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金毘羅街道百十丁石から望む櫛梨山と公文山

まんのう町公文周辺の丸亀街道と遺跡
公文周辺の旧丸亀街道
  まんのう町の公文山には富隈神社が鎮座します。
幕末に、この神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道を選びます。当時としては、衝撃的な事件だったようです。今回は、この木食善住上人について探ってみようとおもいます。テキストは「川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報」です。

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         まんのう町公文の富隈神社
まずは、現地に行ってみましょう。目指すは、まんのう町公文の富隈神社です。
 社殿の上の丘は、いくつかの古墳があり、埴輪も出土しているようです。櫛梨山から続く、このエリアは古代善通寺王国と連合関係にあった勢力が拠点としたした所なのでしょう。南に開けるエリアの湧水を利用した稲作が早くこら行われたいたようです。中世には「公文」の地名通り荘官がいたようですし、島津家が地頭職を握っていた時代もありました。近世になると、丸亀からの道が金毘羅街道として賑わうようになり、参詣客に「公文の茶室」として親しまれていたようです。
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               富隈神社
金毘羅街道から真っ直ぐに階段が富隈神社に向かって続きます。
 鳥居をくぐり山門に向う参道階段の途中は、金毘羅街道の丁石がいくつか両側に並んでいます。
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金毘羅街道にあったものが、この参道に集められているようです。
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神社にお参りして、さらに上に登っていきます。

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木食善住上人の入定塔への案内板
山頂には、国旗遙拝ポールが立っていますが、ここではありません。
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木食善住上人の入定塔
右手の道に入り込んでいくと、尾根筋に五輪塔が見えてきます。これが木食善住上人の入定塔のようです。「横穴古墳の石室を利用して即身成仏を遂げた」とテキストには書かれています。そうだとすると、この塔は古墳の上に建っていることになります。
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            木食善住上人の入定塔
近づいて文字を確認します。正面に
木食沙門・善住上人・白峰寺弟子
とあります。右側面には明治3年とあります。白峰寺とも関係があったようです。
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左は10月16日と刻まれます。
善住上人は明治3年秋、84歳で入定の業に入り10月15日寂滅します。塔には10月16日と刻まれていますから、翌日には入定塔が建立されたことになります。生前から信徒達によって準備されていたようです。
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台座には「丹後国産」と刻まれています。上人の誕生地である丹後から石が取りよせています。入定中に、準備を進めていたようです。

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木食善住上人は、寛政八年(1796)2月11日、丹後国宮津に生まれています。
24才のときに、金毘羅神に誓って仏門に入ったといいます。名を源心と改め、箸蔵寺・高野山・金剛山等で修業を積み、霊運寺の泰山和尚によって潅頂を受けます。
 修験者として諸国を廻り、嘉永3年(1850)54歳で公文村(まんのう町公文)に、公文の金毘羅街道沿いに護摩堂を建て、不動尊を安置して、諸人のために加持祈語を行います。暇あれば、仏像を彫刻します。名も知れていて、丸亀・岡山両藩からも出入を許されていたようです。

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木食善住上人の説明版
入定塔に手を合わせると、 善住上人のことが知りたくなりました。
残された史料を読んでみます。

善住上人丹後官津之人也、寛政八丙辰二月十一日ヲ以テ誕ス。姓ハ杉浦氏天資猛烈ニシテ好武、十四才ノ冬家ヲ出デ、三都二漂浪シ廿四才ノ春二至り先非ヲ悔ヒ仏門二入り性ヲ全クシ、且ツ多クノ罪悪ヲ贖ハンコトヲ思ヒ、我讚ノ金刀比羅宮広前二於テ祈テ日ク、自今改志向善、神仏二道ノ奥意ヲ発明シ、其術ヲ以テ億兆ノ人ヲ助ケ一天四海二名ヲ揚ゲ天人不ニノ神位二至ラン、伏テ仰願ハクハ、此志願ヲ得サセ給ヘト深ク誓ヒ薙染シテ、阿州箸寺二行テ初門ノ行ヲ修シ名ヲ源心卜改メ、高野山高坂坊ニテ金胎両部ノ大法及ビ不動護  摩供ノ法ヲ修ス。

  意訳変換します
善住上人は丹後の宮津の出身である。寛政八年(1796)2月11日生まれで、姓ハ杉浦氏で生まれながらに猛烈で武を好む性質だった。そのため14才の冬に家を出て、三都の街を漂浪した。24才の春になって、その非に気づき悔い改め仏門に入り、自分の性をただし、多くの罪悪を贖うことを願って、讃州金刀比羅宮の広前で次のよう祈った。これより、志を改め、善に向かい、神仏に道の奥意を発明し、その術で億兆の人を助け、一天四海に名を揚げ、今まで人々がたどり着くことの出来なかった神位をめざす。伏して仰願いますので、この志願をお聞き届けください。
と深く願った。そして、阿波の箸蔵寺で初門の修行を始め、源心と名乗った。その後、高野山高坂坊では、金胎両部(金剛界・胎蔵界)の大法、及び不動護摩を修めた。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなった。
  14才で丹後の生家を出た少年が、三都の都市で10年間の徘徊・放埒を重ね、24才で仏門の前にたどり着きます。
それが金毘羅さんであったようです。どうして、金毘羅さんだったのでしょうか。想像するなら都市で活動する金比羅修験者との出会いがあったのではないでしょうか。
 当時の金毘羅大権現は、別当寺の金光院院主を領主とする宗教的な領国でした。金光院院主は、もともとは高野山で修行積んだ真言密教の僧侶でもありました。境内では護摩祈祷が行われる神仏混淆の仏閣寺院が金毘羅大権現でした。つまり、運営主体は真言密教僧侶で、彼らは修験者でもあったようです。当時は修験者=天狗とされていましたので、金毘羅大権現はある象頭山は天狗の山としても有名だったようです。そのため全国の修験者たちの聖地でもあったのです。
 江戸時代の「日本大天狗番付表」からは、当時の天狗界(修験者)の番付が分かります。 西の番付表に名前の挙がっている讃岐の天狗を見てみると・・・
横綱   京都 愛宕山栄術太郎
出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼
大関   京都 鞍馬山僧正坊
関脇   滋賀 比良山次郎坊
小結   福岡 彦山豊前坊
出張小結 香川 白峯相模坊
前頭   愛媛 石鎚法起坊
同    香川 象頭山金剛坊
同    岡山 児島吉祥坊
同    香川 五剣山中将坊
同    香川 象頭山趣海坊
  張出小結には、白峯相模坊(坂出市白峰寺)があります。さらに前頭には「象頭山金剛坊 象頭山趣海坊」の名前があります。ここからは、象頭山が天狗信仰のメッカのひとつで修験者たちが活発に活動していたことが分かります。
善住上人の生まれた丹後は、中世には修験の一大集団の拠点でした。
彼らは独自の経典も持っていて、その中の一つである「稽首聖無動尊経』には、次のように記されます。
「我が身を見る者は菩提心を発し、
 我が名を聞く者は悪を断ち、
 我が説を聴く者は大智恵を得、
 我が心を知る者は即身成仏せん」
 この教えに従い、丹後出身の修験者たちは、多くの木食を生み出し、生きながらにして即身成仏し、入定する道を辿った先達が数多く送りだしています。善住上人も、丹後の先達達の道を辿って、不動明王を守護神として諸人を救済し、最後に即身成仏する道をたどります。それは彼にとっては「自然」な道だったのかもしれません。

善住上人は24才で、そのスタートを金毘羅さんに求めたことになります。
当時、金毘羅大権現で修験道組織を担当していたのは多門院でした。多門院は、江戸時代初期に金光院宥盛が土佐の有力な修験勢力を招いて定住させた子院です。金毘羅さんの民営部門と修験関係のことを担当したと云われます。江戸時代後半に台頭してきた阿波の箸蔵寺の修験者たちを、金光院に最初に顔合わせさせたのも多門院だとされます。当時の金毘羅大権現の天狗会のリーダーだったようです。
 多門院が管轄する修験ネットワークの中に、若き日の善住上人は飛び込んだことになります。
そして、上人の最初の修行地となったのが多門院と関係の深い阿波の箸蔵寺でした。ここで初門の修行を始め、源心と名乗り、その後、高野山高坂坊に転じていきます。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなったと記されます。「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼びます。彫刻仏で有名な円空も「木食上人」です。同じような修行スタイルと志を抱いていたことがうかがえます。
  しかし、この時点では彼はまだ私度僧(しどそう)です。私度僧というのは、正式な許しを得ずに出家したお坊さんのことです。その後の修行生活を見てみましょう。

夫ヨリ大和、金剛山北原ノ大獄ニテ一千日修行、亦泥川ノ岩谷ニテ一日水浴三度シテ一年念仏修業、次二諸国山々滝々霊社ヲ順拝後、四国霊場四度ノ終リニ東京、深川霊運寺泰山和尚卜共二、亦七度順拝其間恵心刻苦シテ暫クモ怠廃セズ、真言密法ヲ授カリ終り霊運寺二従ヒ行キ、棺観頂壇二入リテ黍皆伝法ス。
意訳変換しておきます

 文政二年(1819)の冬、大和、金剛山北原の大獄で千日修行、また泥川の岩谷で一日水浴(瀧行?)三度の一年念仏修業、さらに諸国の山々滝々霊社を順拝後に、四国霊場を四度巡り終えた。その時に東京・深川霊運寺の泰山和尚と共に、7回の巡礼を重ねた。その間の苦難にも、怠廃することなく真言密法を授かり終えた。そこで霊運寺から棺観頂壇で皆伝を受けた。

  金剛山での千日修行、一年念仏修行の荒行を行い、その後に、四国霊場を11回廻っています。そして、深川の霊雲寺泰山和尚から潅頂を受けています。これで、正式な出家をした得度僧(とくどそう)になります。
実復夕四国へ帰り金刀比羅官へ神仏ノ像、千鉢奉仕ラント誓願、裸銑ニシテ人家ノ内二不宿、火食セズシテ四国十遍拝順、今西讃観音寺少し東二生木ノ不動尊アリ、是ハ上人右樹下二宿セントセルニ不図傍二斧アルヲ以テ一夜二彫刻セシナリ如、此霊異ノ事件枚挙ニ違アラズ。
  後東讃自峰寺而住和尚弟子トナリ善住卜改、
白峰、根来ノ間、南條峰二小庵ヲ作り住シ、毎日水浴数度後干亦諸国修行二出デ紀州那智山ニテ三七火滝行。又同山権現二於テ廿一日断食行ヲ為シ、次二志摩国沖ニテ筏二乗り修行ノトキ俄二大風起り洋中へ吹キ出サレ、筏解ケテ丸太ヲ持チ泳ギ居ル時、神来り給ヒ、紀州孤島へ助ケ給フ干時、七福神委ク顕ハレ給フ也、士人三十六才ノ春也。夫ヨリ讃ノ南條二帰ル、今年大早上人大久保一学公ノ命ヲ奉ジ根来ノ北、ジョガ渕二於テ雨ヲ祈り霊現忽二在り。大久保公ヨリ恩賞ヲ賜ハル.
意訳変換すると
   その後再び四国へ帰り、金刀比羅官へ神仏像を寄進することを誓願した。
そして、人家に泊まらずに、煮炊きしたものを食すことなく、四国巡礼を10回行った。今、西讃の観音寺の東に生木ノ不動尊があるが、これは、上人がこの木の中に宿っていた不動尊を、傍らの斧で一夜の内に掘りだしたものである。このように上人の霊異事件は、枚挙できないほどである。
 
その後、白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた。
白峰寺と根来寺の間の南條峰に小庵を作り住み、水浴を毎日、数度行い身を清めた。その後、また諸国修行に出た。紀州那智山で三十七火滝行。同山権現で廿一日断食行を行い、次に志摩国沖で、筏に乗って修行中に、にわかに大風が起り、大海に吹き出され、ばらばらになった筏の丸太を持って泳いでいると、神が救い給いて、紀州の孤島へたどり着いた。七福神のすべてが現れ救われた。これが上人36歳の春のことである。
 その後に讃岐南條に帰ると、その年は大干ばつであった。そこで、大久保一学公は上人に雨乞いを命じた。上人は根来寺の北のジョガ渕で、雨を祈りたところ霊現あらたかでたちまちに雨が降った。これで久保公より恩賞を賜わった。
近畿での荒行を終えて帰った後も、四国巡礼を繰り返し行っています。
そして「白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた」とあります。白峰寺は「先ほど見た全国天狗番付の中に西の張出小結に「白峯相模坊(坂出市白峰寺)」とありました。相模坊という天狗の住処として有名でした。この天狗は、崇徳上皇の怨霊と混淆したと物語では伝えられるようになっていました。ここからも善住上人が修験者の道を歩んでいたことが分かります。入定塔にも「白峰寺弟子」とありました。
 当時の四国霊場は修験者の行場の伝統が残っていたようです。
「素人遍路」は、納経・朱印の札所巡りでした。しかし、修験者の四国巡礼は、奥の院の行場での修行が目的であったようです。 さらに熊野行者の本拠地である那智で滝行、熊野権現で断食、志摩で補陀落渡海行をおこなっています。讃岐に帰ると、雨乞い祈願を根来寺で行い、成功させています。空海以来の善女龍王信仰に基づく雨乞祈祷を身につけていたようです。こうして、武士達支配層からの信心も受けるようになっていきます。

上人南條峰ニテ入定セント三十八才、十一月十三日石室二入定有故、翌年二月、八十二日ニシテ被掘出、根来寺来而警之旬有五日ニシテ更二念陽二適ス、然後益爾密法ヲ研究シテ不惜四十一才ノ五月二十三日ヨリ、高野山紀州ノ大門ヨリ奥院マデ無言断食シテ、 一足三拝ヲ三日三夜二勤ム、抑一足三拝ハ弘法大師御入定後、白河法皇御修行、後之ヲ行フ者在ルコト莫シ。依之野山文人々始メ諸国共ニ木食上人卜唱へ敢テ名ヲ云フ者無シ。後テ備州、岡山帰命院、個リノ住職トナリ四十三才ノ春、同宗十二箇寺見分ニテ、一七日ノ間二不動護摩八万本執行、此後、岡山公及ビ丸亀公ノ命ヲ奉ジ、毎事御武運ヲ奉祈、或ヒハ御城内二於テ護摩供ヲ奉修。実上人従十五才今七十五才入定ノ日至ルマデ、毎水浴不怠、寝ルニ横二伏ルコトナク終夜座シテ読経、自昼ハ勿論又仏像彫刻無巨細一夜二必成、之今年二至テ壱千三百有余射彫刻。以是上人修行円満是足終二真言、秘密両部神道ノ奥義、真面ロヲ発悟、諸人尊敬スルコト日々益盛ナリ。

意訳変換すると
上人は南條峰で入定を願い三十八才の時、十一月十三日に石室に入定すした。しかし、故あって、翌年2月に82日で石室から掘出された。その後は、密法研究に没入し、四十一才の5月23日から、高野山の紀州大門から奥院まで無言断食で、一足三拝の行を三日三夜勤めた。この一足三拝は、弘法大師入定後は、白河法皇が修行した後は、誰も行ったことのない行であった。この行により木食上人の名声は高まった。これより後は、備州・岡山帰命院の住職となった。43才ノ春、同宗十二箇寺の見分で、17日間の不動護摩八万本を執行し、その後は、岡山藩や丸亀藩の藩主の命を受けて、武運奉祈や城内での護摩供を行うようになった。
 実に上人は15才から75才で入定に至るまで、毎日の水浴を怠らず、寝るときにも横になることもなく、終夜座って読経した。昼は仏像を彫刻し、大小にかかわらず一夜の内に作り上げた。
 今年になるまでに1300体を越える神仏像を彫りあげてきた。以上のように上人の修行は円満で、遂に真言、秘密両部神道の奥義を修得した。そして諸人の尊敬を集めるようになった。
ここからは、上人は38歳の時に、一度入定を試みたことがあったことが分かります。故あって、中断されたことが記されます。一度、死んだ身であるという思いは、持っていたのでしょう。そして、いつかは果たせなかった即身成仏を、果たしたいと念じていたのかもしれません。その後は、名声も高まり岡山藩の信頼も得て、岡山で住職を務めました。同時に、人々の幸福を祈り、数多くの神仏像を彫り上げ、求める者に与えたようです。

公文 木食善住上人の釈迦三尊
 金箔の厨子の中に阿弥陀三尊像が立っています。台座には墨書で『元治二乙成丑二月善住刻七十才 林田村(坂出市)中條時次」と記されます
嘉永庚成年春、東讃藩、伊丹秋山氏等卜相謀テ護摩堂ヲ干此建立ス。上人徳益念盛ニシテ諸家争ッテ奉請故二営寺ニアルコト稀也。上人神祗及仏像彫刻且処々二暫時少滞留其霊験及地名猶又上人ノ
御祈徳二依テ武運長久、家業繁栄、無病延命等ノ如キハ別二霊験記有ルヲ以テ略ノ此篇ハ上人修行ノ一端ヲ云フモノ也。
 姦年希願伐就二依テ寺ヲ以テ真言僧二譲り、二月十一日営奥院ニテ入定菩薩如来卜成仏ナシ給ヒ四海泰平衆生度生ヲ守護ナシ給フナリ、余上人ノ霊徳ヲ蒙ルコト不少且旧好ナルヲ以テ柳其梗概ヲ記シ佗日同志卜共ニ相謀リテ上人伝記ヲ著ハシテ以テ営寺二秘蔵セント欲スト云爾
明治三庚午孟夏上院     復古堂 中條澄靖 謹而誌
猶上人ノ作品其他ノ遺品ヲ挙グレバ
一、仏像(上人七十歳作)綾歌郡金山村            善光寺蔵     
一、仏像(上人六十六歳作) 高篠村                  長谷川節氏蔵 
一、位牌       〃                                                片山甚吉氏蔵 
一、書物二部                                                   片山甚吉氏蔵 
一、ノミ及カンナ                                            山内永次氏蔵 
此外多数アル見込ニテ調査中ナリ
意訳変換すると
嘉永庚戌(1850)年の春、高松藩の伊丹秋山氏等と相談して、公文に護摩堂を建立した。上人の徳益は高かったために、多くの人々が争うように上人を招いたので、寺にいることは稀であった。護摩堂にいるときには、神仏像を彫刻した。その霊験は高く、上人の祈徳で武運長久、家業繁栄、無病延命など現れた霊記も残されているので、多くは語らないが、ここでは上人修行の一端だけを記しておく。
 明治3年、かねてからの願いよって、寺を真言僧に譲り、奥院で入定し菩薩如来としてり、成仏され、四海泰平、衆生度生を守護されいと願われました。私は上人の霊徳を蒙ることが少なくなく、古くから交流があったので、上人の概要を記し、同志と共に上人伝記を著わし、寺に秘蔵したいと思う。
明治三(1870)夏    復古堂 中條澄靖 この誌を謹呈する
なお、上人の作品や遺品をあげると次の通りである。
 
金毘羅丸亀街道
金比羅・丸亀街道の富隈神社付近

  善住上人が公文の地に護摩堂を建立したのは、嘉永年間の54歳の時のようです。
名声が高まってから発心の地である金毘羅大権現のお膝元に帰ってきたようです。金毘羅街道のかたわらの公文山松ケ鼻に護摩堂を建て、不動明王を安置し終の棲家としたようです。

公文山 富隈神社

 毎朝、東を流れる苗田川で水浴し、その後は堂の階上で太陽を拝礼して、祈祷と仏像を彫刻するを日課しました。彫刻中は、食を取らず専念従事して一夜彫りで作り上げたます。彫刻した仏像は堂内に、所せましと並んでいたと云います。

公文 木食善住上人の蓮如像
      坂出市林田町善光寺 善住上人七十才作

 各地からお呼びがかかるので、不在にすることが多かったようです。それでも、お堂にいるときには金毘羅参詣者に湯茶の接待を施し、諸人の願いあれば、祈祷や・予言を行いました。それが霊験あらたかなので、ますます信者は増えます。その名は近郷は言うに及ぼず、丸亀・岡山・江戸深川等に響いたと伝記は伝えます。
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富隈神社下の金毘羅街道 地元の人は「旧道」と呼んでいる

公文の谷くさり鎌の使い手で上人と親交のあった谷口嘉太郎氏は、入定の模様を次のように語っています。
明治三年春になって、護摩堂の後山の富隈神社の鎮座する丘の頂にある横穴式石室を入定地に選んだ。ところがこの時には、盗賊のため引き出され、その目的を達せすことができなかった。秋になって、再度入定の業に入った。五穀を断って、そぱ粉を常食とした。それも断ち、水を飲みながらひたすら経文を唱えて身体の衰弱をはかる。さらに、水の量も減らし、 一滴も飲まず十日。そこで入定室に入り、鐘を振り経文を唱えて死を迎えようとする。
 
各地より、信者が多く駆けつけ、入定室の近くに仮の通夜堂を設け善住上人の振る鐘の音に耳を傾ける。上人の唱える経文に和して、しめやかに経文を唱え続けた。入定室からの鐘の音と経文の声は、日がたつにつれて次第に低くなり、幽かになっていった。ついに十月十五日、途絶えてしまつた。
 人々は善住上人の徳を偲びながら入定室を開じた。その入定の姿は見事な最後であった。翌十六日立派な入場塔を建立した。その石は、善住上人生誕の丹後宮津から運ばれてきた石だった。時あたかも明治維新政府による廃仏棄釈の世なれば、佛閣は荒れ、仏像の多くは野に積まれ、又は焼かれるありさまである。この状態に耐えかねて、仏道ここにありと入定したのではなかろうか。
 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったようです。
各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたようです。また上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人と往来も多かったようです。
公文 灯籠 木食善住上人

現在、善通寺東院境内にある眼鏡灯(摩尼輪灯)2基は、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置したもののようです。それが、いつの時代かに善通寺境内に移されたようです。残りの一基は、今は櫛梨神社の参道にあるようです。
丹後からやってた若者が象頭山の天狗に導かれ、修行に明け暮れひとかどの修験者に成長し、即身成仏する姿を追って見ました。その中で改めて金毘羅大権現の当時のパワーを感じないわけにはいきません。ある意味、都会を捨てたIターン若者を受けいれるだけの包容力が金毘羅さんにはあったのでしょう。同時代の人材を見ても、多くの文化人達が、やってきて周辺に住み着いています。その中には、以前にお話したように、金毘羅街道の整備に尽力する画家や僧侶がいました。
 また、国会議員となる増田穣三に華道を教えた宮田法然堂の僧侶も丹波からやってきた僧侶でした。そのような「よそ者」が住み着けるゆとりが金毘羅さんの周辺にはあったような気配がします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報
まんのう町誌
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