
旧練兵場遺跡とは、その名の通り戦前までは11師団の練兵場があったことから名付けられた名称です。今は東側が国の農事試験場として畑が広がっています。西側は、旧国立病院エリアになり「子どもと大人の医療センター」という長いネーミングの病院にリニューアルし、そこに看護学校や特別支援学校も併設するユニークな施設群を形成しています。かつて、ここの集中治療室で10日ほどお世話になり、その後一般病棟で過ごしたことがあります。その時に、手にした旧練兵場の分厚い調査報告書を眺めた思い出があります。


その後の発掘で次のような事が明らかになってきています。
①旧練兵場遺跡は弥生時代中期中葉から継続した大規模集落である②他地域との交流を通じて鏡片・ガラス玉・銅鏃などの貴重品を多く保有する集落である③県内の弥生時代の銅鐸・平形銅剣等の多くの青銅器が旧練兵場遺跡周辺に集中している④善通寺病院遺跡が竪穴住居や掘立柱建物の集中から旧日練兵場遺跡の中枢部であった⑤竪穴住居群は生産活動や対外交渉など異なる機能をもち、大規模集落の中で計画的にレイアウトされていた
つまり、この病院の立っているところが古代善通寺王国のコア施設を構成する所であったようです。
弥生時代のこの周辺の地形は、どんな地形だったのでしょうか?
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発掘調査から明らかになった旧河川は、地図上の黒い帯のような部分で2本あります①旧河道1は、弘田川西岸遺跡から彼ノ宗遺跡ヘ向かう現弘田川の旧河道②旧河道2は、仙遊遺跡東側から善通寺病院の北東部を通り北西へ流れる旧河道
①が上の地図の左下側の流れで、②が右上側の流れになります。旧練兵場遺跡の集落は、このふたつの旧河道にはさまれた微高地にあったようです。
集落の変遷を見てみましょう
弘田川の西側遺跡からは、弥生時代の遺構面から縄文時代後期土器がまとまって出てきています。また、善通寺病院の旧河道2からは、縄文時代晩期の刻目突帯文上器の出でてきています。ここからは近くに縄文人達の集落があり、ここを拠点に生活していたことがうかがえます。
最初に竪穴住居・掘立柱建物が姿を見せるエリアは、
①善通寺病院区②彼宗地区③弘田川西岸地区
で、居住域1には50㎡を超える大型掘立柱建物が姿を見せます。遺構分布からは、この時期は彼ノ宗地区が集落の中心部だったようです。
また、旧弘田川河床跡からは舟の櫂も出土しています。当事は小さな川船は、弘田川河口の海岸寺からこの辺りまでは上ってこられていたようです。②③は、旧弘田川沿いに立地し、小さいながら川湊的な機能も持っていたのではないでしょうか。
弥三時代中期後葉~末葉(図4)
前時代と比べると、居住域が拡大し、居住域は8ヶ所に増えます。
①東の仲村廃寺地区(現ダイキ周辺)や四国農業試験場地区でも村落形成が始まる。
③掘立柱建物にも、1間×1間の柱構造の大型化したものが登場し、前段階からの梁間1間タイプのものと混在して使用される。ここからは、掘立柱建物群の中での「機能分化」があったことがうかがえます。
④彼ノ宗地区の居住域8の掘立柱建物の柱穴からは、朱の精製遺物と見られる石皿が出土した。朱の原産地の徳島県名東遺跡の活動が始まるのもこの時期からで、県内でも初期の事例となります。
⑤居住域1からは、古墳時代以降の遺構に混入して扁平紐式銅鐸片が出土した。この時代に埋納された可能性が高い。
地図を見ると西側エリアでの居住区や掘立柱建物の質的量的な発展と、旧河道2を越えた東部エリアへの拡大が同時進行で進んだ時期になるようです。
弥生時代後期初頭~前半(図6)
前段階と比べると、居住エリアが拡大しています。集落全体では12ケ所に増えています。この段階の居住域の広がりが「善通寺王国」のその後の集落形態の原型になるようです。
①住居が集中するのは居住域3で、人口密集率は善通寺王国でもっとも高いエリアである。
②居住域3と居住域2の間の凹地には、四国島内・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中する。
③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきた
④居住域2でも数は少ないが竪穴住居内から他地域からの搬入土器が出てきた。
⑥他の居住域は、竪穴住居4~7棟程度に掘立柱建物が2棟程度付属する小規模な単位と見られる(図7)。また、掘立柱建物は、本段階をもって消滅する。
居住エリアが15ケ所に増えています。この遺跡の始まり段階ではは、善通寺病院エリアの「居住域3」に遺構が集中していました。それが、この段階では分散的な傾向を示すようになります。そして居住域1~3、彼ノ宗地区の「居住域5」に主要遺構の分布が見られるようになります。「居住域3」では、多角形住居がまとまって見られます。これは「都市機能の過度集中に対する分散策」がすすんだのでしょうか。
①川向こうの四国農業試験場は大規模な発掘調査が実施されていませんが、過去のトレンチ調査にから次のような事が分かっています。
①川向こうの四国農業試験場は大規模な発掘調査が実施されていませんが、過去のトレンチ調査にから次のような事が分かっています。
居住域8は、竪穴住居が密集住居住域7~9、11~14は中心的な居住域を補完する小規模な居住単位
ここでも居住地8が副都心のような形で、その周辺に子集落が形成されているようです。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が1棟確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できるようになったようで、これ以降には確実に鉄器が増加します。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が1棟確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できるようになったようで、これ以降には確実に鉄器が増加します。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。
弥生時代終末期~古墳時代初頭(図9)
居住域の分布は前段階と大きな変化はないようですが、小さな居住域が姿を消して居住エリアが減っているようです。
①川向こうの仲村廃寺地区では、遺構の再編成が行われたようで竪穴住居・一部円形・多角形住居が見られますが、ほとんどが方形住居に姿を変えています。そして方形竪穴住居は、南北方向へ主軸を揃えて建てられています。なんらかの新たな「強制力」が働きはじめたようです。
②居住域1・2には一辺が約8mの大型方形住居が登場します。家族のあり方にも何らかの変化が起こっていたのかもしれません。
③貴重品として「居住域1・2・5」から鏡片が出土しています。
④「居住域3」からは水晶製の玉未成品(多角柱体)が出土しています。ここに工房があったのでしょうか。
⑤弘田川西岸地区の居住域7の大型土坑からは鍛冶炉があった痕跡があり、集落の周辺で操業していたことがうかがえます。
古墳時代前期以後
古墳時代前期から中期後半までの期間は、遺構の分布が見られなくなり、集落は解体したようです。この集落の解体は何を意味するのでしょうか? どちらにしても古墳時代の前期から中期に善通寺王国は一度、「滅亡」したのかもしれません。そして、古墳時代中期になると再び竪穴住居群が現れ、後期には広範囲に竪穴住居群が展開するようになるのです。
以上をまとめておくと
①旧練兵場遺跡の居住域の形成は、弥生時代中期中葉に善通寺病院地区と彼ノ宗地区を中心に始まった。
②弥生時代後期初頭から集落の拡大が始まり安定する。
③仲村廃寺地区と四国農業試験場地区の居住域が消滅・移動を繰り返しているのに対して、善通寺病院地区と彼ノ宗地区、弘田川西岸地区の居住域が安定的に営まれる
④集落の中心となる善通寺病院地区でも遺構内容の変化は著しい。
⑤掘立柱建物が消滅する後期後半以後は善通寺病院地区の居住域1が遺構分布の中心となり、同時併存で最大30棟前後の竪穴住居が分布する。
居住域の交流・生産活動については
①他地域との交流を示す搬入土器・鏡片がある。
②後期初頭から前半期には居住域3に搬入土器が集中するが、それ以後は特に集中する居住域は見られない。
③鏡片は終末期に居住域1・2、居住域5で出土しており、中でも居住域1に集中する。
④他地域との「外交・交易機能」をはたしてした居住域3は、終末期にはその機能を居住域1に移している。
⑤後期後半期に居住域2で鍛冶炉をもつ竪穴住居、終末期には居住域7南部において鍛冶炉があった
⑤後期後半期に居住域2で鍛冶炉をもつ竪穴住居、終末期には居住域7南部において鍛冶炉があった
善通寺王国の首長達の眠る古墳群と、この村落の変遷図を結びつけるとどうなるのでしょうか。
古墳時代の後期には、善通寺王国の「死者の谷」ともいわれる有岡の谷に、王墓山古墳や菊塚古墳が首長墓として築かれる時期でもあります。その形成母体となった村落を古墳時代後期に再生された旧練兵場跡の勢力と考えればいいのでしょうか。そうだとしても、首長の屋形らしきものは発掘からは姿を見せていないようです。善通寺の誕生院は、空海誕生の佐伯氏の館の上に建つと伝えられてきました。その伝え通り、誕生院周辺に首長の屋形はあったのでしょうか。
そして、7世紀後半には古代寺院中村廃寺が居住地10に姿を見せることになります。それは、短期間で現在の善通寺東院へと移され再建されていくようです。この2つの古代寺院の出現をどう捉えればいいのでしょうか。わかったことが増えると分からないことも、それにつれて増えるようです。まだまだ謎が多い旧練兵場遺跡と有岡古墳群と善通寺と佐伯氏の関係です。
参考文献
信里芳紀 善通寺旧練兵場遺跡を描くにあたっての二、三の問題
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