丸亀平野が土器川の扇状地として形成されたことを以前に紹介しました。
それでは、丸亀扇状地の末端はどこなのでしょう。また、いつごろにできたのでしょうか。
その疑問に応えてくれる報告書を見つけましたので紹介します。テキストは「平池南遺跡」香川県教育委員会 2018年」です。

平池南遺跡 上空写真1
 遺跡名は「平池南」です。上の写真の造成中の場所で、現在は丸亀競技場ができています。北側にある四角い池が平池です。その向こうには備讃瀬戸が広がります。つまり、この報告書は丸亀競技場の発掘調査書なのです。丸亀競技場は1998年のインターハイに合わせて作られたものです。その報告書が20年後に出されたのかは、私にとっては最初の「謎」です。それは、さておいて先に進みます。
平池南遺跡 上空写真2

まず、丸亀平野の5m等高線地図を見てみましょう。
平池南遺跡 5m等高線地図

これを研究者が見るとすぐに、扇状地だと気づくようです。私は、何十年見ていても気付きませんでした。この地図を見ていると、小さな谷が見えてきます。これがかつての土器川の痕跡と考えられます。谷には川が流れていたはずです。その流れを青色で書き入れて見ました。
調査報告書は、平池南遺跡について丸亀扇状地の先端に位置するとします。

平池南遺跡調査報告書 10㎝等高線図

遺跡は地表下90㎝に礫層があり、八つ手の葉状に3方向に突き出す平面形になっているようです。扇状地の微地形は、旧中州・中州間低地・旧河道の集合体なので数mの起伏をもった礫層を基盤層とするようです。そのため地表下90㎝という数字をめあすにしながら研究者は扇状地の範囲を推定していきます。
 その際の指標になるのが、鹿児島湾の姶良カルデラが2万9千~2万6千年前の噴火で降らした火山灰のようです。
この時の火山灰層の厚さは
20cm以上:九州北部、四国、中国地方、近畿地方
10cm以上:中部地方、関東地方
だったことが1970年代に分かってきました。つまり、この火山灰より下が更新世で、上が沖積世となります。また、この地層を境にして植物の種類が大きく変化しており、寒冷化の原因になったと研究者は考えているようです。

 昭和の終わり頃に進められた四国横断自動車道(高松~善通寺)建設に伴う発掘調査でも、東から郡家一里屋遺跡、龍川四条遺跡、龍川五条遺跡が発掘されました。その際にも、この火山灰層が見つかっています。このうち一里屋遺跡では、地表下40cmで火山灰層が見つかっています。ここから丸亀扇状地の形成は完新世ではなく更新世に遡るものであることが分かってきました。扇状地が形成された後に、姶良カルデラの噴火があったことになります。


丸亀扇状地の先端部とその北の三角州の境界関係は、下図のようになっています。更新世に形成された扇状地の堆積層の上に沖積層の三角州が堆積して被さっている形です。
平池南遺跡 洪積世

この境界に、段丘崖などの連続面が見つかれば素人にも分かります。しかし、それは丸亀平野では、簡単なことではないようです。そこで、研究者が行うのが旧河道の開折状況です。

1962年の空中写真を判読して作成したのが下図になるようです。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

これを読み取って行きましょう
A 丸亀城の東1kmに⑪土器川が北流しています。
旧土器川の両河岸には、河川の蛇行によって形成された段丘崖が発達します。土器川は、西は善通寺の弘田川、東は飯山の大束川までを流路を変遷し、丸亀扇状地(平野)を形作ってきました。九亀平野の地形帯は、扇状地帯、三角州帯の配列で、中間地帯がないと研究者は考えていることは先述しました。まさに「丸亀平野=扇状地」なのです。
B その流路の最も東にあたる飯野東二瓦礫遺跡(飯山町)では、段丘崖下の旧河道から中世土器がでてきています。
土器川 流路等高線

ここからこの段丘崖が古代末に、旧土器川によって削られてできた完新世丘崖であることが分かっています。完新世段丘崖は右岸でははっきりと分かりますが、西側は分かりにくいようです。右岸側が攻撃斜面だったのでしょう。
C ⑪土器川の西側を見てみましょう。
平池南遺跡 地質図拡大

高速道路から北には、氾濫原面が広がっていたことが分かります。
 特に丸亀城の東南側(現土器町)では氾濫原面に向かって多数の旧河道が流れ込んでいたようです。旧河道は氾濫原面では分かりにくいのですが、上位の地形面でははっきりと地表面を刻んでいます。これは氾濫原面の形成で、浸食基準面が低下したために、その上位にあたる地形面が開折されたためと研究者は考えているようです。
 これらの旧河道を判読していると、明瞭なものと不明瞭なものに分けられ、上位の地形面が2面に分けられることがうかがえると研究者は云います。
 次に研究者は、丸亀城周辺の空中写真から次のような点を読み取っています。
①丸亀城の東南側の聖池西側に1m程度の小崖が1,5km近く連続していること
②九亀城西高校のグラウンド南側にも1m以上の高低差のある段差があること
③丸亀城に向かって背稜状に等高線の盛り上がりが見られること
④この盛り上がりを段丘面1と仮称する。
①については、先に見た5m等高線地図でも聖池から北の丸亀城の堀に向かって、流路があったことがうかがえます。丸亀城の堀は、その地下水の湧水があるようです。
また⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路があり、現在のため池群は、その旧流路の上に近世になって築造されたようです。
さらに、⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路沿いにもため池が並びます。旧流路が扇状地に掘り込んだ凹地を利用しているのがよく分かります。

  次に丸亀平野の条里制遺構図を見てみましょう
讃岐の条里制については、南海道が最初に引かれて、それを基準に順次条里制ラインが引かれたと考えられるようになっています。そして、その時期は6世紀末から7世紀初頭の藤原京時代だとされます。
平池南遺跡 周辺条里制

上の遺構図を見て条里制が残る部分と、空白部があることが分かります。空白部は条里制が施行されなかったエリアになります。空白部なのは、次のエリアです。
①海岸部
②土器川・金倉川・弘田川の河川氾濫原
③土器川・金倉川の旧河道と考えられる流域
条里制のライン引きと、実際の施行(工事)との間には時間差があるようで、中世になってから工事が行われた所もあることが発掘調査から分かってきています。しかし、空白部は7世紀前後には、条里制を施行する状態にはなかったのでしょう。つまり、海の中か湿地か、氾濫原で耕作不応地帯だったと考えられます。そういう目で那珂郡の条里制の北部を見てみると次のような点が推測できます。
①那珂郡の一条から三条は、聖池から先代池の北部までは、湿地地帯であった。
②那珂郡の四条・五条は微髙地が続き耕作可能エリアであった。
③那珂郡と多度郡の境には空白地帯があり、これが旧金倉川の流路と考えられる。
④金倉川は、与北付近で近代に流路変更が行われたことが推測できる。
これら以外にも、先ほど5m等高線図や地形分類図で見た
⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路
⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路
の周辺も条里制空白部になっています。

研究者は、これらの地形面と氾濫原面との間に、もう1面の地形面があることを指摘します。
それが聖池西側の小崖と土器川に沿う小崖の間に広がる地形面です。確かにこの地形面上には、周りから切り離されぽつんと条里型地割が残っているようです。氾濫原面だったら条里制跡は残りません。条里線のラインが引かれた時代には、完新世段丘Ⅰ面であった可能性があるようです。

ここまでで分かることをまとめておきましょう。
①土器川は、東は大束川、西は弘田川までのあいだで流路を変遷させて扇状地を形成した。
②丸亀市内における扇状地末端部にあたるのが平池南遺跡(現丸亀競技場)である。
③平池南遺跡の北側からは三角州が始まる。丸亀平野にその中間地帯はない。
④扇状地末端ラインは、先代池~聖池のでそこから北は湿地で、三角州や砂州が形成されつつあった。

  最後に出土品を一つだけ紹介しておきます。この写真は何だと思いますか?
IMG_0003

スタジアム部分から出てきた井戸です。3、5mの深さがあるようです。

平池南遺跡調査報告書 井戸jpg

太さ20cmほどの丸大で直方体の枠をつくり、その内側に板を並べ、一部では杭を打ち込んでいます。その内側にも九太を直方体に組み上げて、二重の九太によって矢板や杭を挟み込んで固定して、周囲の土圧に耐える構造にしています。一番上の九太の上には、花崗岩の切石を2段積み上げています。この石は現地で、加工したようで、石と石との間隙がほとんどないほど精巧に積み上げています。周囲への水による浸食や浸透を防ぐとともに、下部の構造物を押さえる役割を持たせていたのでしょう。職人の仕事です。
 天端から3.6m下が底で、砂礫層を掘り込んでいることが確認されています。扇状地の下の層まで掘り抜いているようです。丸亀平野では、地下水を得るための施設として、野井戸・堀・出水(ですい)がありました。
野井戸は、地下水を湧出させ、水路によって自然に流下させて灌漑に供する施設
堀は、方形で二間位の大きさ
井戸は、円形で径90㎝程度のもの
と定義されているようです。その定義からすると、これは井戸ではなく出水となるようです。いつ作られたのかは分からないようですが、昭和30年頃までは使われていたようです。地下水の出が悪くなったために埋め戻されたようです。  縄文時代以来、丸亀扇状地の末端微髙地に人々の生活の痕跡が残されています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。