飯野山南側には、坂出からの国道バイパスが南に伸びています。飯山高校の西側のバイパス交差点あたりは土器川旧河道の段丘崖で周囲より1mほど微髙地になっています。このエリアの発掘調査で出てきたのが「岸野の上」遺跡です。この遺跡からは大きな発見が2つありました。
A 南海道の道路側溝と考えられる溝群(溝6・溝7・溝8・溝9・溝10・小ピット群)が出てきた。
①の推定南海道の両側に溝が掘られていました。これが市道の南側(溝9・溝8)と北側(溝6・7)に当たります。北側と南側の溝の幅は約10m近くあります。そして、溝には次のような特徴があるようです。
①溝底(溝9・溝10)に凹凸があり、水が流れた形跡がないの灌漑用水ではない。②地表面の起伏を無視し、直線的に並んでいる③小ピット群は、道本体の土留めのための杭列か?
溝底に凹凸があり、水も流れていないので灌漑水路ではないようです。道路側溝としての性格が高いようです。古代の官道は、幅が約9~10mほどで直線的にまっすぐと作られていることが分かっています。
下の「古代道路の工法」を見ると路面の両側に溝を掘って側溝としていました。ここから出てきた溝が、側溝にあたるようです。
幅10mの大道跡の出現だけで、南海道と決められるのでしょうか?
古代官道をとりまく発見の歴史を少し振り返ってみます
古代の官道については、江戸時代の五街道でも2間程度の道幅だったのだから、古代駅路の道幅はせいぜ い2mもあれば, 駅馬が通るに事足りていたというのが半世紀ほど前の考えでした。畿内から下ツ道の23m75や難波大道の19m76などが現れても、それは畿内の大道だからで、地方の官道はそんなに大規模な物ではないとされていました。そのような中で、丸亀平野を通っていた南海道も、額坂から鳥坂峠を越えていく近世の伊予街道が考えられていました。
しかし、1970年代になると道幅10mで直線的に続く古代官道跡の発見が各地から報告されるようになります。それは、航空地図や大縮尺の国土地理院の地形図を読み込むことから発見されることもありました。さらに、条里制痕跡からも古代の官道の存在が浮かび上がってくるようになります。
まず平城京から伸びる下ツ道と横大路に沿って,1町(約109m)方 格の条里地割の中に一部分だけ幅が異なる部分があることが指摘されました。つまり幅約45m(15丈)分大きいのです。なぜ、そこだけ幅が広いのか、つまり余剰分があるのかという疑問に対して、ここに道路が通っていたからだという仮説がだされます。つまり、道路敷面が45m分あったが、その後の歴史の中で道路部分は水田などに取り込まれて、45mの大道は姿を消し、幅の広い条里として残ったと研究者は考えたのです。
図6の条里余剰帯の模式図で、確認してみましょう。

これは、約109mの条里地割が分布しているエリアの例です。
その中に縦の長さだけが124mになる地割列(上から2段目の列)があります。この場合、余剰帯の幅15mと、現在の道幅6mを合わせた、21mの帯状の土地が、かつての官道敷地だったということになります。
その中に縦の長さだけが124mになる地割列(上から2段目の列)があります。この場合、余剰帯の幅15mと、現在の道幅6mを合わせた、21mの帯状の土地が、かつての官道敷地だったということになります。
これが現在、古代道路検出法の一つとして「条里余剰帯」と呼ばれている手法の誕生だったようです。そして、研究が進められるにつれて条里制工事の手順は、次のように進められたことが分かってきました。
①目標物に向かって真っ直ぐな道の計画線が引かれる。これが基準線となり官道工事が始まる。②官道は基準線でもあり、これに直角に条里制ラインが引かれた。③官道は、国境や郡境・郷境ラインとしても用いられた。④南海道の道幅は約9~10mで、両端に側溝が掘られた
つまり、中央政府からやってきた高級官僚達が官道ラインを引き、その設計図に基づいて郡司に任命された地元有力豪族が工事に取りかかります。讃岐の場合だと、基準線となる南海道が完成すると、直角に条里制工事が進められていきます。つまり、南海道は条里制工事のスタートを示す基準線でもあったし、実際の工事もこの道沿いから始められたようです。
中央の官道についても、次のような役割も分かってきました
①藤原京や平城京のエリアも、計画道路が先に測量され、それを基準に設定されたこと,②摂津・河内・和泉の国境ラインの一部は、直線的に通る官道によって形成されていたこと
つまり、畿内においては直線道路が古代的地域 計画の基準線となっていたのです。

条里余剰帯を、丸亀平野で見てみるとどうなるのでしょうか。
丸亀平野の条里地割の中にも南北が10m程度広い「余剰部分」が帯状に見られるところがあるようです。金田章裕氏は、その条里余剰帯を歴史地理学的に検討して、推定南海道を次のように想定していました。
①鵜足郡六里・七里境、②那珂郡十三里・十四里境、③多度郡六里・七里境
讃岐富士の南側から郡家の8条池・宝幢寺池の南を通過して直進的に西進し、善通寺市香色山の南麓にいたると云うのです。香色山南麓に達した南海道は、大日峠を越えて三野郡・刈田郡へと続いていくことになります。
これはあくまで、想定でした。しかし、推定南海道とされる③多度郡六里・七里境上に、7世紀後半から8世紀に掘られた溝が発掘されたのです。これは四国学院大学の図書館建設に伴う発掘調査からでした。
四国学院遺跡の東西に伸びる溝
条里型地割の中の平行・直交する2本の溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝1が里境の溝だったのです。また溝1が、単なる坪界溝ではなく多度郡六里と七里の里境であること、さらにこれに沿って設定された古代南海道の可能性が高くなったのです。そこで、この溝を条里制地図の中に落とし込んでみると次のようになりました。ここで注意しておきたいのは、多度郡郡衙跡とされる生野本町遺跡がすぐ南にあることです。南海道が出来るとその周辺部に、郡衙がつくられたことがうかがえます。さらに、推察するとその郡長が佐伯氏であったすれば、この周辺に佐伯氏の館もあったと研究者は考えているようです。
この四国学院の中を通る推定南海道ラインを、東に辿っていくとどうなるのでしょうか。
四国学院のキャンパスの中を抜けて、善通寺一高のグランドを抜けて東に進んでいきます。さらにグーグル地図で見てみましょう。
この四国学院の中を通る推定南海道ラインを、東に辿っていくとどうなるのでしょうか。
四国学院のキャンパスの中を抜けて、善通寺一高のグランドを抜けて東に進んでいきます。さらにグーグル地図で見てみましょう。
四国学院から金倉川を越えて条里制ライン沿いに東に進むと、宝幢寺池と八条池の南を通過して、土器川に出ます。そして、右岸から東を進むとその道は飯山高校北側の市道に通じます。
上の写真の道は、岸の上遺跡を通過していた南海道の現在の姿です。
市道の南側(左)に、発掘で出てきた側溝が見えます。その向こうに見えるのが下坂神社の鎮守の森、そしてはるかに善通寺の五岳の山脈が見える。そこを目指して南海道がまっすぐに続いていたことが分かります。四国学院の古道の側溝跡と岸の上遺跡の側溝、は一直線につながるということになります。これは、いままで「想定南海道」と呼ばれていたものから「想定」の2文字がとれることを意味すると私は考えています。ちなみに四国学院遺跡と岸の上遺跡の直線距離は7,4㎞です。
丸亀平野の南海道と郡衙・古代寺院・有力者の関係を見てみると次のようになります。
郡衙候補 古代寺院 郡司候補
①鵜足郡 岸の上遺跡 法勲寺廃寺 綾氏?
①鵜足郡 岸の上遺跡 法勲寺廃寺 綾氏?
②那珂郡 郡家(?) 宝幢寺池廃寺
③多度郡 生野本町遺跡 仲村廃寺・善通寺 佐伯氏
南海道沿いに郡衙と想定できる遺跡や廃寺跡があり、郡司と考えられる有力者がいたことがうかがえます。そして、南海道の建設や、その後の条里制工事はこれらの郡司などの有力者の手によって進められていったようです。
①③からして、②の那珂郡の郡衙跡も南海道の直ぐ近くにあったことが考えられます。全国の例を見ても、最初は官道から遠くても建て直される場合には官道近くに移動して建てられている例があるようです。宝幢寺廃寺と同じように、今は池の下になっているのかもしれませんが・・・・

以上をまとめておきます。
①岸の上遺跡からは、幅10m近い大道跡と道路側溝が出てきた。
②これは歴史地理学者が指摘していた条里制の鵜足郡六里・七里境にあたる。
③この大道跡を西にまっすぐに伸ばすと善通寺の四国学院のキャンパス内から出てきた側溝跡と一直線につながる
④以上から「鵜足郡六里・七里境、那珂郡十三里・十四里境、多度郡六里・七里境」上を南海道が通過していたという仮説が考古学的に実証されたことになる。
⑤四国学院と岸の上遺跡の側溝溝は、7世紀後半から8世紀初頭にできたものとされるので、基準線測量が行われ、南海道の工事が行われたのは藤原・奈良時代にあたる。
⑥この南海道に直角や平行にラインが引かれ、条里制工事は進められていくことになる。
⑦その工事を主導したのは郡司たちで、地域の有力者であった。
⑧彼らは郡司として南海道沿いに郡衙や氏寺である古代寺院を建設することによって、かつての前方後円墳に替わるモニュメントとした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
岸の上遺跡調査報告書
四国学院遺跡調査報告書
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