1善通寺宝物館11

 この顔を最初に見たときには、お宅は何者?という印象でした。
今も善通寺の宝物館の階段を上がった入口に、白鳳瓦と並んで迎えてくれます。善通寺の創建に関わるものなのだろうと思いましたが、仏像とは思えません。金堂などの壁面に掛けられたものかと思っていました。後になって、これが善通寺創建当初の本尊と考えられていると知って、驚いたことを思い出します。

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 最近改めて、この仏頭にお会いする機会がありました。改めて、拝ませていただきました。この藁荷混じりの粘土に作られた仏さまのお顔のようです。
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専門家の見立てを見てみましょう。
 長さが36.5㎝におよぶことなどから、丈六の如来像の面部にあたると推定される。表層仕上げの中土がほとんど失われ、鼻先などを欠失する。
 しかし、稜線を隆起させて大きな弧を描く眉や、蒙古装を明瞭に刻んで上瞼を微かにうねらせつつ目尻をあげる細い目、口角を強く引き締めた唇、頬のふくらんだ顔の輪郭など、総じて整ったバランスと厳しさをしめすその顔立ちには奈良時代中頃の仏像に共通する趣が感じられる。
 奈良時代の塑像は国分寺・国分尼寺の造営などにともない全国的に展開したと推定され、断片も各地で発掘されているが、そのなかにあっても本品のような大型面部の遺存は稀であり、また正統的な作風から中央と密接な関係にあった工人の手になることが推測されるなど、当時の讃岐地方の先進性を知るうえで貴重な遺品として注目される。
 粘土で作られた奈良時代の大型仏像で、「中央の工人による正当な作風」と評されています。

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奈良時代と云うことは、空海の生まれた時代です。善通寺は、佐伯氏の氏寺として白鳳時代に創建されたとされます。奈良時代になって本尊として作られ安置されたものということが考えられます。
この「如来系頭部」について、後世の史料が、どう伝えているのかを見てみましょう。

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 江戸時代の元禄九年(1696)の『霊仏宝物目録』には、善通寺の宝物一覧リストです。その一番最初に次のように記されています。
  土彿薬師如来 
四階金堂之本尊 則弘法大師自作而丈六之尊像也」

ここからは
①如来系頭部が土仏と呼ばれ薬師如来で
②金堂の本尊で
③弘法大師作の丈六尊像
と伝わっていたことが分かります。
 13世紀の道範の『南海流浪記』 から分かることは?   
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高野山の寺務を掌る執行という地位にあった道範は、金剛峯寺と大伝法院との間で起きた紛争の責任を取らされて、讃岐に流されました。仁治四年(1243)正月のことです。彼が建長元年(1249)五月に赦されて高野山に帰るまで六年間の讃岐生活を綴った『南海流浪記』は鎌倉中期の讃岐の様子を知る好資料です。道範は守護所のあった宇多津の橘藤左衛門高能という御家人のところに預けられましたが、行動はある程度自由だったようで、3月には高野山の開祖空海の誕生地善通寺を訪れています。
 道範が見た善通寺は、創建当時の堂舎・宝塔などの多くは失なわれて礎石だけになっていたようです。
しかし創建時の金堂は残っていました。この金堂は二階七間で、空海が学んだ唐の青竜寺を模して、二階に少し引き入れて裳階(建物の軒下壁面に造られた廂様の差掛)があるので、四階の大伽藍のように見えたと次のように記しています。
「御作ノ丈六ノ薬師三尊四天王像イマス。皆埋(握)佛ナリ。後ノ壁二又薬師三尊半出二埋作ラレタリ」

ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師御作の丈六の薬師三尊と四天王が安置されていたこと
②これらはみな埋仏(提仏の誤りで、粘土で作った塑像のこと)だったこと
③うしろの壁にも薬師三尊が浮彫(埋作)されていたこと

当時の善通寺金堂は、どんな姿をしていたのでしょうか。
  それをうかがわせてくれるのが道範が去ってから約半世紀後の徳治2年(1307年)に製作された「善通寺ー円保差図」です。ここには善通寺周辺の寺領(一円保)と条里制・灌漑用水などが書き込まれています。
金倉川 10壱岐湧水

東院と西院を拡大して見ましょう
1善通寺一円保

14世紀初めの善通寺には、4階建てに見える本堂を中心に、多くの堂宇が立ち並んでいたことが分かります。
  中央のAが金堂のようです。
道範は、次のように証言しています。
「二階七間也、青龍寺の金堂ヲ被摸タルトテ、二階二今少々引入リテ層あるが故二、打見レハ、四階大伽藍也、是ハ大師御建立、千今現在セリ」

と証言しています。青龍寺は、唐密教を空海に授けた恩師の寺の名です。それを模したお寺だといいます。そうすると、善通寺は8世紀末に建立された白鳳期の寺院とされているので、この建物は創建時ものではないことになります。「空海建立」とすれば、その後の9世紀に空海が再建・修造したことになります。
  金堂の左下にあるのがBが。宝塔か法華堂のようです
「本法花堂卜云フ、大師御建立二重ノ宝塔現存ス、本五間、令修理之間、加前広廂一間ヲ云々」
とあります。
宝塔の左下はC護摩堂で、道範の時代には「破壊」していたとあります。ここに記されているのでその後に再建されたのでしょう。
宝塔の左上、金堂の横にあるのがDが御影堂。
金堂の下にあるのはE講堂、
右下はF常行堂のようで、
「七間ノ講堂ハ、破壊シテ後、今新タニ造営」
「五間常行堂御作ノ釈迦ノ像イマス、同ジク新二造立」

と記されています。
境内を示す四角枠の上辺中央のGが南大門でしょう。
そばには大きな松が描かれています。道範はこれを
「其門ノ東脇二、古大松、寺僧云、昔西行、此松ノ下二七日七夜籠居」

と書き残してくれています。西行は、当時の知識人の憧れる人物でした。西行と関係のある所は、「聖地」扱いされていました。西行は、崇徳上皇の御霊をともらうために讃岐白峰寺に、仁安二年(1167)にやってきます。その後は、空海の生誕地である善通寺の背後の霊山である我拝師山近くに三年間逗留します。空海が捨身行を行った行場で修行を行ったようです。『山家集』にも我拝師山・筆の山に登ったこと、伽藍四門の額が破壊されて心細かったことなどが書かれています。西行は、歌人として有名になりますが、高野の念仏聖でもあったことをうかがわせてくれます。
伽藍から誕生院(西院)にむけて二本の直線が描かれています。
「金堂の西に一ノ直路有り、 一町七丈許りなり」

と書かれたこの道を進むと、板葺の唐門に正面の築地塀、三方柴垣の誕生所に至ります。中央の建物は、建長元年(1249)建立の道範自身か導師となって鎮壇法を修した御影堂のようです。この年に、道範は許されて高野山に帰っていきます。
善通寺一円保絵図 伽藍拡大図jpg

一円補差し図をもう一度見てみましょう。金堂の上には、縦に二つ点線の四角が見えます。
金堂すぐ上のものには真ん中に小さな丸があります。これが塔の心礎のようです。
『平安遺文』に延久二年(1070)に、大風のため転倒したと記される五重塔跡のようです。だと研究者は考えているようです。こうしてみると、善通寺の伽藍配置は四天王寺式だったようです。
 さらによく見ると、金堂の右手鐘楼のすぐ右に、やはり点線の四角があります。これも西塔跡ではないかと研究者は指摘します。鎌倉末期の善通寺文書に「両基の塔婆顛倒せしむるによって……」とあります。ここからは「両基の塔婆=ふたつの塔」があったことがうかがえます。
この一円補差し図は、いろいろなことを教えてくれます。

その後の善通寺は、永禄元年(1558)の阿波の三好実休の天霧城攻防戦も際に、本堂は焼け落ちたと伝えられます。
この「土仏(埋仏)」の裏面には、火中痕跡が残っています。善通寺の金堂基壇の南側からは奈良時代中葉以前の瓦が大量に出土しています。「南海流浪記」に記される「金堂後壁に半出の薬師三尊」が、現在の宝物館に展示されている「如来系頭部」と研究者は考えているようです。

今までのことをまとめておきましょう。
①白鳳時代に条里制に沿う形で善通寺は、佐伯氏によって建立された
②奈良時代に本堂には塑像の丈六薬師如来像が安置された
③鎌倉時代にやってきた道範は、それを見ている
④戦国時代の阿波三好氏の天霧城攻防戦の撤退時に本堂は焼け落ち、頭部だけが残った
⑤江戸時代には、仏頭は創建時の薬師如来のものであると伝えられてきた。
ここからは、この仏塔が善通寺創建時からの本尊釈如来像である可能性が強いことが分かります。そうだとすると、空海は幼い日からこの薬師如来を身近に見てきたことになります。もちろん現在の姿とは大きく異なっていたものでしょうが・・・。
 そして、この薬師さまは、幼い日の空海の見守っていたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献