岸の上遺跡 グーグル

前回お話ししたように、岸の上遺跡を通る大道が南海道であることが分かると、実際に南海道を歩いて調べてみようという動きも出てきているようです。その成果が「ミステリーハンターによる南海道調査報告書」として出されています。これはPDF fileでネットでも見ることができます。これをテキストに、丸亀平野の南海道を歩いてみることにしましょう。
  スタートは岸の上遺跡です。この遺跡からは、真っ直ぐに西に向かって伸びる南海道の側溝跡が出てきました。それが下写真の道路の左側の溝です。
岸の上遺跡 南海道の側溝跡

そして、遙か西に見える善通寺・五岳山の我拝師山に向かって道が伸びています。この市道が、かつての南海道になるようです。

岸の上遺跡 イラスト

 そして、この道の北側には総倉造りの倉庫(正倉)が5つ並んで出てきました。倉庫が見つかれば郡衙と云われますので、ここが鵜足郡の郡衙跡であることはほぼ確実となりました。南海道と郡衙が同時に出てきたことになります。
 この遺跡の南には古代寺院の法勲寺跡もあります。郡司として南海道や条里制工事を主導した鵜足郡の郡司としては、法勲寺を氏寺としたという綾氏が第1候補にあがってくるようです。

岸の上遺跡の150m西にあるのが下坂神社です。
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  郡衙に最も近い宗教施設になります。南側から見ると神が讃岐に降り立ったと云われる甘南備山・飯野山を背負っているように見えます。そして、鳥居の前を南海道通っていたのです。飯野山の里神社として古来より機能していたのではないかとも思えてきます。
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  境内に入っていくと大門から拝殿が見えます。そして、その向こうに飯野山があります。飯野山を御神体として祀っていたことがうかがえます。
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    本殿の裏には、御手洗池と名付けられた湧水があります。郡衙との関連を付けをしたくなる雰囲気に充ち満ちている神社です。
岸の上遺跡周辺 土器川までグーグル

下坂神社前の市道(旧南海道)は、西蓮寺のある東小川集落を抜けて土器川右岸に出ます。
岸の上遺跡 南海道大川神社

 ここには大川神社の大きな碑と燈籠が立っています。これは、雨乞の大川講の名残のようです。大川神社は雨乞いの神や安産の神として、広く信仰を集めてきました。里の集落では、大川神社を勧請して祠を建てこれを祀りました。また大川講を組織して一つの信仰集団を結成していたようです。
 大川講は吉野大峯山の山上講とよく似ていました。山伏を中心に、講の内容は、雨乞い講と安産講の二つに分かれていました。雨乞い講は主として土器川沿いに広がり、雨乞いのための代参が行われました。明治に入ると代参は廃れます。代わって大川神社を地元に勧請して、祠、または大きな石を立て大川神社を祀るようになります。
ここの大川神社については、琴南町誌によると次のように書かれています。
「明治二十五(一八九二)年六月の大旱銃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀った。ここは昔から五輪さんがあって雨乞所といわれ、旱魅の時臨時に大川神社の神を祀り雨乞いをした。すると必ず雨が降ったという。いつごろからか分からないが、大川講のようなものがあって、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀り雨乞いをした。また大川のお水を三角からもらってきて祀った。ここには地主神など祀ってあり、春と秋(現在は夏)にはお祭りをし、市なども行われる。春のお祭り(五月三日)にはよく雨が降った。ここは昔は、東小川、西小川、二村、西坂元の四か村がお祭りをしていたが、現在は地元だけでお祭りをしている。」

地神とともに大川講の跡が残っています。
 古代の土器川の流路は、よくは分かりませんが南海道ができたころはこの上流で東流し、大束川に流れ込んでいたようですので、ここが土器川の渡河地点とは言えないようです。
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 大山神社の下の河川敷は公園に整備されていました。こからも飯野山の美しい山容が望めます。

土器川を渡って西に進むと八条池の南側に出ます。
  この手作りの条里制地図は、善通寺の郷土資料館に展示されている物です。
岸の上遺跡 那珂郡条里制

これを見ると、土器川は①鵜足郡と②那珂郡の郡境ラインの役割を果たしていないことがよく分かります。①鵜足郡の8条は、現在の土器川の左岸(西)に入り込んできています。ちなみに⑤にある池が「八条池」です。これは鵜足郡の条里制の8条にあったからだということが分かります。
そして南海道は
那珂郡の13里と14里ライン
多度郡の6里と7里ライン
で赤いラインになります。このラインが基準ラインとして、南海道が建設され、これに直角・平行に条里ラインが引かれて条里制工事がおこなわれたと研究者は考えているようです。

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八条池からの飯野山   

八条池には冬になると、何種類もの鴨たちがやってきて羽を休めています。その湖面のむこうにも飯野山が見えます。白鳥は丸亀城で繁殖したものが移されているようです。
 ちなみに、丸亀平野のため池が作られるのは、近世になってからです。周囲の土器川の氾濫原の水田化とともにため池が作られた経緯があるようです。その際に、条里制区割りがされていた所に作られたため池は、四角い皿のような形になっています。条里線地割に沿って、土地を買収し掘り下げたためにこのような形になったとされます。これを皿池と呼んでいます。この池の隣の宝幢寺池は、その典型のような形です。しかし、この八条池は四角ぽくありません。凹地に堤防を作ってせき止めたことがうかがえます。そこからも、この地は条里制が施行されていなかった氾濫原や河道跡であったことがうかがえます。この北側の金丸池も旧河道跡に作られたものと私は考えています。

南海道 八条池と宝幢寺池
黒太実線が旧南海道

八条池からさらに西に進みたいのですが、旧南海道跡はこの辺りでは姿を消して、進めなくなります。この辺りでは大道としての機能をなくし、周囲の水田に次第にとりこまれていき姿を消したとしておきましょう。 
 南海道は宝幢寺池のすぐ南を通過していました。
この池は3つの池から出来ていて、上空から見れば分かるように池の中を堤防が渡っています。
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この内の宝幢寺上池では、冬になって水が抜かれ「池干し」されると、大きな石が池底から姿を現します。

 宝幢寺(ほうどうじ)跡(丸亀市) - どこいっきょん?

 この巨石は古代寺院の塔心礎です。
南海道 宝幢寺塔心礎

また、周辺からは古代瓦が今でも出てきます。その他の礎石類は出てこないので、17世紀後半に池が作られるときに、移動してどこかの堤に使われたのかもしれません。しかし、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺推定伽藍図
 
 丸亀市史には、宝幢寺廃寺について次のように記されています。
「寺域は方形、または南北に長い矩形である。伽藍配置はわからない。昭和十五年三月発行の『史蹟名勝天然記念物調査報告書』によると塔心礎の東に金堂がある法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと推定している。たしかに、古瓦の出土状況から考えると、心礎から南へ中門・南大門が建っていたよう にも思えるが断定はできない。」
 
 ここからは、塔を持った白鳳期の古代寺院が南海道に面して造営されていたことが分かります。
南海道が作られるのと、宝幢寺が建立されたのは、どちらが早かったのでしょうか?
それを解く鍵は、宝憧寺の中心軸と条里制地割軸の関係にあります。これが一致すれば条里制地割実施後に、お寺は作られたことになります。宝憧寺の場合は一致しないようです。南海道が伸びてくる以前に宝憧寺はあったと研究者は考えているようです。しかし、ここでも南海道は有力者の氏寺である宝憧寺のすぐ南を通過しています。南海道が軸となり、その周辺に郡衙や古代寺院、郡司の館などが集中して作られるようになったことがうかがえます。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘
発掘の際の宝幢寺心礎

 宝幢寺周辺の地名は「郡家」です。

地名からも、南海道に接するような近さの所に那珂郡の郡衙があったと研究者は考えているようです。また、この北の郡家小学校周辺には「地頭」や「領家」という地名も残っています。古代から中世にかけて那珂郡の中心は、この辺りであったようです。
南海道 那珂郡条里

  宝幢寺池を越えて、条里制地割が残る那珂郡の13里と14里の境界ラインを行きます。
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右の道が旧南海道で、その向こうには我拝師山が待っていてくれます。南側(左)ののっぺりとした山は大麻山で、南の象頭山へとつながります。この山も聖なる山で霊山として信仰の山でした。
  金倉川周辺でも氾濫原が幅広く、条里制施行が行われないまま放置されていた土地があったことがうかがえます。古老の聞語りでは、11師団がやってくる日露戦争前までは、金倉川の与北付近から市役所付近までは、氾濫原で放置された土地で、森や荒れ地となっていたことを以前にもお話ししました。
南海道 金倉川から四国学院


金倉川を渡ると尽誠学園の北側を西に進んでいきます。
土讃線から西側は、明治の第11師団設置で、各部隊の敷地になりそれまでの地形は、残っていません。
DSC01325十一師団

郵便局から東中学校までの広大なブロックは輜重部隊の敷地でした。

四国学院側 条里6条と7条ライン

そして、次のブロックが騎兵連隊の敷地で、現在の四国学院のキャンパスになります。
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      右側が図書館 この下を南海道は通っていた

その中に今回のゴールとなる図書館があります。
岸の上遺跡 四国学院側溝跡
図書館敷地の発掘調査図 下の溝が南海道側溝

この建設に伴う発掘で、ここからも南海道の側溝跡が出てきたのです。こうして、四国学院と飯山の岸の上遺跡の側溝跡は一直線で結ばれていたことが分かりました。つまり、これが南海道だということです。キャンパスからは今まで目標物として、導いてくれた我拝師山がひときわ大きく見えました。
 今回のコースは、
鵜足郡衙 → 那珂郡衙 → 多度郡郡
を南海道が一直線に結んでいました。その郷里は7,3㎞です。ゆっくり歩いても1時間半、駅伝制の馬を使えば30分足らずで結べる距離が国家の力によって整備され、郡長達はその整備された南海道沿いに郡衙や氏寺、館などを構えていたことが分かります。
 空海伝説の一つに、真魚と呼ばれた幼年期に善通寺から額坂を越えて国分寺まで勉学のために空海は馬で通っていたという話が伝わっています。それが、本当のように思えてくる交通路の整備ぶりです。
同時に、各郡長が横並び意識をもちながら地方政治を担当していたこともうかがえます。
  

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   ミステリーハンターによる南海道調査 南海道を歩く

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