一円保絵図 テキスト
 善通寺一円保絵図
善通寺には、明治40年(1907)に、本寺の京都随心院から持ち帰ったという墨で描かれた絵図があります。「讃岐国善通寺近傍絵図」で一般的には「一円保絵図」と呼ばれています。この絵図のテキストクリニック(史料批判)を行った論文を探していたのですが、なかなか出会えませんでした。

一円保絵図 テキスト2

 先日、何気なくアマゾンで検索すると、郵送代込みで352円なのを見つけてすぐにクリックしました。この本の中に載せられている高橋昌明「地方寺院の中世的展開」をテキストにして善通寺一円保絵図を見ていくことにします。
まず筆者は、この絵図はなぜ、京都の随心院にあったのかを探ります。  絵図裏書に次のように記されているようです。
善通寺□□絵図
徳治二年丁未十一月 日
当寺百姓等烈参の時これを進らす
一円保差図(別筆)
□は虫損
「当寺」とは文脈からいって随心院でしょう。「烈参」は「何事かを請願するとか申し出るとかするために、多くの人が一緒に行くこと」という意味だそうです。善通寺の百姓らが徳治二年(1307)本所の随心院に、なにかを要求するため上洛して、その際にこの絵図を提出したようです。何を要求したのかが、今後の問題となります。 
一円保絵図 原図
善通寺 一円保絵図
絵図は善通寺で作成されたようです。
幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図です。見れば分かるとおり、描かれている内容は左右で二つに区分できそうです。真ん中の太い黒帯が弘田川です。その西側(右)が五岳、東側(左)が条里制で区切られた土地と、その中に善通寺の伽藍と誕生院が見えます。これだけの絵図を書ける「職人」が善通寺にはいたようです。三豊にある中世の仏像には、善通寺の絵師がかかわったことが史料から分かります。絵師や仏師集団が善通寺周辺には存在したようです。
  上の絵図をトレスしたものがつぎの下の図です。

一円保絵図 全体

まず、この絵図で描かれている範囲を確定しておきましょう。
北側(下)からを見ていきましょう。
お寺の南の茶色のエリアが現在の「子どもと大人の医療センター」になります。ここは、弥生時代から古墳時代にかけて善通寺王国のコア的な存在であった所です。しかし、この絵図では、百姓の家が散在するのみです。お寺の周辺に形成された「門前町」に人々は「集住」し、この地区の「重要拠点性」は失われているようです。
 その西、弘田川を越えた所に「ひろ田かしら」という地名が書き込まれています。ここの東西の条里が北側の境界となるようです。ここから北の条里は描かれていません。
  西端を見てみましょう。右下角に「よしわらかしら」が見えます。
現在の吉原のようです。ここにも条里制跡は見られますが、その方位は善通寺周辺の条里制とは、異なっているように見えます。

  善通寺の東側の条里制のラインを見てみましょう。
ここで手がかりになるのは東の端に書かれた「よした」という地名です。現在の吉田でしょうが、ここには条里制跡は描き込まれていません。もちろん、丸亀平野全体に条里制は施行されていますので、敢えて書き込んでないということになります。
 南側は東に「おきのと」と西に「ありを□」から流れ出した水路が境となっています。これより南の条里制は、やはり描かれていません。考えられるのは描かれた部分が、善通寺の一円保に関係するエリアであったということです。それでは、条里制が描かれているのは、現在のどの辺りになるのでしょうか?
  現在の地図に落とすと、下図のようになるようです。
一円保地図1
一円保絵図東部分の現在の範囲
この範囲が善通寺の一円保のエリアだったと考えられます。もう少し拡大して見ましょう。
一円保絵図 現地比定拡大2
一円保絵図の現在のエリア
絵図で描かれている条里制エリアを確認しておきましょう
A 南側①~④のラインは、四国学院図書館から護国神社・中央小学校を西に抜けて行くもので、多度郡条里の6里と7里の境界線になる。
B 東側①~⑥(グランドホテル)のラインは旧多度津街道にあたり、古代においては何らかの境界線だったことがうかがえる。
C 北側ラインは⑤の瓢箪池→仙遊寺(大師遊墓)→宮川うどん→善通寺病院北側へと続く
D 西側は香色山と誕生院の間から、弘田川を越えて五岳の麓まで

   Aの①~④については、四国学院内での発掘調査から道路の側溝跡が見つかり、さらにそれを東に一直線にまっすぐ伸ばした飯山町の岸の上遺跡から出てきた側溝跡とつながることから、このラインが旧南海道だと研究者は考えているようです。つまり、一円保の南側は南海道で区切られていたことになります。
Bの旧多度津・金毘羅街道は、現在も大通りの東側を聖母幼稚園から片原通りまでは残っています。またB・Cは、中谷川の流路とも重なります。この川は、弥生時代から古墳時代に栄えた旧練兵場遺跡の北限でもあった川で、善通寺王国の成立に大きな役割を果たしたことが考えられます。
 ちなみに、佐伯氏が氏寺として最初に建てた仲村廃寺(伝導寺)は、⑥グランドホテルの西側のホームセンターダイキ周辺です。氏寺は、この川に隣接する地点に建立されています。古墳時代から7世紀前半の佐伯氏の拠点は、この付近にあったことを考古学的発掘の成果は教えてくれます。

金倉川 善通寺条里制
那珂郡・多度郡の条里制と南海道(推定)
  また、南海道の南側隣接する⑦からは多度郡の郡衙と推定できる建物群が見つかっています。
ここに建物群が姿を現すのは、7世紀末から8世紀初頭にかけのことで、南海道が東から伸びてきた時期と重なります。南海道を基準として条里制は引かれていきます。佐伯氏が先ほどの仲村廃寺周辺から⑦のエリアに拠点を移したのは、この時期なのでしょう。これに伴い氏寺も仲村廃寺から現在地に移し、条里制に沿う形で移築したことが考えられます。補足説明はこれくらいにして、先に進みましょう。
 
さきほどのトレス図と比べて、研究者は次の点を指摘します。
①絵図の東部と西部では「縮尺」が異なる。西の五岳山側は、東の3倍の縮尺になっている。
  絵図では東部と西部は半分・半分の割合だが、実際には西部の山側の方がその3倍以上の面積 がある。
②「おきのと」と「ありを□」は現在の壱岐湧と柿股湧になる。絵図では、ふたつの出水は一円保のすぐそばにあるように描かれているが距離的なデフォルメがある。実際にはかなりの距離がある。
全体像はこれくらいにして、もう少し詳しく各部分を見ていきましょう。
まず、一円保の範囲と周辺の郷との関係を地図で確認しておきましょう
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図の範囲
 東側の良田郷と隣接する条里制の部分から見ていきます。

金倉川 10壱岐湧水
善通寺東院と西院
 中央に善通寺伽藍とその東に誕生院があります。よく見ると、伽藍の周辺やその北方(下方)には多くの家屋が描かれています。
 
 集落を見ておきましょう
  建築物は、善通寺の東院や誕生院等を見ると、壁が書かれています。壁が書かれているのが寺院関係で、壁がない屋根だけの建物が民家だと研究者は考えているようです。絵図に描かれた民家を全部数えると132棟になるようです。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺の伽藍の真下(北)で弘田川東岸のまとまり                   11棟
第4グルーフ 中央やや右寄りの上下に連なる大きい山塊の右側のまとまり                   15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊をを挟んだ右側のまとまり                   6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり     7棟

 家屋が集中しているのは、善通寺伽藍周辺で71あるようです。
半分以上がお寺の周りに集まっていることになります。中世における「善通寺門前町」とも言えそうで、一種の「都市化現象」が進んでいたようです。
 善通寺市立郷土館に展示された「善通寺村絵図」(明治6年頃)には、伽藍の東南に17戸、東に79戸、北東に38戸、北西に53戸、西南に83戸、計270戸があったと記されます。江戸時代は、善通寺周辺に門前町が形成され、それ以外は水田が広がる光景が続いていたようです。
 お寺周辺の家屋は、七里八里の界線を境に上下に分けることができそうです。上は平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあるので、寺院関係者の住居と「くらのまち(倉の町)」など寺院の関連施設と研究者は考えているようです。
 これに対して、下側(北側)は百姓の家々ということになります。
善通寺の関係者は、僧侶たちと荘官層にわけられます。
荘官では田所の注記だけが見えますが、曼奈羅寺方面には惣追捕使の領所という注記もあります。「随心院文書」からは、善通寺には公文・案主・収納使・田所がいたことが分かります。また別の史料からは、次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。
一円保絵図 中央部

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。
寺僧以上が
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」  (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」              (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
(数字は、絵図上の場所)
 これらの僧侶の房の位置から分かることは、寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいます。絵図は僧侶間の身分・階層を、空間的にも表現しているようです。

その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性が考えられます。
例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師が善通寺周辺にいたことは、仏像の銘文などからも史料的にも分かっているようです。しかし、絵図からはうかがい知れません。

 絵図の下方(北側)の家を見てみましょう。
金倉川 10壱岐湧水

右下の茶色で着色したゾーンは、善通寺病院のエリアになります。そこから東にかけてが現在の農事試験場の敷地にあたります。この地域は、
①善通寺病院周辺が、弥生時代の中核地域
②(20)(21)周辺が、仲村廃寺跡で古墳時代以後の中心地
であることが発掘調査から分かっています。そして、②を中心とするエリアに、名田が密集しているようです。名田らしき注記を挙げると
「光貞」が六ヵ所
「利友」が六ヵ所
「宗光」が五ヵ所
 これを名主だと考えることもできそうです。
名は徴税の単位で、荘内の各耕地(作人の各経営)はいずれかの名に所属させられていたとされます。年貢や課役も作人が直接領主に上納するのではなく、名の責任者である名主がとりまとめて納入させたようです。「光貞」「利友」「宗光」は、その徴税責任者名かもしれません。つまり、名主であったことになります。ちなみに「寺作」は9ヵ所で合計2町9反以上と注記されています。これが善通寺の直轄寺領なのでしょうか。
一円保絵図 北東部

  最後に東部エリアの用水路を見ておきましょう。
 条里制地割上に描かれた真っ直ぐな太線が水路になります。水路を東に遡っていくと「をきどの」「□?のい」と記された部分に至ります。これは出水で、水源を示しているようです。
この湧水は、現在のどこにあたるのでしょうか。
これは、以前にも見たように生野町の壱岐湧と柿股湧になります。
そこからの水路が西に伸びて一番東の条沿いに北上していきます。この条が先ほど見たように、旧多度津街道になります。
条里内の(2)の家屋は、護国神社 (1)は中央小学校あたりになるのでしょう。湧水からの水路は、次の条まで延びています。ここからは、地割の界線にそって灌漑用水路が作られ農業用水を供給していたことが分かります。よく見ると、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みもあります。
 用水路がどこまで伸びているのかを見てみましょう。
それは、農業用水がどこまで供給されていたかです。用水路が伸びているのは、(20)(21)のある坪あたりまでです。それより北(下)には、用水路は描かれていません。
弥生・古墳時代には、多度津街道沿いに旧中谷川が流れていたことが発掘からも分かっています。
旧練兵場遺跡 変遷図1
弥生時代の旧練兵場跡 右側が中谷川


ところが、一円保絵図には中谷川が途中で涸れたように描かれています。これは旧練兵場(現農業試験場や善通寺病院のエリア)に灌漑用水は、届いていなかったということになります。ほんまかいな? というのが正直な感想です。 この絵図をもう一度見ると、用水路は2つの湧水のみに頼っているようです。
 金倉川からの導水水系が描かれてはいません。
 現在は、中谷川は金倉川からの導水が行われています。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の金倉川からの導水路

しかし、中世のこの時点ではそれが出来なかったのかもしれません。中世の権力分立の政治情勢では、荘園を越える大規模な用水はなかなか建設や維持が難しかったようです。建設のための「労働力の組織化」もできなかったのでしょう。例えば、この時期の満濃池は崩壊したまま放置され「池内村」が旧池底に「開拓」されていた状態でした。金倉川の導水路を確保することは難しく、善通寺一円保の用水源は、出水と有岡の池に頼る以外になかったようです。
 こうしてみると善通寺の百姓達が京都の本寺へ「烈参」したのも水に関係することだったのではないかと思えてきます。
今回は、この辺りにしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献