讃州七宝山縁起 観音寺

 前回に続いて、観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』を見ていくことにします。前半を読んで分かったことは、
①「是釈迦伝法の跡、慈尊説法之砌なり」と、弥勒信仰が濃厚に感じられること
②八幡大菩薩がやって来て、さらに弘法大師が修行した所であることから、八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身とすること
③八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊し弘法大師が誕生したので、弘法大師は八幡大菩薩の再誕であるとすること。
ここからは、先にやって来た八幡信仰に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしていることがうかがえます。そして、その筆を執った人物として、弘法大師信仰の影響を受けた高野山系の密教修験者の影が見えてきます。
 今回は『讃州七宝山縁起』の後半部を読んでいくことにします。
その中に七宝山の行道(修行場)のことも記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには「大師為七宝山修行之初宿」と記され、七宝山が行場であったことが分かります。それでは「初宿」とは何なのでしょうか。先に進んでいきましょう。

七宝山縁起 行道ルート
意訳すると
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3

ここからは次のようなことが分かります。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=小辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には7つの行場と拠点があった
   当時の辺路修行とは、どんなものだったのでしょうか。
五来重氏は、次のように指摘します。
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道とは、神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる木の周りを一日中、何十回も廻ること。
3 それぞれの行場で、窟籠もり、木食、行道をする修験者(僧侶)がいた。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。
5 海に入って死んでいく補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。
6 お寺が建つ以前のことだから、建物はないので窟に籠もった。
7 弘法大師が修行したと伝わると、その跡を慕って修行者がやってくる。
8 鎌倉時代の終わりのころまでは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 修行者が多くなると小屋のようなものが建つ。そして寺やお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
10 やがて留守居が住職化するとお寺になり、行道ネットワークの拠点となり、積極的な「広報活動」を行うようになる。
 ここからは観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる修行ルートは「小辺路」が形成されつつあったことがうかがえます。プロの修行者がやってきて「七宝山七ヶ寺巡礼」が盛んになりつつあったとしておきましょう。周囲を見ると、中讃には善通寺や弥谷寺・海岸寺・道隆寺などを結ぶ「七ケ寺巡り」がありました。高松から東讃には根来寺から志度寺・長尾寺等を結ぶ「七観音巡り」が近世初頭にはあったようです。これらの地域にあった「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。中世の修験者は、それらを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったのかもしれません。近世になると素人が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。その際に、危険な行場や奥の院は次第に除外され、麓や里にある本寺が札所になって現在の四国霊場めぐりが形作られていったようです。そして、それは行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくという形に変わって行きます。
七宝山の山の中にあったという行場とお寺(お堂?)を探ってみましょう。観音寺が初宿で、第二の宿は稲積とあります。
 
1高屋神社

七宝山の一番北側に、山頂に方墳が載ったように見える山が稲積山です。ここはには、「天空の鳥居」で有名になった式内社・高屋神社の奥社があります。稲積とは、この神社周辺でしょう。ここからの燧灘と川之江に続く海岸線は絶景です。周辺には「嶽」と呼ばれる断崖があちらこちらにあります。西方に広がる燧灘は、西方浄土へ続く海です。念仏行者達にとっては最高の行場ゲレンデだったでしょう。全国から修験者たちがやってきそうな所です。
 
 稲積の行場は山だけではありません。室本の江甫草山(つくも)の海岸には海に向かって開く窟があるようです。
七宝山 江甫草山行場洞窟

「金毘羅参詣名所図会」(弘化4年(1847)には、江甫草山について絵図を載せ、次のように記しています
 江甫草山椋本村にあり、有明の浜より磯づたひ、行程僅かにして至る。麓に椋本の魚家多し。
行人之窟 行者ここに来って修行する事時々ありといふ。実に世塵をはらひて、ただ波濤の音、松のかぜ、千鳥・鴎のこえの他、耳に聴くことのなき幽地なり。
行道場 右に同じ。地蔵・不動・役行者などの石像を置けり。
そこには2つの洞窟が描かれています。拡大してみましょう。

七宝山 江甫草山行場洞窟拡大

 右側が「行人ノ窟」、左側が「鳩ノ窟」と描かれています。
「行人」は「行道する人」で修験者が籠もる窟でしょう。「鳩ノ窟」の周辺には、鳩らしき鳥が飛んでいます。これが「鳩の窟」いわれなのでしょうか。洞窟前を漕いでいく舟と比較しても、かなり大きな窟であることが分かります。
 ここは燧灘に直面する窟です。窟の上の磐に座り、沈みゆく夕陽を眺めながら阿弥陀経を唱えれば、西方浄土が見えてきたのかもしれません。高野の念仏聖達の行場としては、ふさわしい所であったでしょう。
 この洞窟と稲積山の行場を、一日に何度も廻行する行道が行われていたと私は考えています。
 第三宿は「経の滝」とあります。

七宝山 不動の瀧

これは豊中町岡本の不動の滝でしょう。雨が降った後は落差50mほどの滝になりますが、雨が少ない讃岐では水のない「瀧」であるときの方が多いようです。そのために揚水用のモーターが常備されています。スイッチを入れると瀧は落ちてきます。
 ここには不動明王が祀られ、古くからの修行の地であったようです。
 第四の宿は興隆寺です。
ここは以前にお話したように、四国札所・本山寺の奥の院とされています。
七宝山興隆寺

鎌倉時代後期から室町時代の五輪塔や宝灰印塔が、数多く残されています。
七宝山興隆寺不動明王
不動明王の磨崖仏

その中には上のような不動明王もあり、密教寺院で修験者たちの拠点であったことが分かります。出士した瓦は鎌倉時代のものなので、遅くとも鎌倉時代には、かなりの規模の寺院であったことがうかがえます。国宝の本山寺本堂が14世紀初頭のものですから、そのころに本山寺は、七宝山の麓から現在地に移ったと推察できます。しかし、七宝山の山号だけは変わっていません。
 ここに多く残されている五輪塔や宝灰印塔は、七宝山で修験を行った人たちが残したものと考えることも出来そうです。
 第五の宿は、岩屋寺です。

七宝山岩屋寺

七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。ここにも岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。
七宝山岩屋寺2
岩屋寺の岩屋(窟)

  こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
 さて、第六宿の神宮寺です。この寺については、確定が難しいようです。
 寺伝から三豊市詫間町の神正院に比定されるようです。
七宝山 三崎神社

神正院は、荘内半島先端にある三崎神社の別当寺であったことは間違いなく、そのため神宮寺と呼ばれていました。問題は、観音寺から岩屋寺までは七宝山沿いにあったルートから大きく外れるという点にあります。
紫陽花が見ごろの荘内半島(紫雲出山・三崎半島)へ / すぎちゃん(^-^)vさんの粟島(香川県)・荘内半島(三崎半島)の活動日記 | YAMAP /  ヤマップ
庄内半島の先にある三崎神社
 しかし、海の辺路である庄内半島の先端に行場が置かれていたと考えるなら「遠くても近い道」だったはずです。33日間で廻行するとすれば、ひとつの行場で4~5日は留まって行を行っていたと考えられます。讃岐西端の海に突き出た庄内半島の先端は行場で、その中宮寺が神正院だったとしておきましょう。ちなみに神宮寺神正院も古くから、七宝山の起源に関わる寺院とされてきたようです。

6つの拠点寺院の紹介の後、縁起は、七宝山の由来が述べられます。
七宝山 七宝山命名の由来
意訳すると
七宝山には九つの秘密の穴があり、弘法大師が大同年間(806~)に七種の秘宝をここに納めた。弥勒が出世する時、弘法大師が高野山奥院の出て、ここに秘蔵した宝を開き、弥勒の御前に持参することになっている。それゆえに七宝山と呼ぶ。
 琴弾八幡大菩薩は垂迹のはじめに、日証上人と問答した。日証上人の本地は釈迦如来で、大菩薩の本地は阿弥陀如来で、これは報身・応身の二身の上地である。
 ここには七宝山には弘法大師が7つの宝をおさめたので「七宝山」と呼ばれるようになったこと。そして、その宝は弥勒の御前に持参することになっていることが記されています。ここにも弥勒信仰がうかがえます。弘法大師の入定信仰が、この地にも伝わり、広められていたことが分かります。その背後には、やはり高野聖的な修験者の影が見えます。

そして、ゴールである我拝師山については、次のように記します。
七宝山縁起5 我拝師山

意訳すると
弘法大師高野大師行状図画 捨身
 我拝師山とは、弘法大師が捨身行で身を投げたときに、釈迦如来が現れ、これを救ったことに由来する。善通寺の鎮守は八幡で、本地は阿弥陀如来であることから結宿とされ、また釈迦・阿弥陀の二尊の土地である。
また当山(観音寺)は西の初宿で金剛界を表す。東の我拝師山は結宿で胎蔵界を表しす。その間は観音の峰で、これは南方の袖陀落山を示す。 つまり、観音寺ある琴弾山周辺は、金胎不二(金剛界と胎蔵界)の観音浄土なのである
(後略)
徳治二年丙午九月三日書写丁
  但他年朧之
  安置之蓮祐
   最後に徳治二年九月三日に書写が終了したと記します。

ここには「当山為鉢、西初宿、為金剛界峯。東は結宿、胎蔵界の義を表す。中は不二惣鉢観音の峰也。是即南方補陀落山を表す」とあります。これを整理すると、次のような構図が見えてきます
①琴弾山(観音寺)は、西の初宿で金剛界
②我拝師山(曼荼羅寺)、東は結宿で胎蔵界
③その間に横たわるのが七宝山(観音の峰)で、これが補陀落山を表している
となるようです。これは、どういうことなのでしょう。
 もう一度、空海が修行したと伝えられる室戸岬周辺を見てみましょう
七宝山 行当岬と室戸岬

①室戸岬に東寺(最御崎寺)
②行当岬に西寺(金剛頂寺)
の東西の札所寺院があります。平安時代はその両方を合わせ金剛窓寺と呼んでいたようです。岬で火を焚いた場所につくられたのが最御崎寺(東寺)で、西の行当岬は「行道」岬です。行当岬の不動岩の下に二つの洞窟があります。今は、不動さんを祀って「波切不動」になっています。ここには次の二つの行道があったようです。
①10㎞隔たった西寺と東寺を往復する行道を「中行道」
②不動岩の行道めぐる「小行道」
③四国全体の海岸を回るのが「大行道」
です。
室戸の東西の二つの行場のあり方を、七宝山に移して考えるとどうでしょうか?
 観音寺の行場が江甫草山の「行人ノ窟」や「鳩ノ窟」だったのかもしれません。そうだとすると稲積山の「断崖=瀧」を結ぶルートが「小行道」になります。そして、観音寺と我拝師山を結ぶルートが「中行道」だったことが考えられます。
 二つの寺の間あるいは二つの山の間をめぐる行道があります。足摺岬の場合は、西の金剛福寺のある山は金剛界です。東の足摺岬の灯台の下には、胎蔵窟と呼ばれる洞窟があります。金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているようです。その両方を行道する必要があります。密教では、全ては金胎両部一体だと説かれますが、辺路修行の場合は、頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで廻道して一体になることを目指したようです。
  「金胎不二」と難解な言葉で記されていますが、当時の密教修験者たちにとっては「目指すべき目標」とされた最重要キーワードだったのです。ある意味では、修験者たちを勧誘するための「常套句」であり「殺し文句」であったとしておきましょう。
 このように七宝山や庄内半島は、辺地修行ルートだったようです。

結宿として登場する我拝師山は、すでに有名な行場でした。
それは先ほど見たように、弘法大師が幼年の頃に捨身行を行い、釈迦如来がそれを助けたという話が広がっていたからです。高野聖でもあった西行は、我拝師山にやってきて3年間も庵に籠もり、修行を行っています。
西行の『山家集』の「曼荼羅寺の行道どころ」には、次のように記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経書き手うづませおはしましたる山の嶺なり。ほうの卒塔婆一丈ばかりなる壇つきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、だんも二重につかまばされたり。のぼるはどのあやうさ、ことに大事なり。かまへてはひまはりつかで廻りあはむ、ことの契ぞ、たのもしか。きびしき山の、ちかひ見るにも。
                                         
 このことは以前にお話ししましたので省略します。
さらに、高野山の内紛騒動で讃岐に流刑となった道範も「南海流浪記」の中で、我拝師山の行場について触れています。弘法大師信仰が広がる中で、我拝師山は全国の修験者たちから注目される行場となり霊山となっていたようです。それを背景として、曼荼羅寺の台頭があったのかもしれません。
 『讃州七宝山縁起』が書かれた頃の観音寺の戦略は、
①観音寺を我拝師山のような全国的な行場として売り出す。
②そのために「八幡信仰 + 空海伝説」を広げる。
③同時に新たな「中辺路」ルートを売り出す。
④そのために観音寺を起点として「七宝山+庄内半島」の行場を整備⑤そして、ゴールを人気有名修行場の我拝師山につなげる

 我拝師山の頂上からは、真っ直ぐに伸びていく庄内半島と、その最高峰紫雲出山が一望できます。さらに西には、「観音の峰」で、補陀落山と記された七宝山が横たわります。全国から我拝師山にやってきた修験者たちは、それは眺めながらここでの修行が終われば、弘法大師が七宝を納めたという山にも行ってみようかと思うようになったのかもしれません。
 ここで疑問に思うのは、弥谷寺の存在です。
七宝山中辺路ルートには、弥谷寺が含まれていません。何故でしょうか?
 これは弥谷寺は、別の修験者達のグループであったと私は考えています。以前にもお話しした通り、弥谷寺とその麓の白方の海岸寺は、善通寺とは別の「空海白方生誕説」を説いていた時期があります。ここからは、善通寺と弥谷寺は系統の違う別の修験者グループだったことがうかがえます。そのために、善通寺と観音寺を七宝山を介して結ぶ「小辺路」ルートには入っていなかったのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、七宝山を経て我拝師山にいたる行道(修行場)のことが記されている
②それによると7つの拠点を33日間で「行峰=行道=小辺路」する修行ルートであった
③このルートは出発の観音寺が金剛界で、ゴールの善通寺五岳の我拝師山が胎蔵界とされた④中世には、このルートは「中辺路」とされ、全国の修行者の行場ルートになっていた。
⑤その結果、各行場の近くには、拠点寺院や庵が姿を見えるようになった。
⑥それらのお寺は、今でも山号は「七宝山」として残っている。例えば、七宝山観音寺、七宝山本山寺、七宝山延命寺など・・・・
⑦これらの行場を結ぶ中辺路ルートは、近世には廃れた。
⑧代わって、素人達の「四国巡礼」の札所巡りのお寺に姿を変えていくことになる。
ここからは、中世の行者達による「中辺路」ルートが、現在の四国遍路道へと姿を変えていく変遷が見えてくるような気がします。

  参考文献
武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所  4                                     四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年