前回は、旧金倉川の流路について見てみました。
金倉川 7 生野町地図
上の地図で赤枠で囲まれたエリアが旧生野村で、そこにかつての金倉川(白矢印)が流れ込んでいたことを示しています。
前回のことをまとめてみると、次のようになります。
①弥生・古墳時代には壱岐湧水方面から北上する旧金倉川の河道が生野町や吉田町に幾筋もになって流れ込み、氾濫原となっていたこと、
②その中で、生野南口から四国学院には舌状に伸びる微髙地があって、この上に7世紀後半から奈良時代には、多度郡郡衙らしき遺跡が姿を見せるようになったこと
③旧金倉川の堆積作用は、奈良時代までには終わり凹凸が平坦化していったこと
④平坦化が終わった段階で、条里制や南海道建設などの大規模公共事業が行われたこと
⑤その主体が多度郡郡司の佐伯氏と考えられること
それでは、金倉川の沿いの氾濫原とされたエリアは、どんな状態だったのでしょうか。それを、今回は探って見たいと思います。テキストは「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」です。
まず、考古学者達が捉えている金倉川の流路と条里制の関係を見ておきましょう。
  金倉川と条里制
 黒い部分が山になります。①と②が併行して流れているのが、東のの櫛梨山と西の磨臼山に挟まれて一番流路が狭くなるところです。
そこに①金倉川(旧四条川)と②旧金倉川が並立して流れていたと全讃府史は記します。旧金倉川は磨臼山を抜けると洪水時には生野町や吉田町に流れ込み氾濫原を形成したことがうかがえます。
                        
まず、生野という名前の由来を考えて見ましょう
  「西讃府誌」「仲多度郡史」には、「生野」の地名のいわれを「イカシキ野」と記しています。古語辞典には「イカシ」は
①いかめしい、厳かである
②ひどく 盛んである。勢いがある。
③おそろしい。楽しい。荒々しい。
と出ています。筆者は「イカシキ野」の解釈を、「いかめしい野・荒々しい野」と解釈しているようです。

「遊塚」という宇名があったと云います。そのエリアは
東は与北の中川原と西務主から、
西は善通寺市役所の大半、
南は綴道から、
北はガスト善通寺店前にある吉田病院横の小川
にあたると古老たちは、話していたといいます。このエリアが、一面のうっそうとした森であり荒れ地だったというのです。ざっと考えただけでも何十㌶の広さになります。多くの氾濫原は開墾されて、水路が通されて水田化されていき、森は姿を消していきました。現在、金倉川流域で残っているのは多度津町の葛原にある八幡の森だけでしょうか。そのような森が明治の終わりまで市役所から尽誠学園を越えて、現在の金倉川まで広がっていたというのです。

 作者は小さい頃に祖父の兄から聞いたこととして、次のような話を
語ります

「おらは小学校のころ、井脇君の家(東務金の井脇正則氏の祖父)へ遊びに行って、遊びに夢中になり、気がつくとはやあたりが薄暗くなっていて、あわてて走って帰ったが、このトトヤ(魚)道も、今の道の半分ぐらいしかなく、雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかったもんだ」

とよく話していたと云います。 与北の東務金から森が続き「雑木の大木が左右から垂れ下がって、こわかった」というのです。
ここからも旧金倉川流域は氾濫原として、昭和の初め頃までは放置されていた所があり、大きな森として残っていたことが分かります。

もう少し古い時代のこととして、親戚のおじいさんに聞いた話を次のようにも伝えます
「おらが15、6の頃におやじと一緒に麦まきが終わると、ここの田んぼの木を切り倒して荒れ地を開墾して、稲のできる田にしたんだ」

というお話を聞いたと云うのです。それは、陸軍11師団がやってきた後の明治の40年前後のことだといいます。乃木大将がやって来たときにも「遊塚」には森がまだまだ繁っていて、それを開墾して田んぼにする人も現れていたようです。乃木将軍も金蔵寺からの通勤に、この森を通ったことがあるかもしれません。
 尽誠学園が生野町の現在地にやってきた時には、校地として水田を買ったのでしょうか、森を買ったのでしょうか?。私は森を買った可能性が強いと思います。

どうして生野村の東部は、「いかめしき野」だったのでしょうか?
 地図を見れば分かるように磨臼山と櫛梨山の間は直線にして約700mぐらいしかありません。
金倉川 9磨臼山と櫛梨山

かつては、ここを土器川も流れていたことは前回にお話しした通りです。そして全讃史には、この間を旧金倉川と旧四条川が並んで流れていたと記します。一旦狭められ速くなった流れが開放されると色々な方向にほとばしり出ます。この間を流れる川の名前は変わっても、何百年何千年の昔から洪水が起こるたびに氾濫し、流れを変化させ弘田川の方へも流れ込む暴れ川だったようです。その結果が、流域を氾濫原として埋め、土地の凹凸を平面化する結果となったことも前回にお話しした通りです。
 そして、氾濫原の荒地は自然のまま放置され、森となって残ったのでしょう。また森のまわりにも荒野が広がっていたようです。そのため現在の土讃線が明治に線路がひかれ、現在の国道319号が四国新道として建設されたのも、この沿線が旧金倉川の荒れ地で買収費用が安く、容易に手放す人たちが多かったからだと伝えられます。

 香色山は、佐伯氏の祖廟があり、聖なる霊山です。
 ここから東に広がる善通寺市街を見ると、条里制に沿って街作りをしたということが実感できます。筆岡、吉原、稲木、竜川あたりの水田をグーグル地図で見てもきれいに方形に区切られ条里制の名残りがみられます。しかし、生野町の上原、原、小原、東務主、西務主の水田の形をみると、てんでん、ばらばらの形です。これらは一斉に条里制に基づいて開かれたのでなく、金倉川流域の荒地の低湿地を少しずつ開発したことを物語っています。しかし、乃木大将が馬で走った森や荒地の「いかめしき野」(遊塚)は、今はどこにもありません。
金倉川 10壱岐湧水
善通寺一円保差図 二頭湧水は②?

二頭湧水は上吉田、下吉田、稲木の三村が水懸りですが、
早魅時には善通寺領の申し立てによれば、善通寺領分の田んぼも取水権を持っていたようです。それは、上の「善通寺一円保差図」を見ても分かるとおりです。②の二頭湧水からの用水路が善通寺の一円保寺領の方に続いているのが描かれています。そのため既得権利として、寛政9年と文化14年、そして文政6年と3回に渡って、善通寺は丸亀藩へ提訴しています。その内容は、早魅で有岡大池の水もなくなってしまったときの対応策についてです。善通寺の申立ては、寺領分が水を必要とした時に、上吉田村に書面を提出すると、三村の村役人が話し合って、寺領の取水日を返答する。ところが三村も水がほしくてたまらないので、取水日をはっきりと示さない。そのため善通寺が丸亀藩に提訴するということになります。
 壱岐湧水などについても、そのような既得権利を善通寺は主張していたようです。そのため本寺に訴えるために「一円保絵図」を控訴史料として作成したのではないかと研究者は考えているようです。

善通寺市デジタルミュージアム 壱岐の湧 - 善通寺市ホームページ
壱岐の湧水

もう一度、壱岐の湧水と、柿の又出水を見てみましょう。
 小学校にプールが出来る前の昭和40年代までは、子ども達がこの湧水で泳ぎまわっていたと云います。しかし、壱岐湧水に比べて、柿の又湧水は、水がきたなかったし、まわりは葦と雑草が生い茂って泳ぐ気にはならなかったと作者は云います。そのためでしょうか、現在整備されていのは壱岐湧水だけです。
金倉川12柿の股湧水
 二つの出水は絵図を見ると、条里制地割線上に西に、真っ直ぐと伸びていきます。
この一番上の条里制地割ラインはいったい現在のどの辺りになるのでしょうか?
最初私は、尽誠学園から西に真っ直ぐ伸びて四国管区警察学校や自衛隊本部(師団師令部)道の前を通る道を考えていました。しかし、現在の地図に落としてみると次のようになるようです。
金倉川11 条里制と湧水
絵図に合わせて南北が逆になっています

絵図は寺領周辺は詳しく描いていますが周辺部はデフォルメされていることが分かります。一円保絵図の一番南のラインは四国学院と護国神社を通過しています。これが多度郡の6里と7里の境界線にあたるようです。

金倉川 善通寺条里制

ちなみに四国学院の図書館建設のためのための発掘調査から6里と7里の境の溝が出てきています。そして、そこには側溝もあることから南海道の可能性が高くなっています。つまり、絵図の一番南ラインは南海道でもあったようです。
 ここからは壱岐湧水からの導水ラインは、二頭湧水を越えて北上し、善通寺一高辺りから真っ直ぐに、南海道沿いに西に伸びて四国学院のキャンパス内で(2)に接続していたことになります。
さらにその用水は現在の護国神社や中央小学校を抜けて、善通寺の南大門の南に当たる①に至ります。ここから条里制地割に沿って北に導水されていたことがわかります。この周辺に善通寺の寺領は集中していたようです。
  四国学院や善通寺東院は微髙地にあります。しかし道を越えた護国神社や西中・中央小学校は、四国学院よりも1,5mほど低くなっているようです。この地帯は水田であったことが推測できます。壱岐湧水の水は、ここまでひかれ寺領を潤していたとしておきましょう。

  前回に四国学院の東側は旧金倉川から分かれた支流が流れていて、氾濫原だったと考古学者は報告していることをお話しました。
そして、今日のテキストでは、11師団がやって来る20世紀初頭まで、現在の市役所から金倉川までは「いかめしき野」の森で、その周辺は荒れ野が続いていたという「証言」を聞きました。壱岐湧水からの用水は四国学院まで、森と荒野を抜けてやってきていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「細川泰幸 善通寺生野について  善通寺文化財教会報25 2006年」