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六十八番神恵院、六十九番観音寺は琴弾山の麓の境内に、ふたつの札所が同居しています。そして山上には、神仏分離以前の琴弾宮が鎮座する神と仏の霊地です。以前に見たように、二つのお寺の仏像からは、平安時代前期にはかなりの規模の寺院があったことがうかがえます。『讃州七宝山縁起』は、観音寺や琴弾宮の縁起で、八幡大菩薩や弘法大師のことなどが記されています。また、行道(修行場)のことも記されています。
まずは、弘法大師伝説と行場に焦点を当てながら『讃州七宝山縁起』を読んでみることにします。
 『讃州七宝山縁起』の奥書には「徳治二年九月二日書写了」とあり、鎌倉時代末期の徳治二年(1306)に書写されたことを伝えます。
七宝山縁起1
意訳して見ましょう
 ①讃州七宝山縁起
            鎮守 八幡大菩薩
            修行 弘法大師
 当山は、十方如来の常住し、三世諸仏が遊戯し、善神が番々に守る霊山である。星宿は夜々この地に加護する。是は釈迦伝法の跡であり、慈尊説法の聖地である。一度、この地を踏めば、三悪道に帰ることはなく、一度この山に詣でれば、必ずや三会の暁に遭うことができる。八幡大菩薩が影向し、弘法大師が修行を行ったことにより、大師と大菩薩は、同体分身の身であり、それは世々の契約なのである。
 
それゆえ大祖権現(八幡大菩薩)は、詫宣文に次のように云う。我は真言興起し、往生極楽薩垂する本地真言の祖師である。権現大神の通り、一切衆生を為し、四無量心を起こし、三毒を興さず。これは一子慈悲にして、成三宝興隆の念を成ずる。邪見の念を生ぜず。かくの如く無量劫は五智金剛杵と独鈷法身の形に付属するは普賢薩錘中の天竺善悪畏者が我なりと云々。
 同じ日本国の御詫宣にも云う。汝は知るか。
 我は唐国の大毘廬遮那の化身である。日本国の大日普賢妙の吉祥でもある。宇佐宮は我の第一弟子の釈迦如来である。第二弟子は、大分宮に入定している多宝如来である。第三弟子は八幡大菩薩戒(普賢)・定(大日)・恵(文殊)に付属する故に筥崎といい。本地は阿弥陀如来観音勢至であると云々。
観音寺が聖地であることを述べた後に続くのは、「八幡大菩薩と弘法大師」です。八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身であることが説かれます。八幡神と弘法大師の関係は、京都神護寺の僧形八幡神像が弘法大師と八幡神がお互いの姿を描いたという「互いの御影」として伝わっているようです。それを踏まえた上で、この縁起では八幡神と弘法大師が「同伴分身」と、さらに強い関係になっています。
 先にあった八幡信仰に、後からやって来た弘法大師伝説が接ぎ木されているようです。それは14世紀初頭には、行われていたことが分かります。それでは、弘法大師伝説を附会したのは、どんなひとたちなのでしょうか。それは後に見るとして、先を読んでいきましょう。

七宝山縁起3

②宇佐宮 人皇三十代欽明天皇 治三十二年 
最初は、豊前国宇佐郡菱潟嶺小倉山に、三歳の小児に権化して現れ八幡の宝号を示させた。当初の宝号は、日本人皇第十六代誉田天皇(応神)広幡八幡之大神であった。宇佐神宮禰宜の辛嶋勝波豆米之時詫宣の日記には 吾の名護国霊験威力神通大自在王菩薩と記される。ここから八幡大菩薩と呼ばれるようになった。

ここには八幡神の由来が書かれています。注意したいのは、出自が豊前の宇佐の小倉山(宇佐八幡)に始まりることを、強く主張していることです。その他に勧進された分社との本末争いが背景には、あったようです。
観音寺琴弾神社絵図

③次四十二代文武天皇御宇大宝三年(703) 大菩薩手自出 
次四十二代文武天皇御宇大宝三年 大大菩薩手自出 鎮西宇佐社壇、留光蔚当山八葉之宝嶺。是併感応利生之姿、斎度無双之神也 従九州之空白雲如虹之聳 懸当山。彼白雲之下巨海之上 当宮山麓梅脇之海辺、有一艘之船。
 船之中有琴音。其音高仁志天、 楡通嶺松。彼時当山峯本目有止住上人。諱日証 奇問之。御詫宣云。汝釈迦再誕、我是八幡大菩薩也 為近帝都 従宇佐来。而此国可仏法流布之霊地。於茲守護朝家、可蔚異国云々。
意訳しておくと
 大宝三年(703)に八幡大菩薩は鎮西の宇佐八幡宮を出て、当山(観音寺)の八葉の宝峯に留まった。その時には、九州の空から白雲が虹のようにたなびき、琴弾山にかかった。白雲の下の海を一艘の舟が現れ、宮の峯の麓の梅脇浜に着いた。その船からは琴の音が聞こえ、天にも届くほどで、音色は松林と嶺を通り抜けた。
 この時に当山に住上していた日証上人は、怪しみ問うた。当山に古くから止住する日証上人がその船に向かい問うと「汝は釈迦の再誕 我は八幡大菩薩である。帝都に行こうとしたが、ここは仏法流布の地であるので、ここに留まり、国家を守護し、異国を闘閥したい」と云う。
ここでは八幡神が、観音寺にやってきた理由が詳しく述べられます。
この由来に基づいて、以前に紹介した「琴弾宮絵縁起」は書かれているようです。 面白いのは、この八幡信仰に弘法大師伝説を「接木」するために書かれた次の部分です。

④次四十九代光仁天皇御宇 宝亀四年(773)七月、大師父母夢見。
 宝亀四年に弘法大師の父母が、善通寺の館の西に八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊した。そして、同五年6月15日に弘法大師が誕生した。弘法大師は、八幡大菩薩の再誕である。

弘法大師が八幡神の再誕という説は、初めて聞く話です。
その後は、弘法大師が延暦23年(804)、31歳の時に肥前国松浦郡田浦から唐に向けて船出することから始まり、長安で恵果和尚から両部の混頂を受け、金・胎の両界曼荼羅や法具・経典などを持ち帰るいきさつが、ほぼ史実に基づいて記されています。このあたりからは、高野山での教育を受けた真言密教系の僧侶(修験者)によって書かれたことがうかがえます。
弘法大師が唐から帰朝後に讃岐に帰って、何を行ったと記されるのか?
 大同元年(804)に弘法大師は唐から帰朝し、太宰府にしばらく留り、その後上洛し、朝廷に上表した後、讃岐に帰った。その際に琴弾八幡宮に参詣した。八幡大菩薩の御詫宣によって神宮寺を建立し、観音寺と号した。金堂の本尊・薬師如来と四天王像を造立し、本堂には同身の大日・薬師・観音像を安置した。

ここには、弘法大師が唐から帰朝後に、観音寺の再建を行い、諸仏を自らの手で彫り上げたと記されます。弘法大師により再建されたことが強調されます。ちなみに、ここに記されている諸仏の多くは、今も観音寺にいらっしゃいます。
観音寺 薬師如来坐像

今はお参りする人が少なくなった薬師堂の薬師如来は確かに丈六の薬師如来坐像です。膝前は後から補修されたものですが、頭・体部は平安時代の11世紀初頭のものとされます。大日如来坐像は12世紀とされます。
観音寺 四天王

四天王は一木造りで、邪鬼と共木とした古風な造りで、やはり十世紀末期とみられています。この縁起の制作者は、観音寺の事情に詳しい人物であることがうかがえます。漂泊の時宗の連歌師が、頼まれて即興で作った縁起ではありません。

そして、次に出てくるのが七宝山が修行場であることです。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
元々、観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿でのために精舎を建立し、石塔49基を起立した事に始まるという。しからば、その仏塔は何のために作られたのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が作った。すなわち異国降伏の請願のために作られたものである。

 この中に出てくる「石塔49基」とは、都卒天の内院にある四十九院のことだと研究者は考えているようです。つまり、ここにも弥勒信仰がみられます。そして、弘法大師手作りという四天王像は、平安時代中期のものとされます。この頃が、観音寺の創建にあたるようです。
以上をまとめたおきます。
①七宝山観音寺と琴弾八幡宮との縁起には、弥勒信仰が濃厚に感じられる。
②先に定着した八幡信仰の上に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしている
七宝山にあった行場については、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
       武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所
                              四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年