大川山と麓の村々
まんのう町の大川神社は雨乞いの神として、また安産の神として、広く信仰を集めてきました。特に、大山神社に奉納される念仏踊りは国の文化財にも指定されています。今回は、大川山がどのようにして雨乞いの霊山になっていたのかを見ていくことにします。造田村の庄屋西村市太夫が残した文書(西村家文書)の中には、旱魃について次のように記されています。(意訳変換)
①文化14(1817)年の大千ばつ4月から8月まで日照り。大社から小宮にまで雨乞い祈願。鵜足郡で一番やけた(被害を受けた)のは岡田上村、二番は造田村・内田下所免は一帯に稲が枯れ無収穫状態、秋から飢人が出て、お上へ救援の願いを差し出す。郡内の難渋民に、古米120石お貸付になる。用水掛りは余儀なく見合わされたが、昔から用水掛りのない内田免・造田免へは都合掘井戸が78箇所分として、深さ一間につき人夫四人二分五厘を御殿様から下さる。
ここからは髙松藩が「離農・逃散」が出ないように米の貸付や井戸掘費用補助などの救済策をとったことが分かります。
③文政6(1823)年の干ばつ
③文政6(1823)年の干ばつ
②2月初めから照り出し、雨降らず。5月15日に田の植付五分通り終わり、あとは降雨待ち。5月18日辰の刻から、大川神社で郡の雨乞い祈願を行う。天川神社でも宮田宮司が雨乞い祈願をはじめる。お上では、代官を差し遣わし、5月26日から各所で雨乞い祈願を行う。一、石清尾八幡官、 一、大川宮(大川神社)、 一、聖通寺、 一、鶴林寺、 一、天満宮、一、可納院(?)、 一、滝宮龍灯院(滝宮牛頭天王社)、 一、水主村大乗寺、 一、香川郡童洞渕など)8月9日やっと雨が降る。5月から100日ぶりの降雨で、前代未聞のことであります。④昭和9(1924)年5月13日~9月1日まで大干ばつ。干天60日間、被害甚大
ここからは、藩がそれまでの藩指定の雨乞寺社である白峰寺以外にも雨乞を命じていたことが分かります。それを受けて、各村々でも雨乞が行われていあmした。以前にお話したように近世前半までは、雨乞は空海のような験の高い修行者が行って初めて成就するもので、農民が踊って雨が降るとは思われていませんでした。例えば滝宮念仏踊りも、もともとは菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られたもの、自分たちの躍りで雨を降らせようとするものではありませんでした。それを押さえた上で、まんのう町で修験者たちが行っていた雨乞を見ていくことにします。
旧琴南町美合の美霞洞渕では、雨乞祈願のために流れの中の岩や石に小さい棚を設けて龍王(オリヨウハン)を祀り、そこで神主や村人が3日3晩祈願をしたことは、以前にお話ししました
ここは財田川の源流になり、丸亀平野の丸亀藩の農民達の雨乞いの最後の祈祷場所だったようです。どんな雨乞いがおこなわれたか民話を読んでみましょう。
里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。山伏が雨降らせたまえと祈願をします。すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。おかしな臭いが、あたりへただよいます。清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。釜が淵の水は、濁ってしまいました。この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってしまいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。そうなのです、それが目的なのです。龍神さまを、しっかり怒らすのです。怒ると、雨が降るというのです。お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。
里人も、念願の雨が降ったと大満足。
ここからは、次のような事が分かります。
①川の流域の村々(同一灌漑エリア)の人々が、地域を流れる川の源に近い深い淵を雨乞場所としていた。
②そこで大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りで雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが行われてたこと
②そこで大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りで雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが行われてたこと
③これは全国的にみられる話で、修験道者(山伏)のネットワークがひろめたこと
④雨乞行事の音頭をとっているのは山伏であること
寺院で行われる雨乞いは善女龍王に対する祈祷でした。
これは丸亀藩主が直接に善通寺門主に命じて行わせていた公式なものであることは以前にお話ししました。それに対して、村々で農民達が行っていた雨乞祈願は、山伏たちが主導権を握っていたようです。そう言えば、この淵の上には尾ノ背寺がありました。ここは中世の山岳寺院の拠点で、善通寺の奥の院ともされ修験者の拠点として栄えた寺です。流域の人々を信者として組織し、尾ノ背寺参拝への手段としていたとも考えられます。丸亀平野南部の丸亀藩の櫛梨神社には、尾ノ背山信仰を伝える話が伝えられています。
それでは大川山周辺では、どんな雨乞いが行われていたのでしょうか。 大川山周辺に残る雨乞い伝説を見てみましょう。

まず登場するのは三角(みかど)淵です。ここは、崖山がそそりたり、三つの角を持った岩石があることから三角(門)と呼ばれるようになったと伝えられます。三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在の道の駅や温泉は「美霞洞(みかど)」と呼ばれ親しまれています。

まず登場するのは三角(みかど)淵です。ここは、崖山がそそりたり、三つの角を持った岩石があることから三角(門)と呼ばれるようになったと伝えられます。三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在の道の駅や温泉は「美霞洞(みかど)」と呼ばれ親しまれています。
道の駅の下流の渓谷を流れる冷たい清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、龍神社がお祀りされています。ここでも、大干魃の年は流域の人々がやって来て龍神様にお祈りをして、雨乞い神事が行われていました。
美霞洞渓谷の龍王神社
「三角(みかど)の淵と大蛇」の民話は、大蛇を退治した後のことを次のように語ります。
日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。
ここからは、雄淵に筏を浮かべて雨乞い祈祷が行われていたことが分かります。この筏の上で祈祷を行ったのは、大川山の山伏たちだったのでしょう。また、この地が下流の丸亀平野の人々にとっても雨乞聖地であり、ここの聖水を持ち帰り、地元で行う祈祷に用いられていたようです。持ち帰った聖水を用いて祈祷を行ったのは、地元の山伏であったはずです。大川山をめぐる山伏ネットワークがうかがえます。
大川山周辺の八峯龍神での事件を、民話は次のように伝えています。
21日間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職(山伏)は悪気はなかったが「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」
と言ったところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来たこれを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは150mもあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。
ここからは次のような事が分かります。
①雨が降るまで雨乞いは続けられるといいますが、この時は21日間昼夜休むことなく祈祷が続けられていたこと
②小蛇が龍になるという「善女龍王」伝説が採用されていること
③祈祷を行ったのは神職とあるが、江戸時代は修験者(山伏)であったこと
④そして、雨乞い祈祷でも雨が降らないことがあったこと
⑤失敗した場合には、主催した山伏の信望は墜ちること
雨乞いで雨が降ればいいのですが、雨が降らなかったときには主催者は責任を問われることになります。ある意味、山伏たちにとっても命懸けの祈祷であったようです。
江戸時代には、ことのよう大川山周辺の源流や池は、雨乞いの聖地となっていたことが分かります。
これが明治になると、システムが変化していくようです。
何が起こるかというと、雨乞い場所を自分たちの住む地域の周辺に下ろしてきて、そこに拠点を構えるようになるのです。
何が起こるかというと、雨乞い場所を自分たちの住む地域の周辺に下ろしてきて、そこに拠点を構えるようになるのです。
大川神社の勧請分社の動きを、琴南町誌(789P)で見ていきましょう。
飯山の大川神社(丸亀市飯山町東小川日の口)
ここは現在は「水辺の楽校公園」として整備されています。その上の土手に大きな碑や灯籠がいくつか建っています。3つ並んだ一番左の石碑に「大川神社」と大きく記されています。その由来を琴南町誌は、明治25(1892)年6月の大早魃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀ったと云います。ここは昔から地神さんが祀られていて、地域の雨乞所だったようです。大旱魃の時には「第2段階」として、大川神社の神を祀り雨乞いを行ったようです。すると必ず雨が降ったと伝えられます。
いつの時代かに大川講のようなものができて、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀って、雨乞いも行うようになります。三角(みかど)の聖水をもらってきて祀ったりもしたようです。ここからはもともとあった地主神があった所に、雨乞いの神として大川神社が後から勧進されたようです。そこには、やはり里の山伏たちの活動があったようです。
まんのう町高篠の土器川堤防上の大川神社石碑
土器川の左岸の見晴らしのいい土手の上に大川神社という大きな石碑が建っています。横に常夜灯もあります。祠などはありません。ここからは、象頭山がよく見えます。この石碑には、戦後の大早魃の際に、大川神社を勧請して、雨乞い祈祷したところ大雨を降らたので、ここに大石をたてて大川神社をお祀りしたと記されています。この地点は、東高篠への土器川からの導水地点でもあるようです。以後、祭りは旧6月14日に神官を呼んでお祓いをして、講中のものがお参りしていたようです。講中は東高篠中分で50軒くらいで、家まわりに当屋のもの何軒かが世話をしていたと云います。。祭りの日は土器川の川原で市がたち、川原市といって大勢の人々が集まったようです。三日間くらい農具市を中心に市が開かれ、芝居、浪花節などの興行もあったと云います。 高篠の人たちが講を組織して勧進した大川山の分社なのです。ここにも山伏の影が見えます。
長尾の大川神社(まんのう町長尾札辻)
長尾の辻にも大川神社という大きな自然石が立っています。これも大川山の大川神社を勧請して祀ったようです。いつ頃から祀られるようになったのかは分かりませんが、大正7(1918)年の大水にそれまでの碑が流されたので、再建したものだと伝えられます。この地点は、土器川の水を旧長尾村、岡田村などに引く札辻堰のあるところで重要ポイントです。早魃の時には、ここに大川神社を祀って雨乞いの祈願が行われたようです。
長尾地区も江戸時代には、大川山に代参して御幣を請けてきたと伝えられます。しかし、勧進分社後には、ここの大川神社で雨乞い祈願が行われるようになったようです。ここにも講組織があり、旧長尾村一円の約200戸余りが講員となっていました。田植え後の旧6月14日には毎年お祭りをし、夜市が催され、余興などがにぎやかに行われていたと云います。
岡田の大川神社(綾歌町岡田字打越)
旧岡田村は、その地名通りに丘陵地帯で水田化が遅れた地域でした。そのために土器川の水を打越池を通じて導水し、各所に分水するという灌漑システムを作り上げました。その導水池である打越池の堤に、大川神社が勧進されています。それは昭和初年の大干ばつの際に、池総代の尽力で、大川神社の分神がお祀りされたものです。ここにも水利組合と大山講が重なるようです。
飯山の東小川、まんのう町の高篠東・長尾・打越とみてきましたが、次のような共通があることが分かります。
①土器川からの導水地点に、大山神社が勧進された②勧進したのは導水地点から下流の水掛かりの農民達で講を組織していた。それは水利組合と重なる。③勧進時期は、近代になってからである④勧進後は、そこで雨乞神事や祭りも行われていた
宇多津の大川講
宇多津にも大川講らしいものがあったようです。宇多津の山下長五郎は、昭和30年ごろまでは毎年大川山ににお参りしていたと語っています。この家では、大川神社の祭神木花咲屋姫命(安産の神)の掛軸が残っています。数人の講員が集まってお祀りしていたようなので大川講があったのでしょう。なぜ宇多津に大山講があったのでしょうか。それはこの講は、尾池玄蕃が大川神社を信仰していたことから来ているというのです。尾池玄蕃は生駒藩の西嶋八兵衛の下で、丸亀平野の統治を行い、大山念仏踊りのために鉦を寄進したり、滝宮念仏踊りの開催のためにいろいろと動いていることは以前にお話ししました。
多度津の大川神社(多度津町元町九)
権現さんとも呼ばれますが、大正末期まで大川講があったようです。西讃府志に「大川祠堀之町ニアリ」、神社考に「大川大権現里社」とあります
富熊の大川神社 綾歌町富熊字奥河内
この神社は奥河内の山の上に勧進されていて、雨乞いよりも安産の神として地元の信仰を集めてきたようです。大山神社は、祀神として大山祗神と、その娘の木花咲耶姫命が祀られ、祀られた神社が、大川大権現と呼ばれていました。近世になると、修験者たちは木花咲耶姫命を「安産の神」として流行神化します。
雨乞いとは関係のない地域では、山伏を通じて大川山の大川神社に参り安産のお札が配布されるようになります。そして、いつのころからか代表の者が参拝して、お札をまとめて受けてきて妊婦に分けるようになったと云います。それが後に、ここに大川神社を勧請してお祀りするようになったと伝えられます。
①霊山とされた大川山は、山林修行者の行場で8世紀末には、国衙によって中寺廃寺が建立される。
②中寺廃寺が平安時代末期に衰退すると、五流修験(熊野行者)たちが大山権現として開山した。
③彼らは修験者が開いた坊集落である金剛院集落を拠点に、大川山を霊山とする行場エリアを形成した。
④中世末になると、土器川上流の美霞洞などが雨乞の聖地とされ、大川山は雨乞信仰の霊山ともなる。
⑤雨乞い祈願を主導したのは、修験者たちで、土器川沿いの各村に大山講を組織し、大川山への参拝を誘引した。
⑥近代になって神仏分離で修験道組織が解体していくと、里の村々は地元に大山神社を勧進するようになる。
⑦それが土器川沿いに立つ大山神社関係の石造物である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(2025/08/24改訂版)
参考文献
丸尾寛 日照りに対する村の対応
琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社






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