山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。
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牛頭天王
さて、奈良時代のことです。
島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
どんがん岩というのもあります。どんがんは、大きな亀ということで泥亀が、この淵のヌシだとも伝わっています。洪水のとき、ごうごうと流れる水音にまじって、こんな声も聞こえてきます。「お―ん、お―ん」泣き声のようです。お―ん、お―ん、と、悲しそうな泣き声なのです。一体、誰が泣いているのでしょう。
北西に向かって流れてきた①綾川は、④シラガ淵で流れを東に変えて滝宮を経て、府中に流れ出しています。しかし「河川争奪」が行われて流路が変更されたのではないかと、研究者は考えているようです。
かつては綾川は堤山の北側を経て栗熊・富隈を経て、大束川に流れ込み、川津で海に流れ出していたというのです。そうだとすれば現在は小さな川となっている大束川も「大河」であったことになります。その痕跡がうかがえるのが堤山と国道32号の間に残された「渡池」跡だと研究者は考えています。渡池は、綾川から取水して、大束川水系に水を供給していました。その水利権を持っていたことになります。それが昔話では、次のように伝わっています。
「 滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。」
河川変更の土木工事を行った「犯人捜し」をしてみましょう。
その際に、真っ先に気になるのはかつての流路を見下ろすかのように造られている「快天山古墳」です。
![古墳商店 a Twitter: "【香川・快天山古墳】丸亀市にある古墳 時代前期の前方後円墳。全長98.8m。埋葬施設は後円部に3か所あり、すべて刳抜式割竹形石棺を有する。国内最古の割竹形石棺がある古墳。讃岐型と畿内型双方の前方後円墳築造様式の特徴がみられる。 https://t ...](https://pbs.twimg.com/media/CD19EhQUUAATydy.jpg)
そこに使われている石棺からは鷲の山産ですので、その辺りまでを支配エリアにしていたと首長と研究者は考えているようです。その王の統一モニュメントが、この前方後円墳でなかったのかというのがひとつの仮説です。
その際に、真っ先に気になるのはかつての流路を見下ろすかのように造られている「快天山古墳」です。
![古墳商店 a Twitter: "【香川・快天山古墳】丸亀市にある古墳 時代前期の前方後円墳。全長98.8m。埋葬施設は後円部に3か所あり、すべて刳抜式割竹形石棺を有する。国内最古の割竹形石棺がある古墳。讃岐型と畿内型双方の前方後円墳築造様式の特徴がみられる。 https://t ...](https://pbs.twimg.com/media/CD19EhQUUAATydy.jpg)
快天塚古墳
ここに眠る王は、大束川水系と綾川水系を統一した王のようです。そこに使われている石棺からは鷲の山産ですので、その辺りまでを支配エリアにしていたと首長と研究者は考えているようです。その王の統一モニュメントが、この前方後円墳でなかったのかというのがひとつの仮説です。
しらが淵周辺の古墳群
シラガ渕で流路が変更されることによって起こった変化を挙げると
①大束川水系の拠点は川津遺跡で郡衛性格も古代にはあったが、大束川の河口で洪水の危機に悩まされていた。②そこで綾川流れを羽床のシラガ渕で変更することで、川津を守ろうとした。③同時に周辺や飯山の島田、栗熊などの氾濫原や湿地の開拓を進めることを狙いとした。④一方、綾川では水量が増え河口から滝宮までの河川交通が開けた。⑤それを契機に羽床より上流地域の開発が進んだ。
⑥それを進めたのは、ヤマト政権の朝鮮政策に従い半島で活躍した軍人化した豪族達である。また、戦乱を逃れた渡来人達も数多く讃岐に入ってきた。⑦流路変更工事を主導したのはシラガ渕(新羅系渡来人)たちではなかったのか。⑧それは周辺古墳から出てくる遺物からも推測ができる。
以上は、古代に中国のように大規模な治水・灌漑が行われていたと考えられていた時代のことです。以前にお話したように、丸亀平野や髙松平野からは大きな用水路は出てきませんし。大規模灌漑の跡も出てきません。古代に人為的に流れが変えられたという説に多くの考古学者は同意しないようです。
現在は、綾川の流路変更は、河川争奪の結果だと次のように説明されています。
現在は、綾川の流路変更は、河川争奪の結果だと次のように説明されています。
綾川中流域では綾川町滝宮の中位段丘を下刻して坂出市府中へ流下していますが、滝宮付近の渓谷ができる前は、堤山の北側を西方に流下し、土器川に合流したと推定されます。約 10 万年前の土器川の扇状地が段丘になった岡田台地(丸亀市飯山町から綾歌町)の北縁の崖は、南東から北西に流れた古綾川によって侵食された段丘崖です。
綾川が現在の流路に河川争奪された原因としては、府中湖付近から成長した谷が綾川流域に達したことと共に、西側の流路を妨げる出来事が起こっていた可能性があります。この出来事としては、大高見峰からの大規模土石流による河道閉塞などが考えられます。
参考文献
北条令子 さぬきの伝説
讃岐ジオパーク推進準備委員会「讃岐ジオガイド 綾川と堤山」
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