に安置される阿弥陀仏は、高野聖たちが熊野水軍の舟に載せられ志度までやってきて、それを陸路で長尾まで運んできたものと勝手に私は想像しています。
 近世になって長尾寺は真言宗から天台宗に改宗され、阿弥陀信仰は忘れ去られ、阿弥陀堂も再建されなくなります。そこに祀られていた阿弥陀さまも安住場所を失い、本堂に移ってきたものなのではないでしょうか。
長尾寺 不動明王
長尾寺の不動明王立像(本堂)

この不動さまを見たときの私の印象は「上半身と下半身が別物のよう・・・洗練されていない素人ぽい不動さま」でした。逆に見ると、専門の仏師の手によらない半素人の修験者が造ったのかも・・・と思えたりもしました。
専門家の評価を見てみましょう。
全体に大まかで荒々しい表現や太く頑丈な足柄およびその腐朽状況からみて15世紀頃の地方作と推定される。なお、台座裏に墨書銘(写真91)があり、享保3年(1718)に台座が新補されたことが分かるが、像自体は室町時代頃の作とみて良いと思われる。

室町時代の在地仏師の作品という評価のようです。江戸時代に造られて台座裏に墨書があるようです。見てみましょう
長尾寺 不動明王墨書銘

享保3年(1718)吉日 長尾観音寺不動
補堕落山観音院長尾寺
為春月妙香尼 秋月妙花尼 菩提也
施主 寒川郡石田村山王
   遠藤藤左衛門 為二世安全
この時点では、地元ではまだ「長尾観音寺」と呼ばれていたことが分かります。施主の石田村山王の遠藤藤左衛門が、「春月妙香尼と秋月妙花尼」の「菩提」のために寄進したとあります。
 長尾寺の「過去帳」(古文書古記録3-1)には、寒川郡石田村の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳4年(1714)3月20日に死去した「春月妙香信女」と、遠藤金左衛門家の先祖として、享保2年(1717)9月21日に死去した「秋月妙香信女」が記されているようです。台座の「春月妙香尼」「秋月妙香尼」はこの両名のようです。ここから、このお不動さまの台座は、「秋月妙香信女」が亡くなった翌年に供養のために寄進されたことが分かります。石田村山王は、山王権現周辺で現在の寒川支所の辺りになるようです。
 この時期は、松平頼重やその子達によって進められた「元禄期の長尾寺再建」により伽藍が一新した時期です。その後は鐘楼の鐘や各堂内の備品などが、地域の有力者の寄進によって整えられていく時期でもありました。そのような中での石田村山王の庄屋からの寄進のようです。不動さまは室町時代、その台座は江戸の享保年間のものということになります。
このお不動さまは、どこにいらっしゃったのでしょうか。
  いまは本堂にいらっしゃいますが、もともとは護摩堂に安置されていたのではないかと私は考えています。
長尾寺 黄不動

今、護摩堂に安置されているのは黄不動立像(写真99)のようです。
 黄不動立像とは円珍と関係のある仏で、比叡山や唐に渡る際に再三、身の危険を救われたとされます。文章博士・三善清行の『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』(902年)には、次のように記されます。
承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させた。

 黄不動は後世に模作されたものが、現在6つほどのこっているようです。そのひとつが長尾寺のこの像になります。ここからは、この像が真言宗から天台宗に改宗された後に、円珍由来の黄不動として造られたことがうかがえます。そして、今まで安置された護摩堂に、旧来の不動さまに替わって置かれたと私は考えています。そして旧来のお不動さまは、本堂に安置されるようになったのではないでしょうか。これも「観音寺から長尾寺」へのリニューアル策の一環であったのでしょう。

長尾寺 毘沙門天立像4
 昆沙門天立像

頭に宝冠を被り、右手に戟を持ち、左手は・・・今は何もありませんが宝塔を捧げ持っていたはずです。邪鬼ではなく地天女及び二鬼(尼藍婆、毘藍婆)の上に立つはずですが・・・???
 見るからに西域風の出で立ちです。兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)と呼ばれるとおり、兜跋国(現中国ウイグル自治区トルファン)出身のお方です。この方は、一人の時には毘沙門天と呼ばれますが、4人組ユニットの「四天王」のメンバーの時には、多聞天と呼ばれます。守備エリアは、北方です。
 この毘沙門天は、様式的には先ほど見た不動明王さまと共通点が多く、同じ仏師の手で同時期に造られたものではないかと研究者は考えているようです。
 なお、足下に踏みつけている邪鬼は、彩色は後に塗り直されていますが、当初の作とみられ、顔の表情や筋肉表現には見るべきものがあり、15世紀室町期の地方作と研究者は考えているようです。
長尾寺 毘沙門天台座墨書銘
  
  この台座裏にも上のような墨書銘があります
「享保三(1718)成天初冬吉日」
「右為真元円照 春花智清 各菩提也」
「寒川郡石田村山王 施主為二世安全 遠藤藤左衛門」
さきほどの不動明王の台座寄進者の「遠藤藤左衛門」と同じで、寄進日も字体も同じです。「過去帳」には、寒川郡石田村山王の遠藤伝次郎家の先祖に、正徳元(1711)年6月21日に死去した「真元円照信士」と、正徳6(1716)年3月9日に死去した「春花智清信尼」が記載されています。台座の「真元円照」「春花智清」は、この2人のようです。墨書銘から、享保3(1718)年初冬に遠藤藤左衛門が先祖の菩提供養のために、不動明王立像の台座とともに寄進したようです。

 ここで遠藤伝次郎が享保3年に寄進したのは台座だけなのか、それとも2つの仏像も一緒に寄進したのかという疑問が涌いてきます。不動さんと毘沙門天さんは、同時代・同一工房で造られた可能性を研究者は指摘していました。ここからは次のような2つのことが考えられます。
①不動明王と毘沙門天はセットで、従来から長尾寺に伝来していた。それに台座をそろえて寄進した
②享保3年に、2つの仏像と台座をそろえて遠藤氏が寄進した

報告者は、「松平頼重によって寄進された前立の聖観音立像の脇立としてセット」したと考えているようです。遠藤氏が室町時代の仏像に新たな台座をつけて寄進したということでしょう。しかし、これに対しては、私は違和感を感じます。先ほど述べたように、この寺の成り立ちとして修験者が守護神し、護摩堂にまつる不動明王が祀られていたはずだからです。新たに天台宗の黄不動明王を招いたとしても、従来ものを破棄するとは考えにくいのです。しかし、不動さまと毘沙門天はセットであったとすると、それまで毘沙門天はどこにいらっしゃたのかという疑問も涌いてきます。「今後の検討課題」ということにしておきましょう。
長尾寺吉祥天

最初の印象は「華やかな吉祥天 しかし、顔立ちは古風」という感じでした。近代に「加飾」(お色直し)されてされているようです。そのために身につけてものがモダンで近代風に見えます。しかし、頭のてっぺんなど見えない部分は加飾されず、木質部がそのまま露出しているようです。白髪染めがされていないようなものかもしれません。そこからみえる木質は、腐朽状況から近代のものではなく「相当の年月を経てきた」もののようです。
 そう言われて改めて全体を見てみると量感はふくよかです。
「側面観や大きな足柄など、平安時代の様式が看取される。」

と研究者は評価します。顔立ちが古風と感じたように、天平美人につながるものがあるような気がしてきます。近代のお化粧直しは、もとの彩色や木質部分を削り直して彩色が施されたようで、原型が分かりにくいようです。しかし、「平安時代の作であった可能性」を研究者は指摘します。
長尾寺 弥勒如来

 左手を与願印、右手を触地印とする珍しい印相の弥勒如来です。
この印相は日本ではほとんどなく、中国や朝鮮半島で如来の通印とされるものです。顔立ちがお茶目で、おもわず微笑んでしまいそうになります。指も長いです。研究者はこの仏を次のように評価します。

長い指の表現など様式から見て朝鮮半島・高麗時代の作、または中国の作とみられる。この印相の如来は韓半島でよくみられる。また韓半島では日本以上に弥勒信仰が盛んであった。
 朝鮮半島の高麗時代の作品と考えているようです。伝来の経緯は分かりませんが、秀吉の朝鮮侵略の際の「戦利品」というのが考えられます。

最後に大師堂の大師達を見ておきましょう
大師堂は、弘法大師信仰の広がりと共に、どこの霊場にも宗派に関係なく江戸時代注記頃から姿を見せるようになります。そこに安置されるのはもちろん弘法大師像です。しかし、ここは天台宗のお寺ですからどうなのでしょうか?どんな大師さんがいらっしゃるのでしょうか。長尾寺の大師堂には3人の大師がいらっしゃいます。
  
長尾寺 弘法大師座像

真ん中に弘法大師、
長尾寺 天台大師

向かって右側が天台大師
長尾寺 円珍坐像

左が卵頭がトレードマークの智証大師という並びになっています。
天台宗のお寺らしい大師堂という感じです。3つの大師像を見ると、同一仏師の作だということは一目で分かります。大師堂が作られた時に、都の仏師に同時に発注したもののようです。それは18世紀前半のことでしょう。それを示す墨書名はないようです。

お堂とそこに安置されている仏達を見てきました。それは長尾寺の成り立ちを考えることにもつながるようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 
四国八十八ケ所霊場第87番札所 長尾寺調査報告書 2018年

コメント

 コメント一覧 (2)

    • 2. イの国探検隊
    • 2021年09月27日 20:19
    • すごく興味深い調査、考察で惹きつけられます。
      妄想だらけの私のブログではありますが、誠に勝手ながら参考にさせていただきます。
      長尾寺、竹林上人、志度寺、多和神社・文庫、悲願寺、白鳥神社、ヤマトタケル。庚申塔、阿修羅像と摩利支天、ニ臂、など繋がりを妄想してブログを書いています。
      私的には、色々繋がり楽しくなっています。

      失礼しました。
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    • 1. イの国探検隊
    • 2021年09月27日 20:18
    • すごく興味深い調査、考察で惹きつけられます。
      妄想だらけの私のブログではありますが、誠に勝手ながら参考にさせていただきます。
      長尾寺、竹林上人、志度寺、多和神社・文庫、悲願寺、白鳥神社、ヤマトタケル。庚申塔、阿修羅像と摩利支天、ニ臂、など繋がりを妄想してブログを書いています。
      私的には、色々繋がり楽しくなっています。

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