讃岐地には2000を超える横穴式石室墳が築かれたようです。しかし、多くは失われてしまいました。現在、石室の規模や形が分かっているのは、その約1/10の235になるようです。その玄室規模 (面積) をグラフで示すと次のようになります。
ここからは次のようなことが分かります。
ちなみに①玄室床面積5㎡前後の石室が最も多く、8㎡未満の横穴式石室 が 全体の約8割②10㎡ 級の石室は26基で、全体の一割強
③13㎡を超える大型クラスはわずかに8基
床面積5㎡では、玄室長3,5m 幅1,2m 、
床面積8 ㎡では、 4m 幅2m ほどの広さになります。
大形の横穴式石室墳(玄室床面積8㎡以上)がどこに多いか見てみましょう
A 石室が13㎡を越える大型古墳(赤)は、①大野原②綾北③善通寺にしかないB また大型横穴式古墳は、大野原と綾北に集中するC 東讃に大型巨石墓は少ないD 中小河川沿いに大形石室墳が少なくともひとつはある。
A・Bからは、古墳時代末期において①大野原や②綾北平野を拠点にする有力者がいたことがうかがえます。
Cからは、東讃がすでにヤマト政権下の直接統治を受け始め、大型横穴式古墳を造れる首長達が少なくなったことを示すのかもしれません。
Dからは、律令制国家になると讃岐では河川水系ごとに「郡」を設置されます。河川毎に、大型横穴式古墳があるというのは、後の郡領相当の有力者をこのクラスの大形石室墳の造営者層と考えることも出来ます。しかし、巨石墳の分布上の偏りがはっきりと見えます。
Cからは、東讃がすでにヤマト政権下の直接統治を受け始め、大型横穴式古墳を造れる首長達が少なくなったことを示すのかもしれません。
Dからは、律令制国家になると讃岐では河川水系ごとに「郡」を設置されます。河川毎に、大型横穴式古墳があるというのは、後の郡領相当の有力者をこのクラスの大形石室墳の造営者層と考えることも出来ます。しかし、巨石墳の分布上の偏りがはっきりと見えます。
ここでは、綾川河口の綾北平野に注目してみましょう。
綾北平野に讃岐では超大型の横穴式古墳が多いことが改めて分かります。 研究者は次のようなグラフも用意しています
一番右のグラフで見方を説明すると、讃岐の13㎡ 超クラスの8基の地域別数を示したグラフです。真ん中に8基とあるのが讃岐にある古墳数です。綾北平野が赤、三豊が黄色で示されています。阿野郡北部にあたる綾北平野と椀貸塚古墳・平塚古墳などの3つの巨石墳が並ぶ大野原古墳群が突出しています。6世紀末期の蘇我氏全盛時代には、この2つのエリアに、讃岐の最強勢力はいたと言えそうです。
大型石室墳が集中する綾北平野の後期古墳 ( 横穴式石室墳 ) の分布を見てみましょう
ひとつは、城山温泉周辺の醍醐古墳群です。
ここには、綾北平野最大の巨石墳があります。醍醐 2 号墳 (15.8 ㎡) と同 3 号墳 (15.6 ㎡)です。 三豊 南 部 の 平塚古墳(大 野 原 古 墳 群 18.3 ㎡) に次ぐ規模で、このサイズの巨石墳は他に縁塚 4 号墳 ( 三豊南部 ) と大塚池古墳 ( 善通寺 ) が知られるだけす。 醍醐4号墳 (11㎡ ) と同7号墳 (10.9 ㎡ ) も他地域ではトップクラス巨石墳のクラスです。
綾川を挟んだ蓮光寺山南麓の鴻ノ池周辺にも、ひとつのグループがあります。
山ノ神 2 号墳 ( 推定 10.6 ㎡ )、鴻ノ池 4 号墳 (10.4 ㎡ )を筆頭に巨石墳が集中します。巨大な石組みだけが鴻ノ池に残る鴻ノ池 1 号墳もこれらに匹敵する規模のようです。北側の烏帽子山中腹には、これらを見下ろすように、単独で綾織塚古墳 (13.8 ㎡)があります。
山ノ神 2 号墳 ( 推定 10.6 ㎡ )、鴻ノ池 4 号墳 (10.4 ㎡ )を筆頭に巨石墳が集中します。巨大な石組みだけが鴻ノ池に残る鴻ノ池 1 号墳もこれらに匹敵する規模のようです。北側の烏帽子山中腹には、これらを見下ろすように、単独で綾織塚古墳 (13.8 ㎡)があります。
平野南端の丘陵には新宮古墳(12.8 ㎡)が単独で立地します。
綾北平野に巨石墳が次々と造られたのは、いつなのでしょうか?
雄山山麓には6世紀前半代初期の横穴式石室を持つ雄山古墳群がありますが、古墳時代中期の後半段階以降、綾北平野は目立った古墳が確認できない空白エリアであったようです。
大型石室墳の築造は新宮古墳から始まるようです。
そして、これと同時に中小形の横穴式石室墳も登場します。新宮古墳の石室は、大野原の椀貸塚古墳の特異な形態(複室構造)を引き継ぎ、その一部を省略したものと研究者は考えているようです。型式的には、椀貸塚古墳と平塚古墳の中間にあたるようです。つまり
そして、これと同時に中小形の横穴式石室墳も登場します。新宮古墳の石室は、大野原の椀貸塚古墳の特異な形態(複室構造)を引き継ぎ、その一部を省略したものと研究者は考えているようです。型式的には、椀貸塚古墳と平塚古墳の中間にあたるようです。つまり
①椀貸塚古墳→ ②新宮古墳 →③平塚
という系譜に位置づけられます。
年代は、羨道前面から出土した須恵器の特徴から6世紀末から7世紀初頭とされます。さらに、綾織塚古墳と醍醐3号墳の石室は、新宮古墳の特徴を簡略化させながら引き継ぐので、新宮古墳に続く時期と研究者は考えているようです。
醍醐2号墳は、さらにもう一段階新しいもので、醍醐4号墳、鴻ノ池1号墳,同4号墳、山ノ神2号墳は醍醐3号墳や醍醐2号墳と並行して、同時期に造られたようです。
玄室と羨道がほとんど一体化するなどニュースタイルの醍醐7号墳、同 8号墳、鴨庄1 号墳、お宮山古墳は、さらに新しい時期の古墳となるようです。
そして醍醐7号墳で綾北平野の巨石墳築造は終わります。
この終焉期は横穴式石室は7世紀半ばの角塚古墳(大野原)や大石北谷古墳(旧寒川郡)に共通するので7世紀半ば頃と研究者は考えているようです。つまり、先述したように大野原や綾北平野で横穴式石室を持った大型墳が築かれるのは7世紀半ばまでなのです。それは中央での蘇我氏の全盛期と符合します。
この終焉期は横穴式石室は7世紀半ばの角塚古墳(大野原)や大石北谷古墳(旧寒川郡)に共通するので7世紀半ば頃と研究者は考えているようです。つまり、先述したように大野原や綾北平野で横穴式石室を持った大型墳が築かれるのは7世紀半ばまでなのです。それは中央での蘇我氏の全盛期と符合します。
ここで研究者は、次のような疑問を出します。
①新宮古墳が造られてから半世紀の間に綾北平野には、いくつの大型古墳が造られたのか。②8㎡以上だと24の大型古墳が造られたことになるが、ひとつの氏族だけで半世紀で築けるのか③半世紀だとせいぜい2世代か3世代の代替わりが行われたとすると24÷2世代=12グループ24÷3世代=8グループのこのクラスの墳墓を築きうるような有力グループの存在を考えなければならなくなる。そんなに多くの有力者が綾北平野に並び立っていたのか?
研究者が投げかけているのは、飛鳥のヤマト政権が豪族連合政権であったように、綾北平野にも讃岐の有力豪族グループがここに結集していたのではないかという仮説です。
綾川流域の平地を見下ろす山腹の各所に、巨石墳が分かれて築かれている事実はこの推測に合います。それでも醍醐古墳群や山ノ神・鴻ノ池の古墳群に属する巨石墳は多過ぎるかもしれません。これら自体が複数グループの有力者の共同墓所的な性格を持つのなら説明ができます。
綾北平野の隣接地域では、逆の展開が読み取れるようです。
綾川を遡った羽床盆地では、古墳時代中期から後期の初めまで津頭東古墳、津頭西古墳、般若ヶ丘古墳などの有力墳が連続して築かれていました。ところが後期半ば以降は、大形の横穴式石室墳が築かれることはありませんでした。額坂峠を越えた城山西南麓一帯には、中期末から後期後半までには国持古墳、久保王塚古墳など有力墳がありますが、新宮古墳以降には大型石室墳はでてきません。
国分寺盆地でもや大形の横穴式石室を持つ石ヶ鼻古墳がありますが、石室形態から新宮古墳に先行するものです。新宮古墳以後は、横穴式石室墳はありません。
こうした状況を踏まえて、研究者は次のような仮説を提出します。
古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
この立場に立つと、次のような事が描けるようになります
①6世紀末に蘇我氏は、物部氏を破り、物部氏の持っていた瀬戸内海の拠点を自己の支配下におさめた
②物部氏の支配下にあった大野原・三野津・綾北平野は蘇我氏の影響下に入った。
③綾北平野の勢力は、大野原勢力と同盟し新たな技術や文化を取り入れた
④そして、綾北平野の入口に大野原勢力から学んだ大型横穴式古墳を造営した
⑤新宮古墳は、綾川流域や周辺地域の統合のモニュメントでもあった
⑥以後、連合関係を形成した有力者達は綾北平野の開発を進め、それぞれの拠点に「墓域」を開き大型墳墓を次々と造営していく。
⑦蘇我氏の失脚後も、白村江以後の臨戦態勢の中で勢力を維持し朝鮮式山城を城山に築く。
⑨このような危機感の中で指揮権を握り、他地域の豪族よりも一歩ぬきんでた力を持つようになる。
⑧さらに律令体制下においては、府中への国衙誘致を行い、南海道整備なども進めた
ここからおぼろげながら見えてくることは、7世紀前半は綾北平野が讃岐の「飛鳥」だったといいうことでしょう。ここに周辺の有力豪族が集中して拠点を置いていたことがうかがえます。そのために、ヤマト政権から白村江以後の臨戦態勢下で朝鮮式山城の築城を命じられて時にも、この地を守るために城山を選んだのでしょう。さらに、律令体制が整えられる7世紀末に、国府をこの地に造営し、南海道を整備したのもこの地を拠点とする勢力だったのでしょう。それを、綾氏とする考えもあります。
しかし、綾氏単独の支配エリアではなかった。複数の有力豪族が拠点を置く政治空間だったというのは面白いと思います。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大久保徹也(徳島文理大学) 坂出市綾北平野の巨石墳
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