瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

まんのう町図書館の郷土史講座で、以下の通りお話しすることになりました。
テーマ 西嶋八兵衛と満濃池
日時 6月28日(日) 10:30~12:00
場所 まんのう町図書館
定員 20名(要予約)
詳しくは、こちらを御覧下さい。
https://tono202.livedoor.blog/archives/34613262.html#:~:text=%E6%9C%8804%E6%97%A5-,%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%86%E7%94%BA%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E9%83%B7%E5%9C%9F%E5%8F%B2%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E3%80%80%E8%A5%BF%E5%B6%8B%E5%85%AB%E5%85%B5%E8%A1%9B%E3%81%A8%E6%BA%80%E6%BF%83%E6%B1%A0,-%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%82%82%E3%81%BEまんのう町図

 南海道 八条池と宝幢寺池

宝幢寺池は丸亀市の郡家にあります。3つの池がパズルのように組み合わさって四角い形をしています。その南を南海道が通過しています。宝憧寺池の下池は、冬になり池干しのために水が抜かれると、塔心礎の大きな石が現れます。
宝憧寺 心礎遠景

ここには、古代寺院があったようです。それがいつの時代かに廃寺になり水田化されていたのを17世紀になって、池が築造されることによって池底に沈んだようです。昔から宝幢寺と呼ばれていたので、出来上がった池も宝幢寺池と呼ばれるようになります。この池から出土したもの、池を築造する際に移転したものなど探りながら、宝憧寺について見ていくことにします。
  DSC00285

 金倉寺の古記録(香川県文化財保護調査会『 史跡名勝天然記念物調査報告第11所収』 には、宝憧寺のことが次のように記されています。
「此寺者清和天皇貞観年中 智證大師開基ニテ 自作之聖観音所安置之精舎也、即大師開基十七檀輪中ノ其十一二而堂塔僧院数多有之侯所 天文争乱二伽藍不残破壊仕り 基跡用水池卜相成宝瞳寺池卜云今池中二大塔礎石―ツ相残 り、古瓦箸多御座候」
意訳しておくと
この寺は清和天皇貞観年中(859年~877)に智證大師が開基し、自作の聖観音菩薩を安置した。つまり智証大師が開いた十七の寺院の中の十一番目の堂塔で僧院も数多くあった。しかし、天文年間の争乱で伽藍は残ず破壊された。その後、寺院跡は用水池となって宝瞳寺池と呼ばれるようになった。今この池の中には大塔礎石がひとつ残っている。また古瓦も数多くある。
 
ここからは次のようなことが分かります。
①宝憧寺は貞観年中(9世紀後半)に智證大師作の観音菩薩を本尊として建立され、
②天文年間 (1552~ 1554)に「伽藍は残らず破壊」され戦国乱世 に荒廃した。
③天明5(1785)に里正小笠原輿衛門によって宝瞳寺跡に溜池が築かれ、礎石が残る
しかし、出土した瓦は、四重孤文軒平瓦、複弁蓮華文軒丸瓦などで、奈良時代前期や白鳳時代のものです。古代の郡司レベルの豪族達の氏寺として建立されたと考えるのが妥当のようです。智証大師以前に作られた古代寺院のようです。
DSC00276

文献資料では、宝憧寺があった中世の郡家郷は、
①15世紀半ばの鎌倉時代に後嵯峨上皇預となり
②嘉元4(1506)年『御領目録』には、前右衛門督親氏卿の所領
と中央の権門勢家の荘園となっていたことが分かります。そのような情勢を伝える地名として、郡家小学校周辺には『 地頭 』『 領家 』などの地名が残ります。
これらの資料を受けて宝幢寺について、丸亀市史は次のように記します
白鳳時代に創建された寺で、創建されてから800有余年にわたって繁栄したが、永禄元年(1558)、阿波の三好実休が讃岐を支配下に置こうとして、多度・三野・豊田の三郡を領有していた香川之景を攻めて那珂郡に侵入した永禄合戦の際に兵火にかかり、再興に至らずついに廃寺となった。
 慶長年間に宝憧寺池、続いて寛永9年(1672)に上池(辻池)が築造された」
とあります。
これだけの予備知識を持って、現場に行ってみましょう
宝憧寺 心礎近景

冬になって水が抜かれて池干しされると、宝憧寺上池には大きな石が水の中から姿を現します。 かつて放置されていた礎石類も今は、心礎周辺に配置されています。礎石は動かせても、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺塔心礎

 この石は花嵩岩の自然石で、最大南北185㎝、東西約230㎝、高さ約67㎝の大きなもので、池の築造の際に動かせなかったというのも分かります。しかし、古代の建立時には、ここまで運んできています。考えられることは
①近世の灌漑水掛かりのエリアから集められる労働力では動かすことは出来なかったが、古代の郡司クラスの有力者の動員できる労働力では移動可能であった
②古代には、渡来人系の専業技術者集団がいて、少人数でも移動させることの出来る技術や工具を持っていた。
③近世の人たちには、移動させたり利用する意図がなかった。人柱のように、水に沈めた方が自然であった。
まあ、頭の体操はこのくらいにしておきましょう。

断面図を見れば分かるように、平坦にされた上面に柱座が彫られ、その中央にU字型に舎利孔がうがたれています。段の部分を舎利を入れた心孔の蓋と考えると、二重式心礎ではなく、三重式心礎になるようです。心礎上面には、排水溝も掘られています。
 心礎の設置工法は、飛鳥時代は地下式心礎、白鳳時代は地表に露出する工法が一般的と云われているようです。宝幢寺の心礎は、心礎上面が池の外側の水田面より約50㎜、現地表面より70㎜ほど高いので地表に出ていたことがうかがえます。心礎の設置状況や形状からは、白鳳時代の特徴をよく示す心礎で、建立当時から動かされた形跡はないと研究者は考えているようです。

調査報告書には、トレンチを入れた調査の結果を次のように記します
宝憧寺 トレンチ
  
①心礎を中心として土壇が広がり、その上面にはおびただしい河原石が散らばっている
②土壇は、上池からの通水のために、二箇所で掘削されている
③その上面も、築堤以来の土手改修などによって、何度も大規模に削平されている。
④土壇上が良質の粘質土のため壁土やカマド用に、地元民が土取りを行ってきた痕跡がある。
以上によって、旧地表面は完全に失われていたようです。
伽藍の形式は分かったのでしょうか?
①土壇は、東西方向の長さが90m。南北方向は、北辺のみ確認できた。
②仁池や上池の池中からも瓦片が多数でてくることから、寺域は2つの池にも及んでいた
③伽藍形状は方形か、南北に長い矩形
④伽藍配置については、部分的な発掘のために分からない。
⑤上壇の南北方向の軸は、N20°Wで、丸亀平野の条里遺構N50°Wと大きくズレがある。
⑥土壇は、5層からなっていて土壇として造成された第1層と第2層は、粘質土に河原石を混ぜて固めたもので、県下には類例のないものである
⑦塔心礎以外に礎石はない。
現在心礎の周りに並べられている礎石群は、その後の堤防工事などで出てきた者を無作為に並べてあるようです。

昭和15年発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告第 11』 には、次のような記載があります
金堂は基壇と思しき土壇あって東西約25米 、南北約20米である。塔婆は基壇と思しき土壇 あって東西約15米、南北も同 じく約15米である。心礎を中心として瓦礫が散在 している。金堂と塔婆の間隔は10米、金堂より東方20米 、塔婆より西方20米 にて寺域が終わっている。

80年前の戦前に書かれたこの報告書には、塔心礎の東に金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと以下のような配置を推定しています。その根拠は、古瓦の分布密度から心礎から南へ中門・南大門が建っているとの推察です。

南海道 宝幢寺推定伽藍図

 もし法隆寺式の伽藍配置とすれば、塔跡の東に金堂の土壇があるはずです。しかし、1980年の発掘調査では、土壇の跡を発見することはできなかったようです。そのために丸亀市史は、伽藍配置は「不明」としています。

 戦前は、古代寺院を中央の大寺の分寺として捉えようとする傾向が郷土史家には強かったようです。そのため
「宝幢寺は、那珂郡の郡司庁の所在地であったし、法隆寺の荘園でもあったので、その分寺が建てられたものと思われる。」

と考えられていたようです。今は、東大寺が讃岐に置いたのは拠点で、寺院と呼べるものではなかったことが分かっています。代わって白鳳時代の寺院建築には、壬申の乱以後の政治情勢が色濃く反映していると研究者は考えるようになっています。つまり地方の有力豪族の論功行賞の一環として古代寺院の建設が認められるようになり、争って地方の有力豪族が建立を始めたというストーリーです。そうだとすると考えなければならないのは、次のような点です
①郡家に宝幢寺を氏寺として建立した地域有力者とは何者か?
②彼らの祖先の古墳時代の首長墓はどこにあるのか?
③どのようにして古代寺院の建築技術集団を招いたのか。
④周辺の有力者とは、どんな関係が結ばれていたのか(善通寺の佐伯氏 金蔵寺の因岐首氏)
⑤多度郡や鵜足郡では、古代寺院と郡衙と南海道はセットで配置されているが那珂郡ではどうなのか
  これらを課題としながら出てきた見てみましょう
宝憧寺池、仁池などから出てきた瓦には次のようなものがあるようです。
 ●八葉複弁蓮華文軒丸瓦(奈良時代)
 ●四重弧文軒平瓦(白鳳時代)
 ●均正唐草文軒平瓦
  ・そのほか多数の布目平瓦
宝憧寺 出土瓦1


これらの瓦は、どこで焼かれ宝憧寺まで運ばれてきたのでしょうか
その一部は、鳥坂峠を越えた三豊市三野町の宗吉瓦窯跡で焼かれたことが分かってきました。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯跡

宗吉瓦窯は、初めての瓦葺き宮殿である藤原京に瓦を供給するために作られた最新鋭のハイテク工場だったことは以前にもお話ししました。その窯跡からは,いろいろな種類の瓦が出土 しています。その中の軒丸瓦は、単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので,これは三豊市の豊中町の妙音寺のものと同笵でした。
また8号瓦窯からは、重弧文軒平瓦,凸面布目平瓦などが出土し,その中の軒瓦が宝幢寺跡から見つかっていた瓦と同笵であることが分かっています。つまり、三野町の宗吉瓦窯で焼かれた瓦が、妙音寺や宝幢寺に運ばれて使われていたということになります。
宝憧寺 軒丸瓦

これまでの調査からは、次のような事が言えるようです。
①宗吉瓦窯は、在地有力氏族によって造営された妙音寺や宝幢寺跡の屋瓦を生産する瓦窯として作られた
②その後,藤原宮所用瓦を生産することになり、多くの瓦窯が増設された。
③そこでは藤原京用に,軒丸瓦6278B,軒平瓦6647Dの同笵瓦が生産された
また、宗吉瓦窯から南500mには古墳時代後期に操業を開始した瓦谷古窯や7世紀前半から8世紀初頭にかけて操業した三野古窯跡群などの須恵器窯が先行して操業していたことが前提条件 になっていたと研究者は考えているようです。
 つまり、三豊湾沿岸東部は7世紀前半から8世紀初頭にかけて,讃岐で最大の須恵器生産地であったのです。そのような中で、須恵器生産エリアを支配下に置く有力者が、自分の本拠地に氏寺を造営することになります。その際に、瓦技術者を誘致すると共に。それまでの須恵器工人を組込むことによって、自分の氏寺用の瓦生産を行ったようです。その結果、完成するのが豊中町の妙音寺です。これが7世紀半ばから末にかけてだったことが出土瓦から分かるようです。そして、この寺院建立を行ったのは、壬申の乱で一族に功績者が出た丸部氏だと研究者は考えているようです。
当時の氏寺建立は郡司クラスの地方豪族のステイタスシンボルでした。
空海の佐伯家や智証大師の因岐首氏を見ても分かるとおり、地方豪族の夢は中央政府の官人となることでした。そのステップが寺院建立であったのです。ある意味、古墳時代の首長たちがそのシンボルである前方後円墳を競って築いたのと似ているかもしれません。
 丸部氏の氏寺建立を見て、多度郡や那珂郡の郡司達も氏寺建立に動き始めます。その際に協力を求めたのが、すでに寺院を完成させている丸部氏です。彼を通じていろいろな技術者集団との連絡を行ったのかもしれません。そして、実績のある宗吉瓦工場へ瓦を発注したことが考えられます。
 瓦は三野町からどのようにして運ばれてきたのでしょうか。
  大日峠越えの南海道が整備されるのは8世紀初頭で、まだできていません。鳥坂峠越えの道を、人が担いで運んだのでしょうか。
三野 宗吉遺跡1

考えられるのは、舟を使った運搬です。以前にもお話しした通り、当時の宗吉瓦窯跡は、三豊湾がすぐ近くにまで湾入してきていました。そこで舟で多度津の堀江港か、土器川河口まで運んだことは考えられます。その輸送実績が、藤原京用の瓦受注につながったのかもしれません。どちらにして、古代の宝幢寺や善通寺の瓦は三豊から運ばれてきたことを押さえておきたいと思います。
ここからは隣接する郡司(有力豪族)間の協力関係がうかがえます
 当時は白村江の敗北や壬申の乱など、軍事的な緊張が続く中でその対応策として、城山や屋島に朝鮮式山城が築かれ、軍道的な性格として南海道の工事も始まろうとしていました。これらの工事をになったのは各郡の郡司だちです。かれらは、府中の国府に定期的に出仕もしていたようです。
そのため軍事的緊張下での大土木工事は、地方有力者の求心力を高めるベクトルとして働いたのでないでしょうか。
各郡の郡司と氏寺を次のように想定しておきましょう。
多度郡の佐伯氏  氏寺は 仲村廃寺・善通寺
三野郡の丸部氏      妙音寺
那珂郡の因岐首氏     宝憧寺
鵜足郡の綾氏       法勲寺
彼らは、緊密な関係にありそれが氏寺造営にも活かされたとしておきましょう。今回は、宝憧寺の瓦までです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
小 笠 原 好 彦 藤原宮の造営と屋瓦生産地  日本考古学第16号
丸亀市教育委員会  宝憧寺跡発掘調査報告書1980年

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