平安時代の末に浄土信仰が盛んになると、四天王寺には法皇や貴族たちの参詣が盛んとなります。鎌倉時代以降には、浄土信仰と太子信仰が庶民にまで広がって、ますます賑わうようになったようです。
駅から歩いていくと最初に大きな石の鳥居に出会います。

駅から歩いていくと最初に大きな石の鳥居に出会います。

正面上の額には
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」
とあります。「釈迦如来が説法された聖地であり、西門は極楽の東門にあたる」という意味になるそうです。
鳥居をくぐると正面に西門が見えてきます。この門と鳥居の間が浄土信仰の聖地でした。
昔は鳥居の直ぐ近くまで海が入り込んでいたようです。そのため彼岸の夕陽は鳥居の中心から海に沈みました。その時の鳥居の向こうは、まさに極楽につながる道が現れると信じられるようになります。そのため、彼岸の中日には「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まってきました。日想観とは、四天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っているという信仰から来たものです。このため人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝みました。これには作法があるようで、まず夕日をじっと眺め、目を閉じてもその像が消えないようにしてから、夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされてきました。まさに、ここは極楽浄土への入口が見える聖地だったようです。
『聖絵』の天王寺の詞書には、次のように記されています。
これでは私には読めませんので、変換ボタンを押します
さらに意訳しておきましょう
文永十一年(1274)桜の季節に伊予桜井(今治)を出た一遍一行は、やがて四天王寺にやってきて参籠した。この伽藍は釈迦如来転法論の古跡で、□□? 東門中心の景勝地でもある。歴代の皇室の崇拝を集め、600を越える道場があり、星霜の歳月を経てもお堂や堂の甍が朽ちることはなく、露盤は光り輝いている。亀井の井戸の水が涸れることはなく、宝水が絶えることもない。(中略)この地において信心を深め、発願を堅くし誓い、十種のの制文をおさめて、如来の禁戒を受け、 一遍は念仏を唱え衆生の救済を開始した。
この詞書がどのように絵画化されているのか見ていきましょう。
巻物を開いていくと詞書に続いて、まず最初に見えてくるのは築地塀をめぐらした天王寺の伽藍の一部です。霧の海の中に、いくつもの建物の屋根だけが浮かんでいます。広大な広さを持ていることがうかがえる光景です。左下には参拝者達の姿が見えます。被衣(かずき)姿や市女笠をかぶった女人達が門から入っていく姿が見えます。一部だけ見えているのが南大門のようです。
先ほど見たのは①の南大門から東の部分になります。

画面上部が北で、画面の右側に講堂・金堂・五重塔・中門が延長線上に真っ直ぐにならぶ「四天王寺式」の伽藍が描かれています。
伽藍中心部を拡大して見ましょう
伽藍中央に五重塔があり、その北に金堂の屋根が見えます。よく見ると金堂の扉は開かれて、釈迦入来座像が安置されているのも見えます。その向こうに屋根だけをのぞかせているのが講堂になるようです。境内にはいろいろな参拝者の姿があります。
被衣姿の女黒染め衣の尼従者を連れた連れた絵帽子姿の男
画面手前の築地に沿った道は熊野街道です。
傘を差して馬に乗っているのは、熊野詣でに出掛ける武士の姿のようです。従者は行器(ほかい)を背負い、弓矢、毛鞘(けざや)の太刀を担いで、主人に従っています。
⑤西門に目を移すと、そこには時ならぬ人だかりがしています。
いろいろな姿をした参拝客が一遍の周囲に集まっています。一遍はここで初めて念仏札をくばった(賦算、賦はくばる、算はふだ)とされます。その姿が描かれているようです。これが一遍布教のスタートの姿です。
札を配る一遍を取り巻く人たちの姿も見ていると細かく描き分けられています。
集まってきた人たちの背後には一基との灯籠があり、その左右に檜皮葺のお堂があります。念仏堂や絵殿だと研究者は指摘します。このあたりの参拝者も遠巻きに一遍を見守っているようです。
蓑笠をかぶり弓を持った狩場帰りの武士
折絵帽子狩衣姿の屈強な若者が水干姿の垂髪を従えて、うさんくさそうに眺めています。
お堂に腰掛けて見守る僧侶ふたり
その向こうでは両手を広げて踊っているような姿も見えます。一遍の念仏は、踊り出すような節回しとリズムがあったのかもしれません。
一遍達が札を配る伽藍の外では、築地塀沿いにいくつもの小屋が並んでいます。
小屋には車が付いているものあります。これらは「乞食小屋」のようです。熊野街道沿いの築地塀前はスラム街であったようです。都市近郊の四天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていました。四天王寺は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でもあったようです。
小屋には車が付いているものあります。これらは「乞食小屋」のようです。熊野街道沿いの築地塀前はスラム街であったようです。都市近郊の四天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていました。四天王寺は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でもあったようです。
それは西門での一遍のはじめて賦算(お札配り)と関係があると研究者は考えているようです。ここでは一遍は、「境外の乞食には札を与えていない」ことをまず指摘します。そして
「賦算が見返りとしての喜捨を期待していたこと」「不信・不浄の乞食には賦算札を与えない。与えようとしても受け入れられないことをこの絵ははっきり示している」と云うのです。なぜならば、乞食・非人には「明日の命はわからない。神仏などいくら信仰しても《腹のたしに》ならぬのだ」
からだと、中世の乞食や非人には「近代人の善意」による解釈や「普通人の想像」がまったく通用しないことを語ります。
つまり、一遍は四天王寺で乞食・非人に救済の手が届かない無力感を味わったというのです。
賦算という行為の外で、届かない人たちの存在。別の見方をすれば、その人たちと、どのような関係を取り結んでいくのかという課題を四天王寺で背負ったことになります。その課題を持って一遍は、高野山から熊野へ入って行きます。そして、熊野でその解答を見つけるのです。
一遍は四天王寺で味わった無力感を抱えたまま熊野に向かいます。
そこで今度は「信・浄」の律宗僧侶にすら拒絶されます。思い悩んだ末に、権現の神託を受けるのです。四天王寺と熊野での体験は、一遍の信仰にとって「連続したひとつのイヴェント」だったともいえます。その後一遍は、新宮から聖戒にあてた便りの中で「同行を放ち捨て」たことを伝えています。超一、超二の二人を「放ち捨て」たのです。
従来、超一、超二の二人は 一遍の妻子とされてきました。
しかし、それに異を唱える研究者も出てきているようです。それによると、超一、超二の尼形は一遍の妻子ではなく、人を集め銭を稼ぐための女芸人母子だったというのです。旅先で生きていくためには、彼らの「芸」が必要だった、「自力」で生きるのに必要な存在だったという説です。そうだとすれば、熊野で「他力本願」という信仰の核心をつかんだ後は、必要としなくなったと研究者は考えているようです。
しかし、それに異を唱える研究者も出てきているようです。それによると、超一、超二の尼形は一遍の妻子ではなく、人を集め銭を稼ぐための女芸人母子だったというのです。旅先で生きていくためには、彼らの「芸」が必要だった、「自力」で生きるのに必要な存在だったという説です。そうだとすれば、熊野で「他力本願」という信仰の核心をつかんだ後は、必要としなくなったと研究者は考えているようです。
二人が芸人だったかどうかは私には分かりませんが、一遍が生活の基礎を彼らに負っていたことは充分に考えられます。一遍も最初は、貨幣経済を無視して旅先で生きていくことは出来なかったようです。
西門からさらに西に行くと、朱色の木造の鳥居が建っています。
この鳥居は永仁2年(1294)に忍性によって石造にかえられたといいます。これが、最初に見た彼岸に夕陽がその真ん中を沈んでいく鳥居です。その額には「釈迦如来転法輪所 当極楽土東門中心」と記されています。この鳥居と正門の間から人々は沈みゆく夕陽を眺め祈ったことになります。ここは極楽浄土の東門であったのですから。
この鳥居は永仁2年(1294)に忍性によって石造にかえられたといいます。これが、最初に見た彼岸に夕陽がその真ん中を沈んでいく鳥居です。その額には「釈迦如来転法輪所 当極楽土東門中心」と記されています。この鳥居と正門の間から人々は沈みゆく夕陽を眺め祈ったことになります。ここは極楽浄土の東門であったのですから。
鳥居の両側には玉垣が連なります。その前で、人々が施しを受けています。後の車小屋の中には碗が1つ。もうひとつの車小屋には老乞食がうごめいています。
鳥居の前の参道の両脇には、築地塀で囲まれた邸宅が並びます。手前は板屋で簡素です。それに比べて参道の向こう側は、門も四足門で、檜皮葺の入母屋造の豪壮な邸宅です。天王寺の別当の住居と研究者は考えているようです。この参道の向こうはどうなっているのでしょうか?
そこはもう砂浜と海です。海には鴨類が浮かび、その上を鵜(?)の群れが飛びます。この海に夕陽が沈み、西方浄土世界への道が現れると信じられていた聖なる空間です。この海を背後にしながら 一遍一行は高野山を目指すことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
日本の絵巻20 一遍上人絵伝 中央公論社
参考文献
日本の絵巻20 一遍上人絵伝 中央公論社














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