稲木北遺跡
稲木北遺跡は、大型建築物がいくつも出てきたことから多度郡の郡衛跡候補とされているようです。どんな遺跡なのか調査報告書を見ていきます。この遺跡は善通寺市稲木町にあり、国道11号坂出丸亀バイパス建設工事のために平成17年度に発掘調査が行われました。
稲木北遺跡 上空写真

位置は、新たに作られたバイパスと旧11号線の分岐点の南側です。上の写真では、国道北側に見えるのが新池になります。道路手前の掘り返されている部分が発掘されたエリアになるようです。
 新池の西側には丸亀城からの街道が通っていました。稲木遺跡を南に越え行くと、すぐに伊予街道と合流します。そこには永井湧水があり、殿様が休息所に使っていた建物があったようです。丸亀の殿様も国内巡視には、この道をよく利用しています。

稲木北遺跡 上空写真2
 この遺跡からは、古代の郡衛跡を思わせるような大型の掘立柱建物跡や柵列跡がでてきました。これらは左右対称に整然と配置され、柵列跡でかこまれたエリアは一辺約60mになります。これは、全国の郡衛政庁と同じ規模にです。そうだとすると、ここは多度郡の政庁があった可能性が高くなります。まずは、調査報告書に従って、遺跡を見ていくことにします
稲木北遺跡 配置図

  調査区域はバイパス工事で立体化される拡張部のみで上記の4区になるようです。
稲木北遺跡が、どんな所に立地していたかを見ておきましょう。
稲木北遺跡 地形復元図

等高線が引かれた地図を見ると①②ともに微髙地のうえにあることが分かります。
①の西側に河道跡が見えます。これが遺跡の西端を区切っています。
②は東側に河道跡があります。同じくこれがエリアの境界となるようです。
この遺跡の東約1,3kmには金倉川があり、この旧河道の中に頭一つ出ていた微髙地上にあります。上の第5図からは遺跡の東西で旧河道の存在を見て取れます。旧河道が8世紀代の遺構群の東・西限のようです。
稲木北遺跡 遺構配置図

  出てきた柱跡をつないでいくと、大きな掘立柱建物跡が8棟出てきました。それを復元してみると、次のようになるようです。
稲木北遺跡 復元想像図2

これらの掘立柱建物群は、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたと研究者は考えているようです。ここからは次のようなことが分かります。
①大型の掘立柱建物跡8棟
大型柵列跡2基(SA4001とSA2001)で東西の柵で囲まれている
③建物跡は多度郡条里坪界線に沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向への左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤対称の関係にあるの基準線からの距離だけでなく、建物跡の種類や規模についても対応する。
⑥柵列跡の内部では床束建物(Ⅲ 区SB3001)が中核建物群
⑦柵外では総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土した土器の時期幅が、ごく短期間に限られている

ここからは、稲木北遺跡(8c前葉~中葉)が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的な設計上の一致があることが分かります。

 それでは郡衙(郡家)とは、どんな施設だったのでしょうか。何を満たせば郡衙と云えるのでしょうか
 郡衙は文献史料によって、「郡庁」「正倉」「館」「厨家」「門」「垣」などの施設があったことが分かっています。
 律令の「倉庫令」には、郡衛設置について次のように規定されています
①倉は高くて乾燥した場所に設けること、
②そばに池や濠を掘ること
③倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない
ここからは、郡衙は低湿地には作ってはならなかったことが分かります。また、多くの倉(正倉)が立ち並ぶエリアがあったようです。今は正倉院といえば、奈良にある東大寺の宝物庫の正倉院のことをすぐに思い浮べてしまいます。しかしもともと、正倉とは建物をさすのではなく、国家所有の倉庫群の一郭をさすことばだったのです。発掘で、倉庫群が出てくれば郡衙にまちがいないようです。
 倉庫(正倉)以外にも郡衛には、次のような施設(建築物)がありました。
稲木北遺跡 郡衙の構造

「郡庁」は、郡衙の政庁であり、郡司らが執務するところ。
 郡庁は、「庁屋」「副屋」「向屋」など数棟の建物から構成されていたようです。全国の郡衙復元図を見てみましょう。
上総国新田郡家跡の配置図です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡

 中央に(1)郡庁があり、その真ん中に庁屋があり、左右に「副屋」「向屋」など数棟の建物が建っていたことが分かります。
  「倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない」という規定通り、郡庁と(2)(3)正倉(倉)は、距離を置いて設置されています。また正倉も規則性をもって建てられています。しかし、周囲を囲む堀は不整形です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡復元図

   豪族居宅型の郡庁
 郡庁の中には地方豪族の居宅から発展してきたものもあると研究者は考えているようです。古い時代の地方豪族の居宅の形が郡庁に踏襲されているというのです。郡司が国造など地方豪族の流れをくむ者から選ばれていたことを考えるとそれは、当然考えられることでしょう。これを「豪族居宅型」の郡庁と呼んでいます。その代表がこの新田郡家遺跡のようです。

  それに対して左右対称の強い規格性を見せるのが広島県の三次郡衙です。
稲木北遺跡 三次郡衙
  三次郡衙は、庁屋を中心に左右対称に建物群が配置され、周囲の塀も規格性を持っています。そして正倉も、その南と東に集中して並んでいます。
稲木北遺跡 三次郡衙2

  これらの郡衙跡と稲木北遺跡の復元図を比較してみましょう。
  稲木北遺跡 復元想像図2

 庁舎を中心に建物が左右対称に配されています。正倉は掘建柱塀の東西の外側に距離を置いてあったことが分かります。発掘エリアが広がればもう少し数が増える可能性もあります。これは郡衙跡の可能性大のようです。
 
しかし、実は多度郡の郡衙跡候補はすでに発掘されているのです。
それが善通寺の生野本町遺跡です。
生野本町遺跡 

この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための調査で現れた遺跡で、
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉で、稲木北遺跡より少し先行し、しかも存続期間が長い
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心域(郡庁?)は微髙地の一番高いところに設置
 郡衙的な色合いが強い遺跡です。
生野本町遺跡の南 100mには、生野南口遺跡があり、次のようなのもヶ出土しています。
⑤8世紀前葉~中葉の床面積 40㎡を越える庇付大型建物跡 1棟
⑥杯蓋を利用した転用硯
生野本町遺跡に隣接するので、郡庁に属する建物であると研究者は考えているようです。

 稲木北遺跡と生野本町遺跡を比べると、多度郡の郡衙跡候補地としてはどちらもその可能性があるように思えます。しかし、この二つの現存期は7世紀後半から8世紀初頭にかけてになります。つまり同時併存していた遺跡なのです。多度郡に2つ郡衙があったのでしょうか。有力豪族たちは、それぞれが郡衛的な施設を建てたということは考えられます。

しかし、次の3つの要素で考えるとぐーんと生野南口遺跡が有利になるようです
A 生野本町遺跡の北側には、南海道が通っていた。
B 有力豪族である佐伯直氏の本拠地に近いこと 
C 仲村廃寺や善通寺が造営されていること
Aの推定南海道については、以前にお話ししたように次のような根拠から四国学院内を通過していたという説が有力になっています.

DSC01748
①多度郡条里地割の6里 、7里 の里界線沿いが南海道の有力な推定ラインとなる。
②多度郡の東側の那珂郡では、この推定ライ ンに沿つて余剰帯 (条里型地割において南北幅が東西幅に比べて10mほ ど広い坪の連続する箇所)があり、これを西側へ延長した位置にあたる。
③13世紀代の善通寺文書において五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載 されている
そして、四国学院大学構内遺跡同遺跡からは②の推定南海道の位置とぴったりと合う所で、併行して延びる2条の溝状遺構が見つかっています。この遺構は7世紀末~8世紀初頭に掘られたもので、その方向は条里型地割と一致し、溝状遺構の幅は約8,5mです。ここから南海道の道路側溝である可能性が高いと研究者は考えているようです。
稲木北遺跡 多度郡条里制

  全国の郡衛の多くは主要街道の近くに設置されています。
それは中央集権的な国家体制作りからすれば、当然の立地条件だったのでしょう。かつては、伊予街道=南海道とされきましたが、先ほど見たように南海道が善通寺の現市街地を貫いていたと、現在の研究者の多くは考えています。そのため生野南口遺跡がぐーんと有利になります。また南海道の建設工事が7世紀末から8世紀初頭とすれば、生野南口遺跡の多度郡衛の設置時期とも重なります。
  この時代の西讃地方で行われていた土木建設工事を挙げてみると
 7世紀半ば       三野郡に讃岐初の古代寺院・妙音寺が丸部氏
       (?)によって造営開始
663 日本,百済軍が唐,新羅軍に敗れる(白村江の戦い)
667 近江大津宮に遷都.瀬戸内沿岸に山城築造(大和国・高安
城,讃岐国・屋嶋城)
672 壬申の乱
695 藤原京造営 宮殿に三野郡の宗吉瓦窯の瓦使用
         三野郡の妙音寺完成  
    稲木北遺跡(多度郡郡衛?)完成

生野南口遺跡周辺の有力豪族と云えば、空海を生んだ佐伯直氏です。
現在の誕生院は佐伯氏の館で、空海の生誕地であると云われますが、それを実証する史料はありません。『類衆国史』には、9世紀前半に佐伯鈴伎麻呂が大領 (郡司)となっています。それ以前には、佐伯直氏の館跡との関係を直接的に示す遺跡は分かりません。しかし、善通寺には、他地域を凌ぐ寺院や古墓があります。
 まず寺院については仲村廃寺、善通寺があります。
仲村廃寺は、原型に近い川原寺式軒丸瓦や法隆寺式の軒平瓦などが出土し、奈良時代まで多くの種類の軒瓦が使用されています。善通寺跡からも白鳳期から平安期にかけての多種類の軒瓦が出てきていて、両寺とも盛んに造寺活動が行われていたことが分かります。これらの背後には佐伯直氏の活動がうかがえます。
 一方、古墓については8世紀中葉~9世紀代の火葬墓群が筆の山の南麓、東麓で見つかっています。このうちカンチンバエ古墓では銅製骨蔵器が使われ、畿内で貴重で珍しい材質なようです。佐伯氏と思われる有力豪族が存在していたことがうかがえます。

稲木北遺跡 条里制

稲木北遺跡付近を本拠地とした豪族としては因岐(いなぎ)首氏が考えれます
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓要求の申請を行つた結果、和気公が賜姓された記事がありますので、多度郡に因岐首氏という豪族がいたことは確実です。
 500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。この「稲毛」を因岐首氏の 「因岐」からの転化と研究者は考えているようです。そして、良田郷を因岐首氏の本拠地とします。この説に従えば、稲木北遺跡は良田郷に属しますので、8世紀初頭には因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は高くなります。。
 智弁大師はこの因岐首氏の出身で、その系図を残しています。
それは『和気系図』と呼ばれ、今は国宝となっています。その系図には始祖である忍尾別君から因支首純雄らの世代までが記されています。また、忍尾別君が伊予国から移住し、因岐首氏と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったということも記されています。この伊予からの移住時期を7世紀中頃と研究者は考えているようです。つまり、大化の改新から白村江の敗北の前後に、伊予からやって来た豪族というのです。ここからは次のようなことが考えられます。
佐伯直氏の郡衙       多度郡部の生野本町遺跡
因岐首氏(和気氏)の郡衛     多度郡部の稲木北遺跡
しかし、見てきたように佐伯直氏と因岐首氏の勢力を比べると、これは佐伯直氏に軍配があがります。例えば、古代寺院の造営という点からしても多度郡南部には、同時期に仲村廃寺と善通寺があります。壬申の乱以後も佐伯直氏は、勢力を保持し郡司の座にあったと考えられます。
それでは、善通寺に郡衛(生野本町遺跡)があったのに、なぜ稲木の地に新たに郡衛ぽい施設を作ったのでしょうか。
稲木北遺跡の同時代に並立していた遺跡を見てみましょう
①稲木遺跡では「口」の字形の官衛的な建物配置、
②金蔵寺下所遺跡では河川管理祭祀
③西碑殿遺跡と矢ノ塚遺跡は鳥坂峠の麓という交通の要衝に立地する
といったそれぞれの機能的側面を持っていたます。 
 7世紀半ば以後に、伊予から多度郡北部にやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は考えているようです。
 因岐首氏による多度郡北部の開発と地域支配のため新たに施設が作られ、
「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

と研究者は指摘します。つまり、新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、この官衛的な施設は作られたというのです。
 しかし、この施設は長くは使われませんでした。
非常に短期間で廃棄されたようです。使用痕跡が残ってあまり残っていないのです。例えば土器などの出土が極めて少ないようです。また、硯や文字が書かれた土器なども出てきません。つまり、郡衛として機能したかどうかが疑われるようです。
 因岐首氏が作った稲木北遺跡の建築物群は、律令体制の整備が進む奈良時代になると放棄されたようです。その理由は、よく分かりません。多度郡の支配をめぐる佐伯直氏との対立もあったのかもしれません。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年