善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。青銅祭器が一ヶ所に埋納されていたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。
これらの青銅祭器を使って祭礼を行っていたのは、旧練兵場遺跡の集落の首長(シャーマン)のようです。かつては銅鐸と銅剣は
「銅鐸(近畿)文化圏と銅剣・銅矛(九州)文化圏のどちらかに属する勢力がせめぎ合うことを示す証拠」
のように云われてきました。しかし、島根の荒神谷遺跡からは銅鐸と銅剣が同時に埋葬されて出てきました。我拝師山からも、銅鐸と銅剣は一緒に出ています。今では、銅剣と銅鐸が相対立するシンボルとは考えられなくなってきました。
この旧練兵場遺跡では、いろいろな青銅器祭祀を使って祭礼を行っていたと研究者は解釈するようになっています。
青銅祭器のエリア分類を確認しておきます。
①銅鐸は近畿地方を中心とした青銅祭器であり②銅剣・銅矛は九州地方を中心として盛行したものである。
②の銅剣は、中細形銅剣と平形銅剣の大きく2つに分かれます。讃岐に関連するのは平形銅剣です。善通寺の瓦谷から出てきた平形銅剣をみてみましょう。
弥生時代中期 前1世紀~1世紀 長46.0㎝ 幅11.1㎝ 厚0.3㎝
銅剣は、弥生時代前期に朝鮮半島よりもたらされます。弥生時代中期には早くも国産化が始まりますが、その際に実用品であった武器形の青銅器は、大型化・祭器化してこんな形になるようです。身は薄く先も丸く、刃は研がれていません。武器としての実用性はまったくなくなっています。茎や樋が痕跡のようにかろうじて残るだけです。
それでは、この平形銅剣はどんな地域から出てくるのでしょうか。
平形銅剣の出てくる範囲を愛媛に広げてみてみましょう
平形銅剣について愛媛県史には次のように記されています。
愛媛の平形銅剣は41本と爆発的にその数が増加している。これらの地域別の内訳は東予地方17本、中予地方21本、南予地方3本となり、県下均一に分布しているとはいい難い。最も出土数の多い中予地方も一本を除いたすべてが、松山市の城北地域に集中している。特に石手川の右岸の扇状地の扇端部に近い松山市道後今市(もと一万市筋)から10本、樋又から7本、道後公園東から3本と、狭い範囲に集中している。これら平形銅剣を出土した三ヶ所はいずれも至近距離にあり、周辺には弥生中期から後期にかけての遺跡がほぼ全面にわたって分布している。この地域は水に恵まれた地域でもあり、古くから稲作が行われていたことは土居窪遺跡の調査によっても明らかである。これら東・中予地方の銅剣の出土分布をみると、沖積平野の広さと出土数との間に明らかに相関関係を認めることができる。このことは沖積平野における人口数、すなわち統合集団の数をあらわしているともいえるし、その埋納の状態から小国家群が統合される状況をうかがうこともできる。
愛媛県からは銅鐸が出てきません。非ヤマト色の強いエリアなのです。出てくるのは銅剣と銅矛がほとんどです。その内の平形銅剣を見てみると、松山の特定地域に集中しているのが分かります。旧練兵場遺跡のような拠点になる弥生集落があったことが分かっているようです。そこからは「小国家群が統合される状況」が見えてくると指摘します。
青が平形銅剣の分布エリア
ちなみに、芸予諸島の島嶼部からは出てきません。また、瀬戸内海の対岸である広島や岡山からは、出てきますが松山や善通寺に比べるとその数は少ないようです。松山と善通寺が平形銅剣文化圏の中心なのです。
ここまでをまとめておくと
①北九州の銅鉾文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏の中間地帯にあって、平形銅剣が出土している広島・愛媛・香川・徳島・岡山南部は平形銅剣文化圏という一つの文化圏を形成している。②その中でも平形銅剣は松山平野や丸亀平野の大規模集落周辺から多くが出土している。③そのため平形銅剣は松山平野での作られた可能性も指摘されている。
また、平形銅剣を出土するエリア地域は、弥生中期末の凹線文土器の出土範囲と重なります。単に青銅器だけでなく、交易や文化・人的な交流が瀬戸内海を通じて、瀬戸内海の「小国家群」が舟で活発に行われていたことがうかがえます。善通寺の旧練兵場遺跡も、この瀬戸内海・平形銅剣エリアの重要メンバーだったことが推測できます。
「平形銅剣文化圏」形成の背景は何なのでしょうか?
平形銅剣は、瀬戸内沿岸の小国家が新しく作りだした自分たちの独自のシンボルだったと研究者は考えているようです。その背景には、弥生時代中期(BC2C前後)になって、高まる北部九州の政治的権力の脅威に対して、瀬戸内のクニグニが抱くようになっていた強い政治的緊張があったとします。銅鐸でも銅矛でもない新しいタイプの祭器を採用し、そのもとでの「同盟・連合」を計ったというのです。それは北九州勢力への脅威に対抗するためだった推測します。
クニやオウが現れた弥生時代中期の動きを見ておきましょう。
それにはマツリの変化が手掛かりとなようです。
北部九州で中期前葉(前二世紀後半)に始まった青銅のマツリの第1段階は、銅鐸と銅剣・銅矛の共存でした。
①北部九州では、銅矛と銅戈が祭器シンボルになっていきます。②近畿周辺では、銅鐸が青銅祭器マツリのシンボルになります。③その中で、瀬戸内は銅鐸と銅剣の共存を図りながらも、しだいに平形銅剣をシンボルとしていくようになります。
こうして、中期後半(前一世紀後半~一世紀前半)第Ⅱ段階には、それぞれの地域が独自のマツリのシンボルを掲げだしたようです。
なぜそんな現象が生まれることになったのでしょうか?
それはいち早く国家を生み、苛酷な階級社会に足を踏み入れた北部九州と、未だ縄文的階層社会を引きずりながら祭祀的に統合をはかり国家を生み出しつつあった西日本との違い
と研究者は考えているようです。「国家統合の進んだ北九州、遅れた近畿」ということでしょうか。
北部九州が銅剣や銅矛などの武器形青銅祭器を、シンボルとした背景には、小国家同士の戦いがあったようです。武力をもって自らのクニを守り、他を威嚇することが日常化した中では、武器形はシンボルとしては素直に受けいれられるオブジェだったのでしょう。
一方、近畿周辺のいまだ緊迫感がさほど現実的でなく、農業の経済的発展を重視するような社会では、穀霊を加護し、生産の安定をはかってくれる呪器(銅鐸)がシンボルに選ばれたと研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡で平形銅剣を使ったマツリが行われた時期は、いつなのでしょうか?
善通寺瓦谷からは製作時期が違う中細形銅剣、同銅矛、平形銅剣の3型式の青銅祭器が一括埋納されていました。古くから伝わっていたものを長く使っていたようです。その中で最も型式的に古いものは瓦谷7号中細形銅剣のようです。現在まで、中細形銅剣の最も古い鋳型は、九州と近畿で1例ずつ出土しています。(佐賀県姉遺跡中期初頭~中尋兵庫田能遺跡中期前葉末~中葉)。瓦谷の例は、これらより型式的には後のものになるようなので、平形銅剣の祭器が行われたのは中期後葉と研究者は考えているようです。
漢書地理志が「楽浪海中に倭人あり 分かれて百余国をなす」と記す時代です。
百あまりの小国家のひとつが松山平野や丸亀平野にはあったのかもしれません。それは、平形銅剣文化圏の中心国であったとしておきましょう。
百あまりの小国家のひとつが松山平野や丸亀平野にはあったのかもしれません。それは、平形銅剣文化圏の中心国であったとしておきましょう。
三豊市高瀬町北条出土の平形銅剣
旧練兵場遺跡で平形銅剣が使用されなくなった時期はいつなのでしょうか。
旧練兵場遺跡の西にあたる観音寺市の一の谷遺跡からは、平形銅剣の破片が柱穴に廃棄された状態で出土しています。破片の状態ということと、出土状況、再加工を施した痕跡があることなどから、青鋼祭器としての機能を失っていたものが再加工されて何かに使われていたようです。それがいつ頃のことなのかは、一緒に出てきた土器などがないのでよく分からないようです。しかし、一の谷遺跡が終末期の集落であることから、弥生終末期の時期には破棄されたと研究者は考えているようです。卑弥呼の登場が3世紀前半ですから、その50~100年前の倭国大乱以前のことになります。
旧練兵場遺跡の特徴の一つが弥生時代から古墳時代末期に至るまでの遺跡が継続して見られる事です。
この時期には居住エリアが12ケ所に増えます。これが「善通寺王国」の原型になるようです。
①居住域3は住居が密集し、人口密集率がもっとも高いエリアです。②居住域3と居住域2の間の凹地からは、松山・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中して出ています。③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきました。④居住域2の竪穴住居内からも他地域からの搬入土器が出てきた。
ここからは、瀬戸内海を通じた交易活動が活発化し、瀬戸内海沿岸の小国家から搬入された土器が増えているようです。また九州タイプの住居や豊前の土器が出てくることは、そこからの移入者や「常駐駐在員」がいたことがうかがえます。外部との交流が活発化するにつれて、居住域2・3は、遺跡のコア単位に成長し、外部との交流を受け持つ施設に特化したようにも見えます。
青銅器マツリが終焉を迎え、平形銅剣などが埋葬された弥生時代終末期の旧練兵場遺跡を見てみましょう。
居住エリアは15ケ所に増えています。旧練兵場遺跡のスタート時点では、善通寺病院地区の居住域3に遺構が集中していました。それが、この段階では、分散的な傾向を示すようになります。
①中でも居住域8は、竪穴住居が密集し「コア地区」で、その周辺に子集落が形成されています。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できる体制が生まれたようです。これ以降には、確実に鉄器が増加していきます。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。
鉄の普及が集団を大きく変えていくことになるようです。鉄を手に入れるために、旧練兵場遺跡は何を見返り商品として提供したのでしょうか。疑問は膨らむばかりです。
鉄の普及が集団を大きく変えていくことになるようです。鉄を手に入れるために、旧練兵場遺跡は何を見返り商品として提供したのでしょうか。疑問は膨らむばかりです。
銅剣については小林行雄が、銅鉾が外洋航行に伴う祭器であるのに対し、平形銅剣は瀬戸内海沿岸にのみ集中して発見されていることから、内海の海の神への祭祀の祭器としています。
しかし、愛媛県や香川県の銅剣の出土地をみると島嶼部からの出土が全くありません。ここからは、平形銅剣を瀬戸内海の海上交通にかかわる祭器とすることはできないようです。また、松山市今市出土の平形銅剣には鹿の絵が鋳出されています。これは銅鐸の狩猟図と共通します。平形銅剣も豊作を祈り、あるいは農耕を称える農耕儀礼に使われたと多くの研究者は考えているようです。
四国では見つかっている平形銅剣は136本です。その内、松山平野と丸亀平野で6割を占めるようです。この二つの地域を中心に、東進してくる九州勢力への脅威に備えるための連合のシンボルとされたのが平形銅剣を祭器とするマツリだったようです。
そして、卑弥呼が現れる3世紀になると銅剣や銅鐸は埋められ、姿を消します。代わって登場するのが鏡になるようです。
そして、卑弥呼が現れる3世紀になると銅剣や銅鐸は埋められ、姿を消します。代わって登場するのが鏡になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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