柿茶ファンの地域ガイドがおすすめする 四国のここにも行ってみて!【大川山】 | 「柿茶」柿茶本舗ブログ 美容と健康に

満濃池から南を望むと低阿讃の山々が低く連なります。
その東奥の方に、周りから少し高くなったピラミダカルな山が目に付きます。これが大川山です。讃岐では2番目に高く、丸亀平野から見える山としては一番高い山になります。そして、土器川の源流にもなります。
①ピラミダカルな山容
②丸亀平野で一番高い山
③土器川の源流 
という3点からしても、この山が古代から霊山として丸亀平野の人たちから崇められてきたことが頷けます。

大山山から金毘羅地図
大川山と阿讃山脈の山々

大川神社の社伝には、この山を最初に祀ったのは、修験者が祖とする
役小角とされています。
彼が諸国を巡歴してこの大川山頂に達した時に、 一人の老翁が忽然と現れて
「われこそは大山祗神なり、常にこの山を逍遥し、普く国内の諸山を視てこれを守る。子わがために祠を建てよ」

と言ったと伝えられます。この神の御告げを受けて、小角は祠を建ててこの神を祀ります。ついで木花咲耶姫命をあわせ祀り、大川大権現と称し奉ったとされているようです。
 ここからは次のようなことが分かります。
①開祖が修験者の役小角であること
②山頂に祀られてのが大山祗神と、その娘の木花咲耶姫命であること
③祀られた神社は、大川大権現と呼ばれたこと
開祖を役小角とするということは、修験者たちの聖地や行場とされていたということでしょう。③の「大川大権現」と呼び名についても、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということです。その勧進の主役は、修験者達だったことは以前にお話ししました。


大川神社 秋葉神2社
大川神社の中の秋葉神社

大川山信仰にも、石鎚信仰と同じようなスタイルが見えるようです
共通点を見ると、「役小角と権現勧進」でです。
さらに②からは、芸予諸島・大三島の大山祗神神社周辺で活躍した修験者達の影が見えてきます。彼らは熊野系で吉備児島・五流修験の流れとされています。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立ててたと称する修験集団です。「新熊野」を名乗り、本島を始め瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしました。
南無金毘羅大権現(-人-) | 【天禄永昌】大美和彌榮・天敬会 今泉聖天<圓密宗量剛寺>

 中世は修験者たちが活躍した時代です。
 現在の金毘羅山(大麻山)も修験者の修行ゲレンデで、多くの修験者たちが集まる「天狗の山」でした。彼らの中には、高野山で修行を積んだエリートもいました。その中から流行神としての金比羅神も生み出され、大権現として勧進され、金毘羅大権現として祀られるようになります。そして、大麻山の南半分は金比羅神の住処として象頭山と呼ばれるようになります。当時の修験者(山伏・時には密教僧侶)たちにとっては、金毘羅さんも大川山も権現で、自分たちの修行場であり聖地であったのでしょう。
 ここからは大川山が霊山として崇められていたことがうかがえます。しかし、中世に活躍した山伏や修験者たちは、大川山に古代の山岳寺院があったことは知らなかったようです。彼らの作った社伝には、一切でてきません。

 大川信仰の拠点となっていた古代の山岳寺院が発掘されて、その姿を現しています。中寺廃寺跡です。
大川山 中寺廃寺
中寺廃寺

大川山から北に伸びる尾根上に周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっています。創建時期は山岳仏教の草創期である9世紀にまでさかのぼるとされています。だとすると若き日の空海が、この山に登ってきて修行を重ねた可能性もあります。
中寺廃寺跡地図1

 割拝殿跡とされる空間からは、5×3間(10.3×6.0m)の礎石建物跡が出てきました。面白いのは、その中央方1間にも礎石があるのです。このため仏堂ではなく、割拝殿と研究者は考えているようです。割拝殿とは何なのでしょうか???
大川山 中寺廃寺割拝殿

上のイラストのように建物の真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようです。この建物の東西には平場があります。一方の平場は本殿の跡で、一方の平場が大川山への遙拝場所と研究者は考えています。その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡だったようです。
中寺廃寺跡5jpg
中寺廃寺 遺跡配置

僧侶達は、ここに寝起きして周辺の行場で修行を重ねながら大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたようです。空海がもたらした密教は、祈祷や霊力を認めました。その霊力パワーのアップのためには、聖地での修行でポイントをため込む必要がありました。霊験・霊力の高い密教系僧侶(=修験者)は、天皇の近くで重用されることになります。この時代の密教系僧侶は、出世のためには聖地での修行が欠かせなかったのです。そのために国家や、国衙も官営の山岳寺院の建立を行うようになるのが10世紀後半です。この仲村廃寺は、規模や出てくる遺物などから地元の有力者などが建立したものではなく、讃岐国の官営山岳寺院として建立されたものと研究者は考えているようです。ここは多くの密教僧侶や修験者たちが修行を積んだ拠点でもあったのです。
大川山 割拝殿から
割拝殿から望む霊山 大川山

  なぜお寺は、大川山の山頂に建立されなかったのでしょうか?
 大川山は神が宿る霊山で、信仰の山でした。そして中寺廃寺は、遙拝所でした。霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚が建てられますが、寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、頂上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。

中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺 仏塔

 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、あえて生活不能な山頂に建てる必要はなかったようです。

大川山 中寺廃寺

 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。そして、律令体制が崩壊し、国衙の援助が受けられなくなった12世紀には衰退し、13世紀には活動痕跡がなくなるようです。ちなみに、中寺廃寺から讃岐山脈を、
東に向かえば、
大瀧寺 → 大窪寺 → 水主神社(東かがわ市)
西に向かえば、
尾野瀬寺(まんのう町春日 → 中蓮寺(三豊市財田町) → 雲辺寺(観音寺市大野原町)へ
と続き、さらに伊予の山岳寺院につながってました。このようなネットワークを利用して、熊野修験者や高野聖たちが「四国辺路」をめぐっていたようです。そのようなネットワークの一つが大川山であり、その拠点が中寺廃寺であったようです。
   中寺廃寺は中世には廃絶しています。しかし、寺院はなくなっても人々にとって聖地であり、霊山であり続けたようです。
それが分かるのがCゾーンに残された「石組遺構」です。調査報告書は、これを「石塔」としています。仏舎利やその教えを納めるという仏教の象徴としての「塔」です。「塔」を建てる行為は、功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。それは、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで含みます。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」で「作善行為」だったというのです。

大川山 中寺廃寺石組遺構
石組遺構は作善の「塔」

童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻に
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る

と見えます。平安時代中頃には、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していたようです。「三宝絵」下巻(僧宝)は、二月の行事として、次のように記します。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。(中略)
 仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為として、階層を越えた人々に広がっていたようです。この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族というよりも、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人が「石塔」を行なったのではないかと研究者は考えているようです。
 中寺廃寺のAゾーンの本堂や塔などは、僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する里人達の祈りの場であり交流の場であったのかもしれません。ここで、大川権現に対しての祈りの後には、宴会が行われていたとしておきましょう。
 こうして、中世に中寺廃寺が姿を消しても、大川山が霊山であることに変わりはなかったようです。そして、この山を修行ゲレンデする修験者たちの姿が消えることもなかったのです。 
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。是非、その頃に大川山詣でをして、この谷の河原で石積みを行いたいと思います。
大川山 中寺廃寺石組遺構2

 中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。
その勧進の主役は修験者達でした。そして、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。石鎚山を見てみると、役小角伝説が広がり、その門弟を祖とする「修行伝説」を生み出されます。その結果、どこの霊山も開祖は役小角となっていきます。そして、里には横峰寺や前神寺などの別当寺が姿を現すようになります。
 それでは、大川山信仰の別当寺はどこにあったのでしょうか?
残念ながらこれに答えられるような史料はありません。状況証拠を集め、候補のお寺を挙げてみましょう。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)
① 尾ノ背寺(まんのう町本目)
 大川山の西北の財田川を見下ろす尾根の上にある尾野瀬神社の境内にあった山岳寺院です。
尾瀬神社 - 仲多度郡まんのう町/香川県 | Omairi(おまいり)
尾野瀬神社(尾背廃寺跡)
この寺については、高野山の学僧道範が讃岐に追放されていた宝治二年(1248)11月に、ここを訪れ『南海流浪記』に次のように記しています
「此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ杣山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影井二七祖又天台大師ノ影有之」
とに書いている。ここからは、尾ノ背寺が善通寺建立の際には、木材を提供するなど森林管理と同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
江戸時代に、金毘羅金光院に仕えた多聞院が編集した〔古老伝旧記〕に
「尾ノ背寺之事 讃州那珂郡七ケ村之内 本目村上之山 如意山金勝院尾野瀬寺右寺領
新目村 本目村  本堂 七間四面 諸堂数々、仁王門 鐘楼堂 寺跡数々、南之尾立に墓所数々有 呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
とあります。
また大正七年(1918)の『仲多度郡史』には「廃寺 尾背寺」として
「今の尾瀬神社は、元尾ノ背蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、雨部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興
(中略)
明治元年 尾ノ背に改め尾の瀬神社と奉称」
ここからは「尾脊蔵王大権現」と呼ばれ、山伏たちの活動拠点となっていたことがうかがえます。尾ノ背寺は、中寺廃寺が活動を停止した後も、中世を通じて活発な書写活動が行われていたことが萩原寺の経典などからも分かります。中寺廃寺に代わって、大山エリアまでテリトリーにおさめていたのではないかという仮説です。しかし、尾野瀬山からは、大川山を仰ぎ見ることはできません。遙拝所としては、弱いようです。
大川山 金剛院
炭所東の金剛院 裏山は全体が経塚

第二候補は、まんのう町炭所東の金剛院です。
  金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、楼門前の石造十三重塔は、鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ、山全体が経塚だったことが発掘調査で分かっています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て、当寺は修験道に関係の深い聖地であったと研究者は考えているようです。
 想像を膨らませると、全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめます。そして、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行きます。それが「辺路修行」だったのです。これが、空海伝説と結びついていくと「四国遍路」になっていくと研究者は考えているようです。

大川山 金剛院2

 修験者たちは写経などのデスクワークだけをやっていたのではありません。霊山行場で修行も求められました。大川山は、最適の修行ゲレンデです。山での荒行と、写経がミックスされた修行を、この地で行い、写経が終わると、次の行場に向かって「辺路修行」に旅立って行ったのでしょう。 大川山の里の別当寺としては、こちらの方が可能性が高いようです。金剛院は、大川山信仰の別当寺だったという仮説を出しておきましょう。
中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺跡 仏塔跡
全国からやってきた修験者(山伏)たちの中には、里の寺院を拠点に周辺の村々に布教活動を行う者も現れます。
 高野聖の念仏聖たちは里の人々と交流を続けながら自分たちの聖地に、信者達を参拝に連れてくるという方法を採用します。それは熊野詣に始まり、立山詣や、富士詣につながっていく先達が信者達を聖地に誘引するというやり方です。これは、今の四国霊場巡りにもつながるスタイルです。
 死者の霊の集まるといわれた三野町の弥谷寺に住み着いた高野聖は、先祖詣りを勧め、そしてその延長に高野山への先祖納骨活動を展開します。それが三豊では弥谷寺でした。
 また、近世になると石鎚信仰や剣信仰のように先達が里の信者を誘引して、霊山への集団登山という活動を展開する別当寺も現れるようになります。
  それでは、大川山周辺の修験者や山伏たちは、大川山をどのように売り出そうとしたのでしょうか。
  それは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社
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